2.タニア ―盟約暦1006年、秋、第12週―

 タニアはレッドドラゴン城を出て、夜の王都を歩き出した。


 かつては夜間でも警戒されることなく外出できたが、戦争が始まってからは警戒が厳しくなっている。三つある城門のうち、南に位置する正門以外は昼間でも閉ざされたままだ。正門は夜間でも通行できるが、衛兵の人数は三倍になり、近衛騎士がいることもある。


 トーニオと会うために城を出る時、普段は昼間や夕食前の短い空き時間を利用しているので特に咎められる事はなかった。仮に理由を問われても、「ちょっと買い物に」とか「友達に会いに」とでも言えば顔見知りのタニアが疑われる事はない。


 今夜のように夜間であれば、特に親しい衛兵や近衛騎士が当直の時を狙っていた。タニアは年頃の娘で、どちらかと言えば男性に好かれる部類だという自覚はある。


 しかし今夜は、予定していた外出ではなかった。だから怪しまれずに門を抜けられるかどうかは賭けであったが、タニアは幸運に恵まれていたらしい。当直は親しい衛兵で、しかも近衛騎士が不在の数分間に通してもらえたのだ。


 正門から続く下り坂は白竜門までまっすぐ伸び、門の先はハスト湖畔の桟橋まで道が続いている。このブレナダン通りは王都で最も多くの人が行き交う商店街で、宿屋、居酒屋などの飲食店、その他あらゆる商店が並んでいた。


 一般的にはベッドに入っていてもおかしくない時間であったが、まだ飲食店や宿屋を出入りする人々の姿はある。とはいえ、戦争が始まる前に比べれば、道行く人はずっと少ない。王都に住む人々の生活にそれほど大きな変化は見られないが、戦争の影響がないわけではないのだ。物価の上昇や物資の不足は少しずつ目立ってきている。


 以前は夜遅くまで出入りを許された王都の門も、日没前に閉ざされるようになり、不便になってしまった。ファランティアの北部や西部から、敢えて戦場に近い王都へ出向く人も減り、それが物流にも影響しているのだ。


 逆に、王都から逃げ出した人々は全体から見れば少数だった。ほとんどの人にとっては王都こそ故郷であり、北部や西部に生活基盤を持っているほうが少ない。それに、もし王都まで戦火が及ぶようなら、どちらにせよファランティア王国は終わりだと考える人も多かった。


 開戦当初は王都に足止めされていた外国人たちは、今や次々と脱出している。ホワイトハーバーを占領したアルガン帝国軍は、東部全域を占領しようとするような動きは見せていない。東部でもホワイトハーバーから離れた場所には、帝国軍の影も形もないのだ。それで、貿易海に面していて、かつホワイトハーバーから最も離れた場所にあるクリールという漁村に、誰かが目を付けた。それは、自前の船を呼べるような豪商かもしれないし、脱出を望む人間相手に商売しようと思い付いた船長かもしれない。いずれにせよ、クリールまで行けば国外に出られるという話は王都の外国人たちに知れ渡っている。


 しかし安全が保証されているわけではない。陸上にせよ、海上にせよ、帝国軍とばったり出会ってしまった場合にはどうなるか分からない危険はあるので、王都に残る判断をした外国人もいる。


 この状況はタニアにとって悪くなかった。あまりに街が閑散としてしまうと、うろうろしているタニアは目立ってしまう。逆に人が溢れていると、どこで誰に見られているか分からなくなる。


 タニアは環状道路の手前から路地に入り、人の視線に注意しながらさらに細い路地へと身体を滑り込ませた。そこは家と家の隙間で道と呼べるものではない。素早くスカートを脱ぎ、その下で膝上に巻き上げていたズボンの裾を解いて足首まで落とす。鞄から取り出した革のベルトに短刀を吊り下げ、同じく鞄から出した帽子の中に髪を隠した。腰まである肩掛けケープで女性的な胸を隠し、スカートなどを鞄に押し込んで、家の隙間から路地に戻る。


 よく見れば女性だと見抜かれてしまうだろうが、ちょっと見ただけなら男の子にも見える格好だ。柔らかい皮の靴で路地をひたひたと歩き出す。


 問題はいつトーニオに会えるか、であった。


 普段は事前に時間と場所を決めて会っているが、今夜のように緊急の場合には、指定された数箇所を順番に辿るようにと言われている。それぞれの指定場所で少し待ち、接触がなければ次の場所に行く、というのを繰り返すのだ。


