12.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第11週―

 ランスベルは剣を背負って部屋を出た。敵がいるかもしれない、という警戒心が僅かに動きを固くする。大広間の手前を左に入る扉の前には衛士が立っていた。


「おお、竜騎士殿!」


 衛士は姿勢を正し、感動した様子で言う。


「単身で敵に突入していく姿は歌に聞く勇者そのものでした。遠目にですが、あなたがオークの呪術師と戦うところも見ました。あなたのように戦えたらと、思わずにはいられません」


 ヒルダの部屋を警護している衛士にまで敵の手が伸びているとは思いたくないが、ランスベルは少し緊張した。


「ヒルダ女王にお目通りは叶いますでしょうか?」


「少々お待ちを」

 そう言って衛士は通路に入り、そしてすぐに戻って来た。

「どうぞ。お会いになるそうです」


 ランスベルは衛士に案内されて、通路の一番奥の部屋に入った。そこはつい先日までスヴェン王が使っていた部屋だ。中に入るのは初めてだが、内装はほとんど変わっていないだろう。


 部屋には開いたままの本や巻物、書類が散乱していて足の踏み場もない有様である。テーブルを挟んで向かい合い、ヒルダとマグナルが座っていた。二人とも疲れ果てた顔をしていて、指先はインクで汚れている。


「何用かな、竜騎士殿」と、ヒルダは他人行儀に言った。


 まるで人が変わってしまったようで少し面食らう。だが、それも当然である。彼女は今やスパイク谷の王なのだ。


 昔のヒルダにはもう会えないのか――ランスベルが感傷的になっていると、マグナルが顔を上げる。


「手短に願います、竜騎士殿。我が王は、ご覧のとおり褒美と報償の一覧を作成するのに忙しいのです」


「はい。実は――」


 言いかけたランスベルの言葉は、ヒルダによって遮られた。


「ふむ、それについては一時、マグナルに任せよう。なにせ、この男は私の代理戦士だ」


 その物言いには冗談めかした雰囲気があり、口元には笑みが浮かんでいる。ヒルダのそんな顔を見るのは、とても久しぶりのように思えた。


 マグナルは明らかに不服な様子で顔をしかめる。


「お言葉ですが、我が王よ。代理戦士は書類と格闘するためにおるのではございません」


「王の不在に、その責務を預かるのも代理戦士の重要な役目だ」


 そう言ってヒルダは立ち上がった。口を開いたマグナルに先んじて、言葉を続ける。


「こちらへ参られよ、竜騎士殿。用件を伺う」


 ヒルダはマグナルを無視して、さっさとテラスへ続く大きな窓に歩いて行った。その後を追いながら、ちらりと横目にマグナルを見ると、太った老戦士は明らかに恨みのこもった目でランスベルを見ている。


「すみません」と小声で謝って、ランスベルはヒルダを追ってテラスに出た。


 その小さなテラスは初めてこの城を訪れた時、〝あそこからの眺めは最高だろうな〟と思った場所だ。そこは予想に違わず、素晴らしい眺望であった。城から突き出ているテラスは、崖の上に張り出した岩棚よりも前に出ているので、まるで空の上に浮かんでいるようである。手すりは高くしっかりしているが、風の強い日などは近付かないほうが良さそうだ。落ちたら下には何も無い。


