7.ランナル ―盟約暦1006年、秋、第11週―
今、ランナルの目の前ではランスベルとアンサーラが剣を構えて対峙していた。
ここは城内の裏庭で、人が入ってこないよう扉の前にはドワーフのギブリムがどっかりと腰を下ろしている。ドワーフは瞑想しているようにも見えるが、ランスベルの話によると魔法に集中しているらしい。
その隣で、ランナルは壁に背を預けている。
これから始まる訓練は、他言無用と約束させられていた。
ランスベルたちがエイクリムに滞在すると知ったランナルは、たびたび彼の元を訪れた。ほんの一歳しか違わないランスベルが竜騎士などという大層なものである事に興味を持った、というのがきっかけではある。
彼を連れ出す口実として町を案内し、実家にも連れて行くうちに、ランナルはランスベルを気に入った。同世代で、話を黙って聞くランスベルは話しやすい相手だったし、二人とも実家が商売をしているという共通点は話題にしやすかった。
客との商談が長引いている父親を待って食事がいつまでも始まらなかった事とか、取引相手らしい知らない大人に突然声をかけられて驚いた事とか、将来は自分も商人になるのだろうと漠然と思っていた事とか――そして二人とも、商人にはならなかった事とか。
違いがあるとすればランナルは長男であり、ランスベルは次男であるという点だ。つい先日も、このような話をした。
「ランスベルは次男で良かったな。長男なんて、家業を継ぐものと親は決めつけてるからな。実家に近寄りがたいのは、あのクセェ臭いもあるけど、いまだに家業を継いでくれるっていう無言の期待が嫌なんだよ」
「もし僕が長男だったら、きっと迷う事なく家業を継げただろうな」
「それって、次男で家を継げないから竜騎士になったってことか?」
ランスベルは苦笑した。
「いや、そういうわけじゃないけどね。たまに考えることはあるよ」
ランスベルと親交を深めるほどに、吟遊詩人に歌われる白竜騎士ビョルンのような遠い存在ではなく、もっと身近な存在だと思えるようになっていった。だからこそ、ランスベルからヒルダと戦ったという話を聞いた時、「負けたよ」という彼の言葉を聞いて安堵したのだ。
ランナルにとってヒルダは恐るべき戦士である。別世界の人間と言ってもいい。そのヒルダをランスベルが負かしてしまっていたら、ランスベルもまた別世界の存在という事になってしまう。
気安く話せるようになってから、ランナルはランスベルに竜語魔法を見せてくれと何度も頼んでいた。そう簡単に使えるものじゃない――と断られ続けたが、しつこく食い下がった結果、「誰にも話さない」と誓った上でついに見せてもらえる事になったのだ。
それで休息日の今日、ランナルは登城してこの裏庭に来ている。
エルフのアンサーラがランスベルに向けて言う。
「ドラゴンの力を使っても、オークの女王は圧倒できるか分かりません。力を使った訓練もしておく必要があります。魔法も使いますから、注意してください」
ランスベルは頷き、はっきりと魔法の言葉を口にした。
『ブラウスクニース、我に力を』
その言葉はランナルにとって未知の言語であるにも関わらず、意味が理解できるという不思議なもので、さっそく驚かされた。竜語はそれ自体が魔法であるというのは本当だったのだ。
ランスベルの亜麻色の髪がふわっと風に持ち上がったように見え、次の瞬間、アンサーラとランスベルの姿が消えた。
あっ、とランナルが思った時には、両者の剣戟が火花を散らし、音が響く。二人は重さを感じさせない動きで、目にも留まらぬ速さだ。ランナルの心臓が一拍する間に、二回か三回は剣を振るっているように見える。
アンサーラが未知の言語で歌を口ずさむと、見えない空気の圧力にランナルは壁に押し付けられた。次の瞬間には前方に身体が引っ張られ、そして爆発的な強風でまた壁に叩きつけられる。何が起こったのか分からず、目がチカチカする。
視界の隅で空中に飛ばされるランスベルらしき影が見えたので、エルフの勝利で終わったのかとランナルは思った。だが驚くべきことに、ランスベルは城壁を蹴って右から左にと空中を移動してエルフの背後に回り込み、斬りかかる。
エルフは身を捻ってその一撃を避け、竜巻のようにその場で回転しながら、両手の剣で反撃したようだった。ランスベルが剣を盾のようにして、細かく角度を調節しながらそれを受ける。
重なり合う剣戟の音と、散らした火花で、たぶんそういう攻防があったのだろうとランナルは想像するしかない。
アンサーラがまた何か歌を囁きながら後ろに跳んで距離を取ろうとした。それを追おうとしたランスベルが、突然がくんと動きを止める。見ると地面から伸びた植物の根が、足首に絡みついている。ランスベルは力ずくで根を引きちぎったが、一瞬足元を見てしまったのが命取りだったのだろう。
