13.ハイマン ―盟約暦1006年、秋、第12週―
ハイマン・ストラディスはずらりと居並ぶ騎士たちの中央で、馬上から敵の布陣を眺め、次いで自軍を見た。味方の騎士たちの磨き上げられた鎧は、日光を反射してピカピカと輝いている。汚れ一つない紋章旗が風にはためき、
新品の軍隊――という言葉がハイマンの脳裏に浮かんだ。そして、これから始まる戦いには勝てないだろうと思った。
王都ドラゴンストーンから東部へと通じる街道の封鎖地点で、ファランティア王国軍はアルガン帝国軍を迎え撃つ事になった。テイアラン王の意を汲めば、南部へ援軍を送っているはずの時期である。キングスバレーに集結した軍が南部へ出発しようという時、見計らったようにホワイトハーバーの帝国軍が王都に進軍を開始したのだ。
ハイマンは約一五〇〇〇もの兵を引き連れて王都を出発し、キングスバレーには急ぎ伝書を飛ばして出発を中止させ、さらに五〇〇〇の兵を王都に戻すよう命じた。
結局、ファランティア王国軍は――つまりハイマンは――帝国軍の動きに右往左往させられている。それに気付いても、この流れをどうやれば変えられるのかハイマンには分からなかった。
ホワイトハーバーから進軍してきたアルガン帝国軍は総勢一〇〇〇〇弱である。数だけみれば、ファランティア王国軍は圧倒的だ。常識的には負けるはずがない。しかし二倍以上の兵力を持ちながら敗北を喫した〈クライン川の会戦〉という前例がある。その戦いの様子はアリッサから聞いていたが、実際に対峙した今になってやっと、ハイマンは実感を伴って理解した。
アルガン帝国軍の歩兵部隊は、前列を
特定の役割を持つ兵を統合的に動かす戦術が、〝統合部隊戦術〟と呼ばれるものであるとハイマンは知っている。もっとも、実際に目にするのは初めてだ。
(まさか、このような形で見る事になるとはな)
ハイマンは冷笑的に思った。
ストラディス家は古くから続く戦術家の家系である。将軍職は世襲制ではないのだが、五代前よりストラディス家当主が将軍職に就いている。
戦いのない時代が長く続いたため、将軍職は慣習的に世襲されるようになり、名誉称号のような扱いになってしまっていた。ハイマンの父は、まさにそうした〝名誉職としての将軍〟そのものであった。
幼少の頃は疑問に思う事もなかったが、父はいつも家にいた。優しく柔和な性格で、それが外見にも表れている人だった。ふくよかで柔らかい父の手は触れると気持ち良かったし、いつも遊んでくれたので、ハイマンは父が大好きだった。時々、正装して登城する事もあったが、大抵は半日もすれば家に戻ってくる。だからハイマンの少年時代は、いつも父と母に囲まれて幸せの内に過ぎていった。
ハイマンが成長して物事を理解するようになると、父は自分の仕事について説明した。
「我が家の当主は代々、将軍職に任じられる。お前もそうなるよ。王国の軍隊で一番偉い人だよ」
楽天家の父と違って心配性だったハイマンは、その説明では不安だと父に言った。すると父は、「まだ早いかもしれないけど」と前置きして机から鍵を取り出し、常に施錠されていた部屋までハイマンを連れて行った。
開かれたその部屋は、埃っぽい空気と本のにおいに満ちていた。ぎっしり詰まった書架と、机が一つあるだけの小さな部屋で、机の上には一冊の本が出しっぱなしになっている。父は舞う埃を手で払いながら、その本を取ってハイマンに渡した。
「この部屋の本は、我が家が所蔵する戦術書や戦記などだ。これをお前に継承しよう。ここにある本を読めば、将軍がどんな仕事か分かるはずだよ」
父はそう言って、本の上に鍵を置いた。
最初に渡されたその本は、子供向けの戦記もので史実ではなかった。将軍が騎士たちを率いて悪い妖精と戦うという内容の絵本だ。