 丸いテーブルと、それを挟む二脚の椅子は雪に白く覆われている。テラスには雪掻きの跡が残っているが、また積もってしまったのだろう。


 椅子の一つを持ち上げて雪を払い、ヒルダは腰を下ろした。長い足を男性のように投げだして背もたれに寄りかかる。


「あー、疲れたよ、ホントに……」

 そう呟く彼女は、昔のヒルダだった。


「ここでは普段どおりで構わない。座りなよ」


 ヒルダに勧められて、ランスベルも反対側の椅子から雪を払って座った。もう素顔のヒルダには会えないだろうと思っていたので、少し嬉しくなる。


「アンタが来てくれて助かった。マグナルのやつ、あんな小うるさい男だとは思わなかった」


「マグナルさんがいてくれて、良かったですね」


 むっ、とヒルダは唸った。痛いところを突かれた、という感じだ。それで、ふいと視線を谷のほうに向けて問う。


「で、用件は?」


 夜風に吹かれて揺れるヒルダの金髪と、凛々しい横顔を見ながらランスベルは用件を告げた。


「明日、発ちます。滞在中は本当に良くして下さって感謝しています」


「……そうか、使命があるんだものな」

 谷を見下ろしながらヒルダが言った。


 ランスベルもヒルダの視線を追って谷に目を向ける。灰色の雲と、山の黒い影、それ以外は全てを覆う雪の白だけ。色とりどりに飾られた王都とはまるで違う世界がそこにある。


 眼下に目を向けると、エイクリムの町が見えた。ぽつぽつと灯った光は、どれも暖かそうだ。今の服装では寒いが、冷たく澄んだ風は、もやもやとした不安や悩みを吹き消してくれる。


 ブラウスクニースの夢の中で飛んだ空を思い出すので、ランスベルは高いところが好きだ。


 ふいに、ヒルダが口を開いた。

「アンタの気持ち、アタシにも分かるようになった」


 えっ、とランスベルはヒルダを見る。


「アタシは親父の跡を継いだんじゃない。スパイク谷の王を継いだんだ。親父だけじゃなく、その前の前の前の……王と呼ばれる前の最初にスパイク谷を拓いた人から、ずっと続いてきたものをさ。それはアンタも同じだろうって思ったんだ。アンタは最後の竜騎士だ。アンタも先代の、その前の前の前の……最初の竜騎士からずっと続いてきたものを受け継いでいるんだろう」


 ランスベルは思わず腰の〈竜珠ドラゴンオーブ〉に触れた。ヒルダは〈竜珠ドラゴンオーブ〉の正体を言い当てている。


「それはとてつもなく重いものだ。アタシでさえ、これからずっと支え続けられるのか不安になる。でもスパイク谷にはこういう言葉がある。〝重さは力だ〟ってね。そりゃあ、武器は重いほうが良いっていう意味なんだろうけど、アタシたちには違う意味にもなる。わかるだろ?」


 ランスベルはすぐに同意できなかった。最後の竜騎士を継いだ時から持っているべきだった覚悟の話を、彼女がしているのは分かる。しかし、ランスベルには自信がなかった。そんなランスベルの表情を見て、ヒルダは話を続ける。


「この重さは命の重さだ。背負い続けるには、相応の力と勇気が必要になる。それは、ただの戦士には持ち得ないものだ。アタシはこれを未来の王たる者に渡す時まで、背負い続け、守り続けて行かねばならない。その道のりを思うと、正直に言って、怖い。でもアタシにはマグナルや、従ってくれる大勢の戦士たちがいる。これからアタシの背中を見て育つ子供たちがいる。それが支えにもなるんだ。だから……アンタの事が心配だ」


 ランスベルはふと、かつてホワイトハーバーでギブリムと交わした言葉を思い出した。


 〝――だがランスベル、お前は戦えるのか? 戦えないのなら、会うべきではない〟


 ギブリムが問うていたのは、他人に対して力を振るえるのか、という単純な意味ではなかったかもしれない。困難に立ち向かう心の強さ、覚悟の有無を、問うていたのかもしれない。