 指定の場所は王都全域に散らばっているので、もし最初から最後まで一周していたら、もう間に合わないだろう。トーニオがタニアの動きに気付いていない場合も、朝まで王都をぐるぐる歩き回って、それで終わりだ。


 掲示板の前、パン屋の看板の下、環状道路の橋のたもと、公園の木立の中、平屋に囲まれた井戸の前――タニアは指定の場所を辿ってきたが、一向にトーニオからの接触は無い。


 歩いているうちに、タニアはだんだんと馬鹿らしく思えてきた。アルガン帝国の審問官を裏切り、トーニオに付くという危険を冒しているのはタニアのほうなのだ。なのに、彼の指示に従って夜の王都を一人歩き回されている。トーニオがタニアの命運を握っているというのは疑っていない。確かにあの男なら、どこへ隠れようとタニアを見つけ出して殺せると思える。


(……でも本当にそれだけなの?)

 タニアは自問した。


 付き合っている人がいるとマイラに言ったのは、咄嗟の嘘というわけではない。王都で会う時、人前ではそのように振舞おうと決めてあったからだ。そして実際、トーニオは上手かった。本当に演技なのかと疑うほどに。


 タニアの演技は彼女自身が思っていたほどには上手くなかったが、彼の演技があまりにも自然だったので、いつの間にかそれに乗せられていたように思う。もっと言ってしまえば――恋人同士を演じているという事を忘れた瞬間もあった。


 タニアは一瞬立ち止まり、小さな橋のたもとを見やる。そこは指定された場所ではないが、その茂みの中でタニアとトーニオは口づけを交わしたのだった。


(あれも、演技だったの?)


 唇にそっと手をやりながら、そんな事を思う自分にタニアは驚いた。演技以外に何があると言うのだろう。


(私はまだ審問官を完全に裏切ったわけじゃない。それは彼らも分かっているはず……)


 エリオが死んだという嘘の報告にしても、ばれていると考えたほうが自然だ。審問官はいつもタニアの知らない事を知っていた。だから、嘘だと知っていて泳がせていると考えるべきだ。


 この先、いざとなればトーニオを審問官に差し出す事もあり得る。エリオと審問官、どちらがタニアにとって都合が良いかというだけの話だ。


 そう考えると、タニアは強大な両者を天秤にかけている自分が偉大な存在のようにも感じられた。


 次の指定場所に向かうため、狭い路地を歩いていると突然「タニア」と背後から呼び掛けられ、驚きのあまり全身が硬直した。そのおかげで悲鳴を上げずに済んだが。


 ゆっくり振り返ると、暗闇の中に人影がある。姿ははっきり見えないが、声はエリオ――いやトーニオのものだ。


「なにがあった?」


 闇の中から聞こえる声は、二人で恋人のふりをしていた時の饒舌な彼のものではない。胸に小さな鈍痛を感じた自分に苛立ちながら、タニアは答えた。


「〝彼ら〟から連絡があった。今日、例のコインを王の寝室に仕込めって。明日の朝には誰かが見つけてしまうと言ったら、それで問題ない、だそうよ」


 闇の中から、ぬっとトーニオの手が伸びてきた。そしてタニアの肩を掴み、同じ闇の中に引き込む。もう一方の腕がタニアの腰に回され、彼女は身動きできなくなった。


「今夜、何かある……というわけか」


 タニアの耳元でトーニオが囁く。彼の胸の中でタニアは黙って頷いた。


「城に戻ったら自分の部屋から動くな。おそらくここを離れる事になる。小袋に入る程度の物なら持っていても構わない。準備しておけ」


「えっ、それってどういう――」


 トーニオは唇を重ねて、タニアの問いを遮った。彼女にとっては初めての、長い、本物の口づけだった。


「君も俺と一緒にここを出るんだよ。残れば、近衛騎士か審問官か……どちらかに捕まって、死ぬより辛い目に合うぞ」


 タニアはそうは思わなかった。そういう事態になれば、彼らより先にトーニオが自分を殺すだろうと確信していた。なぜ、そう言わないのか。優しさなのか、演技なのか。今の口づけにはどういう意味があるのか――タニアには何一つ分からなかった。


「さあ、急いで城に戻れ。俺もすぐに行く」


 突き放すようにタニアの身体は押し出され、トーニオとタニアは再び、暗闇と月光の中に分かれる。


「信じるよ?」と、タニアは言った。


「ああ」と、トーニオは答えた。


 タニアは小走りにその場を離れて、一度だけ振り返ったが、そこにはもうトーニオの姿は見つけられなかった。

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