6.アンサーラ ―盟約暦1006年、秋、第10週―

 ランスベルたちが部屋から出て行くのを見送って、マグナルはスヴェンの脇の下に肩を入れた。アンサーラが手を貸そうとしても、「あ、いや。大丈夫です」と言って断り、老王を抱き上げる。はだけたローブから覗く手足は細く萎えており、立ち枯れた木の枝のようだった。


 マグナルに抱きかかえられたスヴェンの姿に王としての威厳はなく、他人に見せるわけにはいかないという彼らの気持ちはアンサーラにも理解できる。老王を持ち上げるマグナルも軽々という感じではなく、顔を紅潮させて頬のぜい肉をぶるぶる震わせている。健康に見える彼もやはり、年相応に衰えているのだ。


 アンサーラが扉を開けて通路に出ると、老王を抱えたマグナルは正面右の扉まで歩いた。


「こちらのお部屋ですか?」


「そうです」


 アンサーラが尋ねると、息んでマグナルは答えた。アンサーラは扉を開けてやり、二人を通してから続いて部屋に入る。


 部屋には扉のように大きな窓があり、開けばテラスに出られるようになっている。暖炉には火が入れられていて、暖かいというより暑いほどだった。壁には尖った金属の小片が打ち付けられた円形の盾スパイクシールドと、両手斧、槍が交差するように飾られている。調度品は高価だが、豪奢な雰囲気ではない。


 奥に衝立で仕切られた寝所があり、マグナルはそこへ老王を運んだ。スヴェンはベッドに寝かされると途端に苦しそうな顔をして、ぐったりしてしまう。苦痛を人には見せまいと耐えていたのだろう。


 息を切らしてマグナルは額の汗を拭うと、アンサーラに礼を言った。

「かたじけない」


「いいえ」


 アンサーラはそう答えてからベッドを回り込んで、呪文を囁き、手を開いた。桃色の小さな花びらが舞い、その一つがスヴェンの額にすっと落ちる。眠りの呪文はすぐに効果を発揮した。スヴェンの呼吸がゆっくりと落ち着いたものに変わり、苦痛に歪んだ顔が穏やかになる。


「しばらくは、苦痛を感じる事無くお休みになれます。わたくしが王のお身体を看させていただく間、マグナル殿も休憩なさってください」


 顔を紅潮させたマグナルは「ううむ」と呻きながら、近くの椅子にどっかりと大きな尻を下ろし、汗を拭った。


「ありがとうございます。恥じ入るばかりです」


 老いを恥じる気持ちは、アンサーラには理解できない。エルフは肉体的に老いる事がないからだ。だから、アンサーラが真の意味で人間の一生を理解する事はない。アンサーラは呪文を唱えながら、スヴェンに手をかざしたり、細く萎えた腕を取ったり、痩せた胸に触れたりして、状態を調べる。


 人間という種族のなんと奇妙な事か。年々、姿形を変化させていく。あっという間に全く別の生き物になってしまう――エルフの誰かが言った言葉を、アンサーラは実感した。


 アンサーラが老王から離れると、息を整えたマグナルはすぐに尋ねてきた。


「どうでしょうか?」


「ええ、王を苦しめている病については取り除く事ができます。弱った体力を補う薬も用意できますが……衰えた筋肉や骨を元に戻す事は難しいでしょう」


 マグナルは大きくため息をついて言った。

「いえ、それだけで充分です」


「とりあえず手持ちのもので薬だけ作ってお持ちしましょう。明日の朝までには数日分、用意できます」


「ありがとうございます」

 マグナルは座ったまま背筋を伸ばして顔を下げた。


 以前は豊かだった頭髪はほとんど無くなり、代わりに髭は長くなった。身長はスヴェンより少し低くかったが、発達した筋肉とそれを覆う脂肪で太く、より大きく見えたものだった。


 今も大きい事に変わりはないが、明らかに筋肉は衰えて脂肪に変わってしまっている。当時より大きくなったのは、でっぷりと突き出た太鼓腹だけだ。張りがあって滑らかだった皮膚は、白く濁ってぶよぶよとして見える。


 しかし、先程の言葉は世辞ではない。マグナルと、スヴェンの瞳を見た時に感じた事を正直に口にしただけだ。今も、マグナルの瞳を見て思う。


(この瞳は確かに、あの時の若者のものだ)


 一瞬見つめ合っただけで、マグナルは顔を赤らめて目を逸らした。変わらないものといえば、この反応もそうである。最初はエルフを見慣れていないためか、あるいは恐れているのだろうと思ったのだが、そうではなかった。