 〝戦える、とは言えない……でも、やってみるよ〟


 そう答えたランスベルに、彼は〝わかった〟と言ってくれた。その一言が、あの時、確かにランスベルを支えてくれた。


 そしてアンサーラ。彼女はランスベルの心が袋小路に迷い込むと、颯爽と現れて、先に進めるよう導いてくれる。


「僕には、アンサーラとギブリムがいてくれるから大丈夫です」


 ヒルダはふっと微笑んで、「そうだな」と呟いた。


「たぶんアンタの使命とやらは、受け継いできたものを誰かに託すという事なんだろうけど――」


 ランスベルはまたも驚かされた。ヒルダは最後の竜騎士の使命までも見抜いている。ランナルに〝ドラゴンの力〟について話したという男の存在が頭を過ぎったが、ランスベルに向き直った彼女の目に後ろ暗いものは無い。その瞳に真摯な光を宿して、彼女は言った。


「――それが終わったら、この谷で、アタシの近くにいてくれないか」


 その誘いには、単純にランスベルを家臣として迎えたいという以上の意味があるに違いなかった。ランスベルは嬉しくて、苦しくて、胸が一杯になった。


 誰かに必要とされる事――思えばランスベルは、幼い時からただそれだけを求めてきた。


 自分が誰かにとって価値のある存在でありたい、という強い欲求が自分の心に秘められている事を、この時ランスベルは自覚した。竜騎士になったのも、自分が必要とされていると感じたから、それだけだ。ドラゴンの力が欲しいとか、世界の果てまで冒険したいとか――両親と対決したいとか、思ったわけではないのだ。


 ランスベルはまたもや、竜騎士であるために決断しなければならなくなった。


 しかし、重荷を捨てて使命から逃げたランスベルをヒルダは求めていないだろう。だから心が引き裂かれるような苦痛を感じながらも、ヒルダの言う〝勇気〟をもってランスベルは答えた。


「ありがとうございます。本当に嬉しいです。でも、ごめんなさい、ヒルダさん。僕は、もう二度と帰って来ません。あなたとは明日、今生の別れになります」


 ヒルダは目を丸くして、「アンタの使命はそういう……」と言って、言葉を詰まらせる。


 二人はしばらく黙って、夜のスパイク谷を眺めた。


 ゴルダー河の源流は、町の灯りをぼんやりと映している。誰かの笑い声や、子供を呼ぶ母親の声が、谷を反響して微かに届く。荒々しい戦士たちの、平和な日常がここにある。戦いに勝てて良かった、とランスベルは素直に思った。


 竜騎士にならなかったら、きっと見ることのなかった景色。得られなかった経験。出会わなかった人々――それらを思うと、充分に命を捧げる価値があるように思える。


 まるで独り言のようにヒルダが呟いた。

「竜騎士も、〈大地の館〉に行くんだろうか」


「分かりません」


 ランスベルが答えると、ヒルダはニヤリとした。


「そうだね。分からない。最後の竜騎士はアンタが最初で最後だ。だから本当のところ、どうなるのかは分からないんじゃないか?」


「そう……ですね。そうなると言われているだけで……」


 ランスベルは言葉尻を濁した。確かに、旅の終わりがどのようなものになるかはランスベルも知らない。


「だから勝手に期待させてもらうよ。アンタにまた会えるかもしれないとね。たとえ、そうならなくても誰も恨んだりしない。それくらいなら良いだろ?」


 ヒルダの笑顔に、ランスベルは困ったような微笑みを返した。


 翌朝、ランスベルたちは城の玄関で出発の準備を整えた。


 ランスベルとギブリムは毛皮で裏打ちされた外套クロークや手袋、ブーツなどを鎧の上から着込んでいるため、身体が二周りも大きくなってしまったように見える。荷物を背負うために、竜剣ドラゴンソードは腰に下げているが、体格に比べて長過ぎる剣は吊り下げているというよりも括り付けられているようである。


 毛皮に覆われたギブリムはずんぐりして玉のようだ。


 アンサーラだけが、普段の服装のままで防寒具を身に付けていない。魔法で守られているため防寒具は不要らしい。


 三人とも大きな荷物を担いでいるが、ギブリムは二倍もの荷物を背負っている。荷物を背丈に含めれば、ランスベルより高くなるほどだ。荷物の大半は食料だが、雪山で必要になるであろう、股下まである長靴ウェーダーや荷物を載せるための組み立て式、両手に持つ短い杖、かんじきスノーシュー――ランスベルはこれらの道具を初めて見た――も含まれている。