ハイマンも普通の男子同様に、戦記ものを読むのは楽しかった。それから徐々に史実に則ったものを読むようになり、戦術書にまで目を通すようになった。外国語で書かれているものや、古王国語で書かれたものもあって、それらを読むために辞書を引き、語学を学んだ。
若い頃のハイマンはまるで学者のように本で勉強する毎日だったが、その過程ではっきり分かった事がある。父は、これらストラディス家の遺産を全く活用した事がない。おそらく最初に渡された子供向けの絵本以外は開いてもいない。書架と本に積もった埃の量からもそれは明らかだったし、ハイマンが分からない部分について尋ねても、「うーん、お父さんも分からないなあ」と呑気に言うのだ。
父と共に登城するようになって、色々な事情が分かってくると、ハイマンは強い危機感を持つようになった。ドラゴンの守護は永遠ではない。そしてファランティアが平和を享受している間に、外国では戦術が進化している。
アルガン帝国が興り、エルシア大陸の各地で連戦連勝していると聞いて、その戦い方を学ばなければならないとハイマンは思った。それでアルガン帝国に留学できるよう手を回したのだが、時運がなく、父が闘病の末に亡くなってハイマンは将軍を継がなければならなくなった。たとえ飾り物だとしても、将軍が国を離れるわけにはいかない。ハイマンは国に縛り付けられてしまったのだ。
もし父が健在で、アルガン帝国か、東方で戦術を学べていたら――と思わずにはいられない。
(今さら何を……今は目の前の戦いに集中しなければ)
ハイマン率いるファランティア王国軍の布陣は単純なものだ。なんとなく並んだ騎士の集団が前面に立ち、その後ろに歩兵が雑然とした集団を作っているだけである。それでもハイマンが指示しなければ、彼らは同郷の騎士や衛兵たちに群がり、騎兵と歩兵が混ざり合った小集団の集まりになってしまっただろう。
この布陣は書物で学んだ最も基本的なもので、騎兵による突撃で敵を崩し、歩兵で制圧するという単純な戦術だ。騎兵と歩兵は前後に分かれる。それぞれ合図があったら攻撃開始。騎兵と歩兵は一緒に動かない――必要なのは、この三つだけだ。
(この場にギャレットがいたら、何かが変わっただろうか)
ハイマンは、ふと思った。
ファランティアに逃れてきた傭兵隊長の彼を、トーナメントに出場させるよう打診したのはハイマンである。ハイマンにとって、本物の戦場で最新の戦術を経験してきたであろうギャレットの知識は得難いものであった。だが、無名の外国人を登用することはできない。だからハイマンはギャレットの技量に賭けた。それは成功し、彼はトーナメントで実力を証明した。
自由騎士という称号を彼に与えるよう進言したのもハイマンである。そうして一歩ずつ、登用できるようにと進めてきた。残念ながらギャレットを活用できるようになる前に、事ここに至ってしまったわけだが。
しかし、結果だけ見ればギャレットは負け続きだ。サウスキープでも、〈クライン川の会戦〉でも。だからギャレットがいても何も変わらなかったかもしれない。
ファランティアの騎士は、一人の騎士が戦況を左右すると信じている。あわよくば、自分がそうなれれば良いとさえ思っている。しかしきっと、一人の騎士でどうこうできるものではないのだろう。将軍という権力を持った自分でさえ、一人では戦争の流れを変えられない。それどころか、勝ち目のない戦いにこれだけの人間を放り込もうとしている。
(いや、違う。何を悲観的になっているのだ。まだ戦いは始まっていないのだ)
ハイマンは馬上で自らの脚を叩いた。
ほとんどの戦術書には、戦の大原則としてこう書かれている。
〝数の多いほうが勝つ〟