 彼らと出会ったのは、わずか四〇年前の事なので、アンサーラはスヴェンの言葉をはっきりと覚えている。


〝マグナルが言ってたよ。アンタは美しすぎる、完璧すぎるってさ。その瞳は夏の夜の金色の月だ、冬の夜の銀色の月だ……ってな。突然、詩人になっちまって。あのでぶ〟


 そう言って若いスヴェンは笑った。当時のアンサーラは、それを聞いて不思議に思ったものだ。エルフは――アンサーラも含めて――人間をそのように見ることはない。だから人間もそうだと思い込んでいたのだ。


 しかしスヴェンの言うように、マグナルがアンサーラに好意を持っているというのなら、人間は自分と違う種族にも愛情を持てるという事になる。それはとても奇妙だが、今は人間という種族の持つ特質の一つなのかもしれないとアンサーラは考えている。


 ごほん、とマグナルは咳払いして躊躇いがちに言った。

「それにしても、その……アンサーラ殿はまったくお変わりありませんな……」


「エルフとはそういうものです。あなた方、人間から見れば不自然なのでしょうね」


 嫌味ではなく事実としてアンサーラはそう言った。エルフから見た人間が奇妙なのと同じように、人間から見たエルフもそうであるはずだ。

 しかし、マグナルは慌てて背筋を伸ばして否定する。


「いやっ、決してっ、そのようには思いません。少なくともわしはずっと……あっ、いや、すみません……」


 言いかけて止め、そして頭を抱え、最後は口ごもった。そこにも、変わらぬものを見て取ることができる。アンサーラは口元に手をやって微笑みを隠した。


「やはり、マグナル殿はお変わりありません。確かにお姿は変わりましたが、間違いなく、マグナル殿だとわたくしには分かります」


「や、お恥ずかしい……」


 そう言ってマグナルは目を泳がせ、安らかに寝息を立てるスヴェンに目を止めて、しばしその寝姿を見つめた。そしてぽつりと呟く。


「三人で魔獣退治に行った時の事を思い出しますな。もう遠い昔になってしまった」


(いいえ、わたくしにとっては、たった四〇年前の事です)


 アンサーラはそう思ったが口には出さなかった。

 マグナルは真剣な眼差しに戻って言う。


「あの時アンサーラ殿がかけてくれた魔法を、今一度、我が王に使っていただくことは可能ですか?」


 マグナルの言う魔法が何かは思い出すまでもなく分かる。その申し出があると予期してさえいた。アンサーラは首を横に振る。


「無理です。当時でさえ、魔法が切れた後は数日間、指の一本を動かすのでも辛かったのではありませんか? あの魔法は、本来使うべきでない力を引き出す魔法だと説明したはず。生命力に溢れていた当時のあなた方でさえ、そうなったのです。今のスヴェン王に使えば、きっと生命を使い果たしてしまいます」


 しかしマグナルは退かなかった。


「もし、あの魔法をかけていただいた場合はどのくらい動けますか。オークと一戦交える間だけ動ければ良いのです。これはわしの考えではなく、我が王の願いです」


「ええ、先程もお倒れになった時、あなたに〝あの魔法を〟と囁いておいででしたね。しかしそうすれば確実に死ぬと知っても、スヴェン殿は求めるでしょうか?」


「はい。間違いなく」


 アンサーラとマグナルは見つめ合った。今度は、マグナルも視線を逸らすような事はしなかった。そして、しばしの沈黙を破ったのは二人のどちらでもなかった。


「……わしからもお願いしたい」


 いつの間にか目覚めていたスヴェンが小さな声でそう言った。その声には強い意志が宿っている。


「死ぬおつもりですか? 無理です」


 アンサーラはベッドに近寄り、スヴェンの目を見てきっぱりと断る。


「無理でも押し通す覚悟はある」


 スヴェンもまた、アンサーラの目を見てはっきりとそう言った。その言葉は四〇年前、魔獣退治に向かった時にも聞いた言葉だった。


(やはり、この方も変わっていない……)

