10.ヒルダ ―盟約暦1006年、秋、第11週―
ヒルダは父の死を瞬き一つすることなく、はっきりとその目で見た。誤魔化しようもなく、父は死んだ。戦士たらんとした立派な最後だった。勇敢に戦って死んだのだ。
(涙など見せるものか)
溢れ出ようとする涙を止めるため、ヒルダは目に力を込めた。
突撃してくるオークたちは勝利を確信している。ボッグルデックの姿は集団の中に隠れてしまったが、巨体のオークが再び頭に乗せた兜の飾りがヒルダには見えていた。
前に飛び出そうとするランスベルの肩をヒルダは掴んだ。ランスベルの動きは素早いが、彼がそうするであろう事は予測できていた。
「ボッグルデックはアタシが殺る。アンタは手を出すな」
ランスベルは一瞬迷ってから、頷いて答える。
「……わかりました。僕は敵の呪術師を倒します」
スパイク谷の戦士たちはほとんど戦意喪失している。突出しているヒルダやマグナルを含む集団は踏み留まっているが、後方の戦士たちは戦場を離れようとしている。
(親父、少しで良い、アタシに時間をくれ)
ヒルダが願ったその瞬間、すぐ近くからハンマーが空気を震わせながら飛んで行った。向かってくる集団の先頭にいた不運なオークの胸に穴を穿ち、血と肉を撒き散らす。さらにその後ろにいたオークが二人、馬にでも追突されたように空中へ跳ね上がった。
ハンマーを投げたであろうドワーフを見ると、すでに槍を手に構えて投げる態勢に入っている。その短い手足からは想像もつかない勢いで投擲された槍は、命中したオークの胴体を貫通して、その後ろにいた三人のオークをまとめて串刺しにした。
突然の恐るべき攻撃に、オークたちは気色ばんだ。慌てて立ち止まろうとした先頭集団が、後ろから来る仲間に押し倒される。その混乱をついてギブリムが言った。
「ランスベル、一番後ろに隠れている呪術師が魔法を維持している」
「分かるの!?」
「うむ。急げ」
ヒルダにはよく分からない短いやり取りの後、ランスベルは風のように敵陣へと突っ込んで行った。
ギブリムが両手を振り上げると、右手に
「話せ。今のうちに」
ドワーフは再びハンマーを持ち上げた。最初に投げたものと全く同じもので、オークの血さえ付着している。ドワーフのギブリムは七つの魔法の武器を持っている、と伝説には語られている。
ヒルダはドワーフに心の中で感謝した。この機を逃してはならない。胸が張り裂けるほどに冷たい空気を吸い込むと、大きな声と共に吐き出した。
「聞け、戦士たちよ! 王は死んだ! 挑戦権の行使によるものでない場合、王位はその息子が、息子がない場合は娘が継承する。ゆえに、私が今この瞬間からスパイク谷の王である! 私には従えぬ者、不服ある者はこの戦場から去れ! 今ならば、臆病者のそしりを受けることはないと約束しよう。そうでない者は我に続け! 私がお前たちを〈大地の館〉に導いてやる。先王の仇を討ち、我々の世界を守るのだ!」
ヒルダの声は〈黒の門〉に響き渡った。
うおおっ、というヒルダに応じる戦士の雄叫びが彼女を中心に上がり、その声がスパイク谷の戦士たちに伝播していくと、やがて一つの雄叫びとなった。
その瞬間を待って、ヒルダは号令する。
「いくぞ、戦士たち! 勝利の栄光は我らのもの!」
「勝利の栄光は我らのもの!」
ヒルダの声に続いて叫び、スパイク谷の戦士たちは敵に向けて駆け出す。
かくして戦端は開かれた。
激突するスパイク谷の戦士たちとオークの向こうに、ヒルダはボッグルデックを見ていた。仇敵を見据えたまま、ヒルダはマグナルに命じる。
「マグナル。親父の体を」
「承知しました、我が王」
マグナルはそう言って、倒れた先王の遺体を守るために数人を連れて敵集団へと切り込んで行く。
「他の者は私に続け。敵を討つ」
先ほどまでとは打って変わった冷静な口調でそう言うと、ヒルダは見据えた方向へと大股で歩き出した。
「我らの王に続け!」
戦士たちは声を掛け合い、ヒルダの周囲を固める。ヒルダと周囲を囲む精鋭たちは、次々と目の前に現れるオークたちを打ち倒してボッグルデックを目指した。
まさに鋭い
返り血に染まったヒルダの、兜の奥の青い瞳はぎらぎらと輝いていたが、彼女は憤怒に突き動かされているのではなかった。オークを一人殺すたびに力が増していくようで、それは怒りの力に似ていたが、彼女は冷静そのものだった。
(親父……)
心の中で、この戦場に倒れた父に問いかける。
(親父……この力はなんだ。アンタが力を貸してくれているのか?)