 全て、勲功として受け取った毛皮と、ここまで乗ってきた馬とポニーを売り払って購入したものだ。


 山の頂は灰色の雲に覆われ、積もった雪で白くなっている。かなり雪深くなっているのは素人のランスベルにも想像できた。あと三日もすれば山は雪で閉ざされる、と誰もが言い、これから山に入れば戻って来られなくなるから春まで出発を見送るべきだと忠告もしてくれた。


 それでも山に向けて出発するランスベルたちは、とんでもない命知らずの頑固者だと思われている事だろう。


 この場には他に、ヒルダとマグナルも来ていた。数人の衛士たちも、その後ろに控えている。その中にランナルの姿はない。


 ヒルダは昨晩と違い、きちんと身なりを整え正装していた。堂々と胸を張り、両の拳を腰に当てて立つ姿は王の風格さえ感じる。


 出発の準備が済んで、ランスベルはヒルダに頭を下げた。


「我らの出発に際し、ヒルダ女王自ら来られるとは恐縮です」


 他人行儀な物言いにも、ヒルダは以前のように文句を付けることはない。


「うむ。先の戦いにおける我らが英雄たちの出立を見送らぬようでは、恩知らずと思われてしまう」


 続いてマグナルが口を開いた。


「皆様には大変お世話になりました。亡き先王に代わって、心よりお礼申し上げまする。特に、アンサーラ殿には……」


 全員が一瞬、その言葉の続きを待ったが、マグナルは禿げ上がった頭頂部まで真っ赤にしただけで、結局何も言わなかった。


 それからヒルダは手袋を外し、一人一人と握手を交わしていく。最後にランスベルの手を握って、若き女王は言った。


「一つだけ忠告させてくれ、最後の竜騎士。人は誰しも、迷いと恐れを心の内に持っている。スパイク谷では優しさは弱さだとされているが、お前と出会って私は考えを改めた。優しさは人の心を支える力になる。だが、優しさも迷いも捨て、恐れを知らぬ戦士のように振舞わねばならぬ時はある。その時を見誤るな」


 じっとランスベルの瞳を見つめてヒルダは言った。握った手に力が入る。ランスベルは頷いた。


「ありがとうございます。ヒルダ女王。お元気で」

 そして二人は手を離し、ランスベルたちは城を後にした。


 城から離れるにつれ、寂しさがランスベルの胸の内でじんわりと広がっていく。最後にもう一度と、振り返ろうとした時、背後からヒルダの声が聞こえてきた。


「マグナルよ、アンサーラが行ってしまうが、良いのか?」


「なっ、ななっ、なにがです!?」


 狼狽して裏返った老戦士の声に、ランスベルは思わず笑みを浮かべた。同時に響くヒルダの大きな笑い声。その声に背中を押されて、ランスベルは振り返ることなくエイクリムを後にした。


 谷の上の、エイクリムが一望できる場所まで来ると、アンサーラがランスベルを呼び止める。


「ランスベル」


「うん?」


 振り返ると、アンサーラはエイクリムの町外れを指差している。そこはランナルの実家で、革を商う店だ。家の裏にある作業場から手を振っている人影がある。


「ランナルさんです。何か言っていますね」と、アンサーラが教えてくれた。


「わかる?」


「ええ、魔法で声を運びましょう」


 アンサーラが短く歌うように呪文を唱えると、風に乗ってランナルの声が聞こえた。


 〝――戦士はやめだ。お前がなれなかった商人になってやる。ざまあみろ〟


 ランスベルは嬉しかった。そして、頑張れよ、という思いを込めて大きく手を振る。


 アンサーラに頼めば魔法で声を届けてもらえるだろうが、言葉にしないほうが、伝わる思いもあるような気がした。

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