 良くも悪くも、と考えるアンサーラに向かってスヴェンは言葉を継ぐ。


「命を賭してもやらねばならぬ。言葉では伝えられぬのだ。今、我が娘に示してやらねば……頼む、アンサーラ。今日アンタが来たのは七神の導きとしか思えん。頼む」


 スヴェンは頭を下げる代わりに、目を伏した。そして開いたその瞳に宿る光は、かつて見た彼の光だった。


 説き伏せることはできないだろう――アンサーラは無念に思った。


 〝命を賭してもやらねばならぬ〟という決意は、アンサーラ自身がいつも胸に秘めているものと同じだ。アンサーラは背を向けて、部屋を横切り扉に向かう。


「アンサーラ殿!」


 その背中に向かってマグナルが切迫した声を上げたので、アンサーラは立ち止まった。


「その時まで、少しでも体力を温存してください。わたくしは、薬と……魔法を用意します」


 背を向けたままそう言って、アンサーラは部屋を出た。


 城は四〇年前と変わりなかったので、記憶を頼りに客間へと向かう。念のため扉をノックすると、ランスベルが返事したので、扉を開く。


 客間のほうが王の部屋よりも豪華かもしれない。広さは同じくらいなのでベッドの数が多い分だけ手狭にも見えた。テーブルと長椅子ソファがあって、ランスベルはそこに座っている。ギブリムは暖炉の上に飾られた巨大な爬虫類じみた頭蓋骨――かつてアンサーラ、スヴェン、マグナルの三人で退治した魔獣のものだ――と、鋼の武器を眺めている。


「スヴェン王の具合はどうだった?」と、ランスベルが尋ねてきた。


 アンサーラは、スヴェン王を看て分かった事と、一時的に身体能力を増強する魔法について説明した。予想通り、ギブリムは黙っていたが、ランスベルは眉根を寄せて疑問を呈する。


「本気なの?」


「本気でしょう。すでに覚悟もあるようでした。説得には応じないでしょう」


 ランスベルは悲しそうな顔をして言う。

「そんな……ヒルダさんは絶対に納得しないよ、そんなの……」


「生き方を示そうというのだろう」

 ギブリムがはっきりと言い切った。


 氏族の生き方を体現するというのがドワーフの理想だとアンサーラは理解している。だからギブリムはスヴェン王の気持ちが分かるに違いない。しかし、ランスベルはドワーフでも北方人でもないのだ。それでは納得しないだろう。


「……死んだら教えられないよ。生きている間に伝えないと」


「死の意味を理解しなければ、生の意味を知ることはできん」


 ランスベルは困惑した表情をして、納得できないという様子で黙り込んだ。

 アンサーラには、その気持ちを理解できたが、口にしたのは共感の言葉ではなかった。


「あなたの言葉を借りれば、〝それが彼らの選択だ〟という事です」


「それとこれとは――」


「違いますか?」


 反論しかけたランスベルをアンサーラは封じた。思ったより意地の悪い言い方になってしまって、自分の中にもスヴェンを説得できなかった事への苛立ちがあるのだと気付く。

 ランスベルは眉間にしわを寄せて思い悩むと、再び口を開いた。


「アンサーラなら、魔法でスヴェン王の体力や筋力を戻せるんじゃないの? 僕はやり方を学んでないけど、竜語魔法でもできるはずだ」


「ドラゴンの助け無しに、思いつきで竜語魔法を使おうなんて思うなよ。何が起こるか分からんぞ」


 ギブリムが警告する。それに続いてアンサーラも答えた。


「確かに、ランスベルの言うとおり、可能です。ナイトエルフの魔法の粋を集めて作り出した〈魂の炉ソウルフォージ〉を使えば、スヴェンを若返らせ、望む力を与える事すらできます」


「できるなら……いや待って、その〈魂の炉ソウルフォージ〉って、もしかして……」


 アンサーラは頷いた。


「ええ。魔獣を作り出す魔法です。つまり、そういう事です、ランスベル。人間が老いて衰え、病に倒れるのは自然なこと。わたくしたちは、可能だからと言ってそれを覆してはなりません。その一線を踏み越えてしまったら、わたくしの父と同じ道を歩むことになります」


 ランスベルは苦悶の表情を浮かべて、うつむいた。そうしてしばらくの間、床を睨みつけていたが、やがて口を開いた。


「ヒルダさんには、話しておくべきだろうか?」


「ランスベルがそうすべきだと思うなら」


 自分の考えは述べずにアンサーラはそう答えた。ヒルダの事は良く知らないし、ランスベルの判断を尊重したかった。


「ギブリムはどう思う?」と、ランスベルは顔を上げてドワーフにも相談する。


「あの娘なら大丈夫だ。話しても、話さなくても」


「そうか……少し考えてみるよ」


 ランスベルは長椅子ソファに背を預けて天井を見上げる。

 アンサーラは自分の荷物から必要なものを取り出して並べ終えると、二人に向けて言った。


「ひとまず、わたくしは薬を用意せねばなりません。強い臭いがするので、人の来ない、火の使える場所があれば良かったのですが……もし、きついようでしたら部屋の外に出て頂いてもよろしいでしょうか?」