後ろに跳んだエルフは、まるで風に巻かれた木の葉のように、方向転換してランスベルに向かって飛んだ。すれ違いざま、空中のアンサーラと地上のランスベルとの間で攻防があり、エルフはくるりと前転してランスベルの背後に着地する。振り返ったランスベルとアンサーラは、剣を打ち合いながらお互いの位置を入れ替え、そこで動きをぴたりと止めた。エルフの細く鋭い刃がランスベルの首に突き付けられている。
激しく動いていた両者が急に止まったためか、風がぶわっとランナルの顔に吹き付けた。
「右手の剣の動きに引っかかってしまいましたね。直前の魔法で気が散りましたか」
アンサーラはそう言ってから、剣を引いて話を続ける。
「それとやはり、攻撃に思い切りが足りません。わたくしが相手の訓練だからでしょうけれど、訓練で癖になると実戦でもそうしてしまいますよ。相手はどんな手段を用いてでも、あなたを殺そうとしてくるのです。あなたもそのつもりで戦わなければ」
ランスベルはがっくりと肩を落とした。
「そうだね……前にも言われたよ。殺すつもりで剣を振るえって」
そう言って剣を鞘に戻すと、アンサーラも同様にした。訓練は終わりのようだ。
ランナルはしばらく呆然としていた。意気消沈したランスベルが歩いてきて我に返ると、思わず叫ぶ。
「すげえ!」
そしてランスベルに駆け寄り、その肩を掴んで連呼する。
「すげえ、マジですげぇよ! すっげぇ! すっげぇ! マジで!」
ランナルはヒルダとブランが戦場で戦う様を見ていた。その時、普通の人間には手の届かない世界があるのだと知り、悔しかった。あの二人は英雄と謳われるような種類の人間であり、自分とは違うと分かってしまったからだ。
だがランスベルとアンサーラは、その二人すらも遥かに凌駕した戦いの世界を見せてくれた。もはや同じ人間とは思えない。ゆえに、ただ驚異に対する感動しかない。
あまりに「すげえ」を連呼したせいか、ランスベルは恥ずかしそうに顔を赤らめ、手を左右に動かして言った。
「いや、すごいのは魔法の力だよ。僕がすごいわけじゃないよ」
「そうなのか?」
ランナルの問いに答えたのはギブリムだった。
「謙遜するな。魔法も道具と同じ。使いこなすために相当な訓練を積んだはずだ」
ランナルは「ああ」とか「うむ」とか以外にギブリムの声を聞いたのは初めてだったが、今は竜騎士の戦いに心を奪われていて気にも留まらなかった。
「ほら、やっぱりお前がすごいんじゃないか。ヒルダ様と戦った時は本気じゃなかったんだなあ!」
「ちょ、ちょっと、それ絶対に言わないでよ! 約束覚えてるよね!?」
慌てたランスベルはランナルの肩を掴み、前後に揺さぶる。その動揺の仕方は普通の人間と変わりない。
「わかってるって。言わないよ、絶対。ああ、俺、今日見た事を忘れない」
ランナルはそう言って、胸に手を当てて目を閉じた。見たものをしっかりと覚えておくために。
城を後にしたランナルは、西日で真っ赤に染まった絶壁の中を町へと下った。
冬の始まりには、二、三日よく晴れた穏やかな天気が続く。おそらくこの晴天がそうだろう。あと数日のうちに冬が始まる。町の人々は冬とオーク、両方に備えるため忙しくしていた。衛士であるランナルも今日は休息日だが、召集されればいつでも応じなければならない。
オークが北方の季節にどれだけ詳しいかランナルは知らないが、冬が始まる前に動くはずである。本格的な冬になってしまったら、〈黒の門〉は雪に埋もれて通行不能になってしまう。
このまま来年に戦いが持ち越されてしまうのも、エイクリムにとっては面倒な事になる。家に帰る戦士もいるだろうが、町に留まる者も大勢いるだろう。エイクリムにある食糧で、彼らの食い扶持を賄えるかどうか。
そんな現実的な心配事も、ランスベルとアンサーラの戦いに思いを馳せれば、あっという間に心の隅へと追いやられる。二人の驚異的な戦いにランナルはすっかり魅了されていた。
エイクリムの町の中央通りは、退屈そうにしている戦士たちで溢れている。
あの戦いを誰かに話したい――という欲求がランナルの中で鎌首をもたげたが、ランスベルとの約束が思い止まらせた。
ランナルがおしゃべりだという評価は、自分自身よく知っているが、自覚はあまり無い。子供の頃は商人に向いているとか、吟遊詩人にでもなるつもりかと、よく言われた。それに対する反発というのも戦士になった一因かもしれない。
〝まずは自らを制することが、戦士になる第一歩だ〟というのは、ランナルに戦い方を教えてくれた伯父の言葉である。
ランナルは食事をするつもりで、行きつけの居酒屋に入った。
早めの晩酌か、遅めの正賓を取っている人がちらほら見られる。ランナルも適当な席に着くと、カウンターの中の主人に手で合図した。選ぶほど料理の種類があるわけでもないので、それだけで適当な食事が出てくる。
少し待っていると、茹でた野菜に数切れの塩漬け肉とパン、それに豆のスープを店主が持ってきた。最後にミード酒の入った
