4.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第10週―

 一般的に〈世界の果て山脈〉はその名の通り、世界の北の果てとされている。正確に測った者はいないが目算で二万フィート以上はある山々の連なる人類未踏の地だ。


 山脈は遥か東へと続くが、一部が北方地域を閉ざすように南へ突き出て〈貿易海〉まで達している。テストリア大陸を東西に隔てるこの山々を、北方の人々は〈黒の山脈〉と呼んでいた。〈黒の山脈〉を越えた東には凍てついた荒野が広がり、オークが住んでいる。


 この〈黒の山脈〉の北端、〈世界の果て山脈〉と交わるところにスパイク谷があった。スパイク谷はこれらの山々から流れ出るゴルダー河が造りだした大きな谷で南西に向けて横幅は広くなり、谷の入口付近では一〇マイルを超える。だから地上を旅するランスベルからすれば、いつの間にか谷に入っていたという印象であった。


 谷から流れ出たゴルダー河は三つに分かれ、支流はさらに枝分かれしていき、北方の大部分を潤している。最も長い河は北方を横断して西の〈鉄の海〉にまで達する。


 谷の入口に向かうためには船を使って三本に分かれたゴルダー河を渡る。流れに激しさはないが、見渡す限り川面という圧倒的な水量である。海に面した港町生まれのランスベルにとっても、それは珍しい光景であった。それまでは、〝川はしょせん川で、海ほどではない〟と思っていたからだ。しかしそれも、長大なゴルダー河が見せる一面に過ぎなかった。


 渡し舟でゴルダー河を越えたランスベルたちは、スパイク谷の王が住まう町エイクリムへと続く道を進んだ。ゴルダー河に沿って谷を北東に向かう道である。


 谷の奥へと進むにつれてゴルダー河の水量と勢いは増していき、河の流れが地面を削り取って出来た地形を目にするようになった。嵐の海のようにごうごうと荒れ狂い、恐ろしい渦を巻くところも見た。地響きのような轟音は恐ろしく、激しい流れがこの瞬間にも足元を削っているのかと思うと不安にもなる。


 〝海の怖さに比べれば川なんて……〟とは、もう言えそうにない。


 そんなゴルダー河の他には、ごつごつした岩と棘のように点々と生えている先の尖った木しかなかったが、進むにつれて雪化粧が進み積雪は厚みを増していく。


 地面からスパイクが突き出ているようなその風景が、スパイク谷という名前の由来なのかも知れない――と、ランスベルは思った。


 天候は悪く、空気は肺が痛くなるほど冷たい。太陽を見る事があっても薄曇の向こうから冷たい光を投げかけてくるだけで暖めてはくれないし、風は身を切るようだ。鎧の上からしっかりと外套クロークを着込んでいても、暖かさは感じられない。


 ランスベルがファランティアで経験した一番寒い冬と同じくらい寒かったが、本格的な冬はまだこれからなのだろう。道中に出会った戦士や狩人たち、立ち寄った村の人々は驚くほど薄着で、外套クロークに身体を包んでいるランスベルが奇妙に見えるほどだった。秋の装い、という印象である。


 ランスベルはイェルドから、オークに関する伝令である事を示す三角旗を渡されていた。それを見える位置に掲げていると、無愛想で排他的な北方の人々も声をかけてくれるし、宿も提供してくれる。山賊ですら、その三角旗を見て引き上げていくほどだ。


 ファランティアでランスベルが読んだ本には、北方は常に戦い、奪い合う世界だと書かれていた。そして実際にそうなのだと知った。だがそれでも、北方という一つの世界を共有するための慣例は存在する。この三角旗は、その一つに違いなかった。


 道中で知り得たのは、スパイク谷がすでにオークの動きを掴んでいて、戦いの準備をしているという事だ。しかし、アード地方にオークの斥候が現れたという話は知られておらず、皆が口を揃えて「エイクリムのスヴェン王に伝えるべきだ」と言う。それで、ランスベルたちは先を急いだ。


 エイクリムは王の住む町というだけでなく、テストリア大陸で最北の町でもある。「そこが最後の人間の町だ」と、ギブリムは言った。その言葉に、ランスベルは人間社会との別れを意識させられた。


 恐ろしいほどの轟音を響かせていたゴルダー河も、谷の最奥に入ると途端になりを潜め、穏やかな流れへと変わる。正確にはもうゴルダー河ではなく、ゴルダー河の源流の一つというべきだろう。途中でいくつもの滝が流れ込むのを見てきたが、そうして大河となるのだ。


 再び静寂を取り戻した旅路は半日ほど続き、それから前方にエイクリムの町が見えてきた。ここが世界の終わりだぞ、と言わんばかりの巨大な絶壁と、その下から立ち上る幾筋かの白煙が見える。鉄を叩く音や木を切る音が時々、谷を反響して響いてきて、そこに人間が生活していると教えてくれる。


 絶壁の下には湖があり、そこがランスベルたちの辿ってきた流れの源であろう。湖には細長い木の葉のような形の船が二艘浮かんでいた。釣り竿が昆虫の脚のように左右へ伸びていて、時々上下に揺れている。実際にどんなものが釣れているのかまでは、遠すぎてまだ見えなかった。