 ギブリムは眉間に皺を寄せ、扉に向かって歩き出す。


 まだ天井を睨んでいたランスベルは「あ……」と言って顔をアンサーラのほうに向けた。


「それなら、いい場所があるよ」


 ランスベルはアンサーラを城の裏庭へと案内した。


 城砦と城壁との隙間にあるその小さな庭は、影の中ですでに暗い。脚の付いた火鉢が置かれているが、灰は冷えていた。


「火を起こすよ」

 そう言って、ランスベルは庭の隅に無造作に積まれている薪を取りに行った。


 アンサーラが素材や道具を入れた鞄を置き、必要なものを準備している間にランスベルは火鉢の中に薪を組み終え、問う。


「火種を貰ってくるけど、他に必要なものはある?」


「ありがとうございます。それでしたら、水があると助かります。ここにある雪を溶かしてもいいので、無理していただく必要はありません」


「わかった」

 頼んでもいないのに、ランスベルは小走りに城内へと戻って行く。


 おそらく、考えているより動いたほうが楽なのだろう。その気持ちは良く分かる。アンサーラ自身、スヴェンの願いを叶えてやる事が正しいと確信しているわけではないのだ。


 父のしている事に疑問を抱いて悩んでいた一〇代の頃、大人になれば何が正しいかはっきりするだろうと信じていた。しかし〈ナイトエルフの反乱〉が終わって成人した後も、周囲が言うほどには、自分の決断が正しかったという確信は持てなかった。アンサーラは不変の正しさを求めたが、数世紀を経ても、それは得られなかった。


 そして今、九二三歳になったアンサーラは一つの結論に至っている。正しさとは不変のものではなく、とても不安定で不確かなものなのだ。だから結局、その時々で一番正しいと思える事をするしかない――という、当たり前の結論に。


 秩序を求めれば求めるほど、混沌を認めねばならない。善を求めれば求めるほど、悪を認めねばならない。それは永遠に続く綱渡りのようで、どちらかに転げ落ちてしまわぬように注意深く一歩一歩を踏み出していくしかない。


 若い頃は無知ゆえに、その綱を全力で駆け抜けることができた。自分にもあったそんな時期に戻りたいと思う時もある。アンサーラは最近、〝若い頃は〟という言い回しが当てはまる気分になる事があった。肉体的には老いないエルフでも、心や精神は老いるのだ。


 寿命を全うして死を迎えるエルフは非常に少ない。永遠に続く綱渡りに疲れ果てたエルフは、目覚める事のない眠りにつき、自らが神として君臨できる夢の世界に閉じこもる。あるいは、植物や大地と一体になり、エルフとしての生を終えて別のものへと変化する。時々、動物に変化する変わり者もいる。


 しかしそれでも、人間に比べればエルフは遥かに幸福である。ほとんどのエルフが、自ら望んで終わりを選択できるのだから。


 人間社会で長く暮らしてきたアンサーラは、ほとんどの人間が望まない終わりを迎えると知っている。そんな人間たちの中でスヴェンは幸運ではないか、とも思うのだ。アンサーラと面識があり、命が尽きようというこの時に再会できた。そしてアンサーラは、彼が望む終わりを迎えられるよう助けられる。


 扉が開いて、注意深く火種を手で守りながらランスベルが出てきた。そして彼に続いて、長身で金髪の女性――ヒルダが水瓶を持って出てくる。


 重い水瓶を女性であるヒルダのほうが持っているのを見て、アンサーラには二人のやり取りが想像できた。おそらくランスベルは自分が水瓶を持つと言っただろうが、ヒルダは自分が持つと言って譲らず、お互いに自分が持つと主張しあった結果、押しの弱いランスベルが負けたのだろう。


 それはアンサーラの視線に気付いたランスベルの目を見ても分かった。


 ランスベルは火鉢に火を移す作業に取り掛かり、ヒルダは「これ、どこに置いたらいい?」とアンサーラに尋ねる。


「火鉢の隣に置いてくださると助かります」


 ヒルダは軽々と水瓶を運んで火鉢の隣に置く。

「ここでいいかい?」


「はい。ありがとうございます」


「いや、親父の病を治してくれるんだろ。他に何でも言ってくれよ」


 そう言うヒルダは真剣な顔をしていた。心から父を心配している娘の顔だ。


「ええ、遠慮なく。ただ今は他に何もありません」


 アンサーラがそう答えても、ヒルダは城内に戻る気配を見せず裏庭に留まっていた。


 赤く燃え始めた火鉢の明かりが周囲を照らし始めた頃、ヒルダは意を決したように口を開いた。その声には僅かな恐れが感じられる。


「……それで、親父はまた戦えるようになる?」


 アンサーラはすぐに答えず、ランスベルを見た。彼がどこまで話しているのか分からなかったからだ。ランスベルは眉間にしわを寄せて小さく首を左右に振った。何も話していない、という意味だろう。