今はそれを信じて戦うしかない。兵の割合を見ても、歩兵中心のアルガン帝国軍に対して、ファランティア王国軍は騎兵中心である。騎士の数が多いほうが有利なのは間違いないはずだ。歩兵のほとんどは普段畑仕事をしている農民兵だ。長い時間を戦闘訓練に費やし、しっかりした武具を身に着けた騎士のほうが圧倒的に強いはずだ――そうは思っても、不安は払拭しきれない。
ハイマンは不安と期待とが入り混じった、何とも言えない気分を味わっていた。
両軍が布陣を完了してから、しばらくしてアルガン帝国軍に動きがあった。指揮官らしき人物が、三人の騎士に守られて出てくる。そして両軍の中央で止まり、こちらの動きを待っている。
「一騎打ちか!?」と騎士の誰かが言い、ざわざわとハイマンの周囲が騒ぎ出す。
アルガン帝国軍が一騎打ちなどするわけがない、と思っていたが、もしそうならそうでハイマンは困った事になってしまう。ハイマンの技量は並みの騎士と変わらない。ステンタールやギャレットのような腕前はないのだ。
(だが、ここでこうしているわけにもいかん)
ハイマンは緊張した面持ちで前に出た。ストラディス家の近衛騎士ディーターとヨーナスが付いてくる。
両軍の中間地点でアルガン帝国軍の指揮官と対面したハイマンは相手をじっと観察した。見事な装飾の鎧兜に身を包み、日に焼けた屈強そうな男だ。きっちりと長さを揃えた口髭と顎鬚は取って付けたようだが、兜の奥の眼光は鋭い。
しかめ面という意味ではハイマンも負けてはいない。背筋を伸ばして相手の視線を受け止める。アルガン帝国の指揮官は、帝国語で話した。
「最初に言っておくと、そちらに勝ち目はない。布陣を見れば分かる。まるでゴブリンの群れだ」
指揮官に同行している帝国騎士の一人が、ファランティア語で通訳を始めた。顔立ちを見るにテッサニア人だろう。通訳を遮り、ハイマンは帝国語で言い返す。
「ファランティアにゴブリンなどいない」
帝国の指揮官は、感心したような表情を浮かべた。
「なるほど、言葉が通じるのだな。ならば話は早い。こちらは一時停戦を申し出たい。条件は、こちらの使者をレッドドラゴン城まで無事に送り届け、テイアランと謁見させる事だ。その話し合いの結果次第で、そちらが生きるか死ぬかが決まる」
思ってもみない申し出だった。そして、そのような条件を飲めるわけも無かった。それでは戦わずして降伏したも同然である。そしてその使者も、降伏勧告の使者に違いなかった。
ハイマンは心の中で騎士たちとその家族に詫び、ファランティア語で答える。
「断る」
「ならば、押し通るのみだな」
帝国の指揮官は余裕の笑みを浮かべて、通訳を介さず帝国語で返した。背を向けて自軍に戻って行く。
(もう後戻りはできぬ)
ハイマンは覚悟を決めた。
自軍に戻ったハイマンはそのまま、馬で騎士たちの前を走りながら大声で話した。将軍が話し始めたので、太鼓を持った従者が慌てて拍子をとり始める。
「よいか、ファランティアの騎士たちよ。そしてファランティアの戦士たちよ。戦いが始まる。ファランティアの平和を守ってきたドラゴンはもうおらぬ。竜騎士もおらぬ。であれば、我らがドラゴンにならねばならぬ。竜騎士にならねばならぬ。この戦いで敵の指揮官の首級を上げた者には、竜騎士の称号を授けるよう私から陛下に進言する。その栄誉を得られるは一人のみ。そして安心せよ、敵の指揮官は一騎打ちもできぬ臆病者であったぞ!」
わはは、という笑い声が騎士たちから上がり、太鼓の音も相まって気運が高まってきた。それを見て、ハイマンは再び声を張る。
「敵の騎士は我が方の半分。古来より騎士の数に勝る陣営が勝利するものだ。恐れずに立ち向かえ、外国人をホワイトハーバーまで押し戻し、そのまま海に投げ込んでくれようぞ!」
おう、という気合の声が騎士たちから上がった。
走るハイマンに合わせて、その声は戦列を広がっていく。彼らの目がぎらりと輝く瞬間を待って、ハイマンは叫んだ。