ヒルダは自分が並みの戦士ではないという自覚があった。だから、〈骨の湿原〉での戦いでは北方最強の戦士と言われるブランに戦いを挑んだ。渡り合えるのは自分しかいないと思っていたのだ。
二人の戦いを見た者は皆、ほとんど互角の戦いだったと彼女に言った。それは気遣いではなく本心だと思えたが、実際に戦った彼女自身はそう感じていない。むしろ、決定的な差を感じたのだった。それは決して越えられない壁のようであり、ヒルダは初めて負けを認めた。
相対したブランもそれは分かったはずだった。しかし彼は他の者同様に「ほとんど互角だった」と言った。ブランはヒルダに対して正直ではなかったのだ。
だからヒルダはブランを信用していない。しかし自分を負かした男であるのは事実であり、そして父が「あの男について行け。いずれ世界を統べるやもしれぬ」と言ったので、ヒルダはおとなしくブランに従ってきた。
だが今、彼女は決して越えられないと思っていた壁を越えて、ブランのいる世界に到達したように感じていた。目の前のオークと戦ってはいるが、見えてはいない。ヒルダの心はこの戦場全てを、スパイク谷を見ている。
(そうか、親父だけじゃない。スパイク谷の王を継ぐという事は、これまでの全ての王が、全ての戦士たちが、守ってきたものを受け継ぐという事なんだ。アタシは……一人であって一人じゃない)
それに気付いた時、目の前にはボッグルデックが立ちはだかっていた。
「女」
巨体のオークはヒルダを見下ろし、口を歪ませた。ヒルダはその視線を正面から受け止めてオークを見上げ、そして自分でも驚くほど冷静に、確信を得て宣言する。
「お前では無理だ。私を相手にすれば、お前は死ぬ」
強大な敵と感じていたボッグルデックが、今はただの太り過ぎたオークにしか見えない。
その言葉をボッグルデックが理解したかどうか分からないが、巨体のオークの目に恐れが浮かんだ。自らそれを拒絶するように、牙を突き出して唸る。威嚇されても、ヒルダは何とも思わない。
「ヴォォッ!」
ボッグルデックは気合の声を上げて〈オーク斧〉を持ち上げようとした。だが、全身をぶるぶると揺らせるだけで、〈オーク斧〉は持ち上がらない。
「ファグ!?」
ボッグルデックは目を丸くして驚いたような声を上げ、自軍の後方を見やった。
そこに何があるのかヒルダは知らない。先ほどのランスベルたちの会話に、その答えがあるのかもしれない。しかし今はどうでもいい事だったし、その隙を見逃してやるほどヒルダは甘くない。
大股で二歩、前に進み出て、振り上げた
長くしなやかな腕が弧を描き、
ただの一撃で終わった勝負に、周囲にいる者は敵も味方も、一時戦いを忘れた。
ヒルダが
「私はスパイク谷の王だ。お前ごとき、相手にならん」
その言葉に周囲の味方はワッと歓声をあげ、敵は悲鳴をあげて逃げ出した。
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