 二人の目配せに気付いたヒルダは、ランスベルに問う。


「はっきり言ってくれ」


 それで、ランスベルは決心せざるを得なかったに違いない。


「戦う事はできるそうです。ただし、一度だけ……それで命を使い果たしてしまいます……」


 言葉尻は、悲しそうに、申し訳なさそうに、消えた。


「そうか……わかった」


 ヒルダはそれ以上の説明は求めずに、アンサーラに頭を下げた。


「親父のこと、よろしく頼む」


 アンサーラは立ち上がり、ヒルダの真摯な態度に礼をもって応じた。胸に手を当て、頭を下げる。


「わたくしにできる限り、お助けいたします」


 ヒルダは無言で頷き、城内へ戻って行った。


 それからアンサーラは魔法の薬を作る作業に移った。ランスベルは手伝うつもりのようで、城内に戻る気配はない。一人で問題ない作業ではあるが、手伝おうという彼の気持ちを無下に断るのも悪いので手伝ってもらう事にした。


 いくつかの薬草や素材を煮出したり、砕いたり、練ったり、時に魔法をかけながらビンに詰めていく。その過程で、強烈な臭いが発生する。ランスベルは布で口と鼻を覆っているが、涙と鼻水を拭いながら辛そうにしている。


(事前に警告はしましたよ)

 それを見て、アンサーラは心中で呟いた。


 そして最後の仕上げとして、液体を入れたビンを地面に置くと、両手を掲げて呪文を唱える。歌っているようだ、とよく言われるエルフの呪文詠唱の声が城壁に反響して空へと消えていった。アンサーラの呪文に反応して、透明なビンに入った液体は茶色から緑、青、白――と様々な色に変化していき、火鉢の光に反射して周囲を様々な色で染める。


 アンサーラにとっては珍しいものではないが、ランスベルにとっては幻想的な光景なのだろう。真っ赤になった目を擦りながら、壁に映る様々な光の乱舞に見惚れている。


 やがて光は徐々に落ち着き、青と緑に安定していった。


 その頃には、城壁に切り取られた空はすっかり夜になっていて、雲は消え、星が瞬いている。夜空を見上げてアンサーラは言った。


「ここで作業したのは正解でした。星たちが魔法に力を与えてくれるはずです。後は、発光が収まるまで待てば完成です」


 反射する青と緑の光の中でランスベルは頷き、しばらく二人は黙って座っていた。火鉢の火が爆ぜる音だけが響く。


「アンサーラはさ――」と、ランスベルが何かを言いかけて止めた。


「なんでしょう?」


 言葉の続きを促しても、ランスベルはすぐには口を開かず、少ししてから話した。


「アンサーラはさ――どうしてオークの斥候部隊がウラク村の近くにいたと思う?」


 ランスベルは、本当は何か別の事を言おうとしていたのだろう。だが、アンサーラはそれに気付かないふりをして答えた。


「たぶん、あなたなら分かると思います。もし竜騎士の力を存分に使えるとして、あなたが味方を率いてこの谷を侵略するならどうします?」


 その事はすでに考えていたようで、ランスベルは即答した。


「手練の戦士とは言っても普通の人間が相手なら、自分と少数の精鋭で敵軍の背後を突く。もしくは、この城を狙う」


「でしょうね。わたくしもそうします。おそらく、わたくしなら一人でも手薄になったこの城を落とせるでしょう。谷を下る道も、この城に至る道も、軍隊には不利です」


「だよね……」

 ランスベルは青く発光する液体を見つめながら呟いた。

「この事、スヴェン王やヒルダさんに話したほうがいいよね?」


「そのほうがいいでしょう。ところでランスベル。もう食事の時間は過ぎてしまったと思いますが、今ならまだ何か食べ物を頂けるのではありませんか?」


 アンサーラに言われて、ランスベルはがっくりとうなだれた。

「正直言うと、気持ち悪くて……食欲なくなった……」


「ふふ、事前に警告はしましたよ」


 アンサーラは小さく笑って、今度は口に出して言った。

 ランスベルは少し驚いたような顔をしてから、安心したような顔をして、苦笑してみせた。

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