「いくぞ、ファランティア王国の騎士たちよ! 突撃!」
ハイマンは槍の穂先を、北側のクロスボウ部隊から一番遠い南側の歩兵部隊に向けて叫んだ。響く角笛の音、激しく連打される太鼓、気合の声と馬の嘶き、そして跳ね上がる土。地響きを立てて、甲冑に身を包んだ騎士たちはアルガン帝国軍に向けて突撃を開始した。
先んじて飛び出した騎士たちがハイマンの示した方向に向かったので、他の騎士たちも南端の歩兵部隊めがけて突撃して行く。思い通りに騎士たちが動いたことで、ハイマンはこの戦いが上手く行くかもしれないと思った。
走り去る騎士たちの後ろからは敵軍の動きがほとんど見えない。そしてファランティアの騎士たちが突撃して行き、その向こうに敵軍が見えるようになってハイマンはぎょっとした。
南北に並ぶ三つの歩兵部隊のうち、真ん中の歩兵部隊が後方に移動して、北側のクロスボウ部隊が南側に向きを変えていく。まるで一つの考えを共有しているような動きだ。それは、ただの農民兵にできるはずのない動きだった。
(訓練された農民兵……だと? わざわざ農民兵に訓練を施すという手間をかける……)
まるで頭を殴られたような衝撃だった。見事な布陣がはったりだとは思っていなかったが、全体がここまで統率された動きをするとは予想を超えていた。歩兵は農民兵であり、農民兵はしょせん農民という常識が音を立てて崩れる。
ハイマンが驚いている間に、ファランティアの騎士たちと帝国軍の歩兵部隊は激突した。悲鳴と怒号が入り混じり、激しい騒音が戦場に響き渡る。
ファランティア騎士の突撃は、歩兵部隊を打ち破ったように見えた。
だが、反対側に突き抜ける事はできていなかった。そのため食い込み過ぎて身動きが取れなくなっている。それが敵の狙いだったのか、偶然そうなったのかはハイマンにも分からない。
しかし接近戦になっても騎士は強い。敵中で何とか方向転換し、敵軍歩兵部隊の前面にいる味方と合流して、敵のいない南へ逃れた。
それこそ、敵の狙いだったに違いない。敵陣後方に控えていた帝国軍の重装騎兵が前進して退路を塞いだのだ。南進するファランティア騎士は、西進する帝国軍騎士によって足を止められた。両軍はそのまま接近戦に突入する。重装備の騎士同士の戦いはお互いに決定打を与え難い。戦いは膠着し、動きは止まっている。
これはまずい――ハイマンは慌てて味方の歩兵に指示を出した。
「全軍、前進。敵のクロスボウ部隊を狙う!」
今度は自ら歩兵たちを指揮してクロスボウ部隊に向かう。敵のクロスボウ部隊を何とかしなければ、味方の騎士たちは背後から
ハイマンは自身の経験不足を痛感せざるを得なかった。頭の中の戦場では、味方の騎士が敵の歩兵部隊を突き崩し、そのまま突撃を繰り返して敵陣をかく乱している隙に、ハイマン率いる歩兵部隊が敵クロスボウ部隊に接近する手筈であった。
(これならばいっそのこと、同時に突撃したほうが……いや、それでも結局は……)
ババン、というクロスボウの発射音にハイマンは顔を上げた。悲鳴と共に味方の前列が倒れる。南に向いていた敵のクロスボウ部隊は、またもや向きを変えて、ハイマン率いる歩兵部隊に正対していた。後退した敵軍中央の歩兵部隊も動いているようだが、それを見る余裕はハイマンには無い。
敵の
「怯むな、走れ! 止まったら死ぬぞ!」
ハイマンは恐怖心に訴えるように叫ぶ。
(それでも、接近戦に持ち込めさえすれば、数で圧倒できるはずだ!)
目の前で繰り広げられる殺戮に、戦場全体を見るのも忘れてハイマンは思った。
だから、帝国軍の軽騎兵が背後から迫っている事に気付けなかった。
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