「ごゆっくり」
主人は無愛想に言って、カウンターへと戻って行った。
食事をつつき始めると同時に、四人の客が店に入ってきたが、ランナルは気にしなかった。
ミード酒を半分ほど飲み終えたところで、また新たに客が入ってくる。今度はランナルも良く知る男で、ストゥルという髭もじゃの戦士だ。ランスベルたちが町にやってきた時、最初に話していた男である。
ストゥルはランナルを見つけると、了承も得ずに同じテーブルへ着いた。店の主人に手を挙げて注文してから、ランナルに向き合う。
「よお、なんか面白れぇことでもあったかい?」
「なんで?」
ランナルが聞き返すと、ストゥルは髭の間から黄ばんだ歯を見せてニヤリとした。
「お前がそういう顔をしてる時は、大抵なんか面白れぇ話がある時だからさ」
見抜かれて、ランナルは憮然とした。確かに面白い話はあるが、話すわけにはいかない。だから、そっけなく答える。
「別に。特にないな」
「そうかい。ところで最近よくあの竜騎士とつるんでるな。まあ、本物かどうか分からねぇけんど」
運ばれてきたミード酒を受け取るストゥルに、ランナルは思わず言い返してしまった。
「本物さ!」
ストゥルはその言葉に込められた熱に気付かないふうで、げっぷをして言った。
「んでも、あんな子供が歌に聞く竜騎士とは思えねぇけどな。腕だって、俺の半分くらいしかねぇ細腕だったぜ?」
そして上腕の筋肉を盛り上がらせて見せる。腋の下のむれた臭いが漂い、ランナルは顔をしかめた。確かにストゥルの腕は筋肉と脂肪の塊で太い。実際、ランスベルの腕の二倍くらいはある。
「魔法なしの腕相撲なら勝てるだろうさ。でも、竜騎士は竜語魔法がすげぇんだよ」
このくらいならいいだろう――ランスベルの名誉のためだ。
「見たんか?」と、ストゥルはパンを噛み千切りながら問う。
「あ……いや……」
ああ、と答えそうになって慌ててランナルは言い直した。
その時、突然テーブルの横から声をかけられる。
「竜騎士が来ているんですか?」
ランナルとストゥルは揃って怪訝な顔で声の主を見上げた。見るからにスパイク谷の戦士然とした格好の男が立っている。ストゥルが問い返した。
「なんだ、知らねぇのかよ? おめえ、いつエイクリムに来たんだ?」
「実は今日到着したばかりでね。もし良かったら最近の状況を聞かせてもらえませんか。もちろん、話を聞く間の酒代は持ちますよ」
酒に釣られたのか、ストゥルはニカッと笑って男のために場所を空けた。
男はそこに座ると、すぐにストゥルとランナルのために酒を注文する。ストゥルは竜騎士の件も含めて近況を話したが、明らかに時間稼ぎをしているようだった。飲めるだけ飲もうと、どんどん酒を持って来させている。ランナルも負けまいと
ストゥルの言葉がしどろもどろになってきたのが聞いていられなくなり、また、話好きの性分が騒いだこともあって、途中からはランナルが話を継いだ。重要な事は話し終えてしまい、かなりどうでもいい内容になってきている。
そうして話が一段落ついたところで、かなり酔いが回ったランナルは脈略もなく思った事を口にした。
「あんたさぁ、谷の人間じゃないね」
男は動揺する様子もなく「どうしてそう思います?」と聞き返してきた。ランナルは得意げに答える。
「俺は衛士だぜ。特に町の入口に立ってることが多いし、外から来る人間には目を光らせてるんだ。あんたの格好なら、普通のやつは気にしないだろうけど、この俺の目は欺けねぇ。それに言葉かな。谷の訛りがわざとらしい。ま、これも人とよく話す俺にしか分からねぇかもしれねぇけどさ」
男はちらりとストゥルを見た。ストゥルはテーブルに突っ伏して
男は声を潜めて哀れっぽく言った。「……まさか見抜かれるとは思いませんでした。その事は誰にも言わないでくれませんか。実はスケイルズから流れてきたんです。戦働きで認められればまだチャンスがあるかなと思って」
ランナルは勝ち誇って、ニヤリと笑い、余裕たっぷりに
「お願いしますよ」
男はもう一度言って、銀の小粒を三つほど差し出してきた。それをさっと手に取って、ランナルは言った。
「まあ、今日は非番だし? 俺には関係ないって事にしておいてやるよ。でもあんた、何をやらかしたんだ?」
「ある男がいましてね。そいつはいつも魔法の道具を自慢げに……っと、こんなところじゃ話せませんよ。続きは宿の部屋で話しませんか。持ち出したスケイルズの酒がまだ残っていて、それも処分してしまいたいですし……これからの事を相談に乗ってもらいたいのです」
男のへりくだった態度にランナルは気分が良くなった。
「いいぜ。このランナルさんに何でも話してみなよ」
そして二人は居酒屋を出て、宿に向かった。
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