 町の入口付近には木を地面に打ち込んで作った防壁が所々に立っているが、町全体を取り囲んでいるわけではなく、人間やオークと戦うための防衛設備という感じではない。


 町へ向かう唯一の道、谷を下る狭い道は五人が並べる程度の幅で、武器を振るう事を考慮すれば、戦士が三人並べるかどうかというところだ。谷側は切り立った崖になっていて高さもあるので、落ちれば無事では済まないだろう。


 この地形が、人間やオークのような侵入者に対して天然の防衛設備になっているのかもしれない。


 ここまで来ると、湖畔に飛び出た桟橋や、そこに続く道、その両側に立ち並ぶ建物も見えてくる。王の居城はどこだろう、と探しても、町の中にそれほど大きな建物は見当たらない。


 谷の始まりであり終わりでもある前方の絶壁は、まるで頭の上に覆いかぶさってくるような錯覚を覚えるほど大きい。見上げると、亀裂だと思っていた所に木製の柱や軒、手すりがついているのに気付いた。通路になっているようだ。それを目で追うと絶壁の途中にある滝の裏を抜けた先で木製の橋につながり、絶壁の上から張り出した巨大な岩棚へと続いていた。そこにも建物があるのか、二筋の細い白煙が横に流れている。


 滝は絶壁の上から流れ落ち、下の湖に届く前に空中で霧散していた。


(すごい……)


 今まで見た事のない風景に、ただ圧倒されていると、併走していたアンサーラに「ランスベル」と呼びかけられる。絶壁を見上げるのを止めてアンサーラに向くと、彼女は前方を指差していた。


 北方の村や町の入口に立っている文字のようなものが彫られた大きな柱があり、武装した戦士の一団がたむろしている。全員が兜を被り、構えてはいないが武器を手にしていた。ランスベルたちに気付いている様子だ。


 ランスベルは三角旗が見えるように速度を緩めてゆっくりと近くまで行き、馬を下りた。武器に手をかけている戦士をちらりと見てから声を掛ける。


「こんにちは。僕はファランティアの竜騎士ランスベルです。この二人は旅の仲間です。アード地方にあるウラク村のイェルドさんの代理として、オークに関する情報を持って参りました」


 戦士たちは顔を見合わせた。ランスベルも北方人との会話に慣れてきているので、聞き取りにくい発音はしないよう注意している。髭もじゃの戦士――五人のうち四人は髭もじゃなのだが――が両手斧をどっかと地面に突き立てて柄に両手を置き、応じた。


「話を聞こう、ファランティアの竜騎士ランスヴェル」


 ランスベルはここまでに何度も繰り返してきた内容を話した。ウラク村の近くでオークの斥候と思われる一団を見て撃退した事と、オークが最後に言った言葉。そこから推測される、オークの女王の存在について。


 そして相手の反応も、これまで話してきた人々と同様であった。ランスベルが話している間中、ちらりちらりと視線をギブリムにやり、オークの女王について話すと怪訝な顔をし、最後まで聞き終えると「それは王に直接お伝えすべき事だ」と言う。


 北方の戦士は、ドワーフの戦士を尊敬しているとアンサーラが教えてくれたので、その視線の意味は分かる。そしておそらく、ランスベルが竜騎士だと信じていないか、竜騎士という肩書きだけで力が無いと思っている。北方の戦士はファランティアにおける騎士のように称号で相手を判断しないのだという。


 堂々としたギブリムに対して、アンサーラは控えめであった。常にフードを目深に被って身体をマントで覆い、正体を隠している。手綱を握る手や足を見ればランスベルよりもほっそりした人物だと分かるが、その細腕に筋骨隆々とした人間の男よりずっと強い力があるとは、とても思えないだろう。


 王に直接――という事は町に入っても良いという意味だろうと思い、ランスベルは言った。


「では、町に入ってもいいのでしょうか」


 髭もじゃの戦士は堂々として答える。

「俺は衛士ではないから、分からん」


 ランスベルは思わず呆気にとられて、あんぐりと口をあける。


 彼らの中で唯一、髭を伸ばしていない戦士が手を挙げた。

「俺が衛士だ。許可するよ、ファランティアの竜騎士ランスベルと仲間たち」


 それから他の戦士を押しのけて前に出てくる。兜のせいで顔は分かり難いが、その声と口元には若さが感じられた。ランスベルとそう年齢は離れていないかもしれない。


「城まで案内しよう」と、その若い衛士は申し出た。


「助かります。エイクリムに来るのは初めてで、王のおわす場所も分からないのです」


 ランスベルが礼を述べると、その若い衛士は手をひらひらさせて言った。

「いや、オークに関する知らせを持ってきた者は案内する決まりなんだ。来いよ」


 彼はついて来るよう身振りで示して歩き出し、ランスベルたちは後に続いた。


 北方人は警戒心が強く、無口で無愛想というのがお決まりであったが、この若い衛士――ランナルと名乗った――は違っていた。


 城に馬は連れて行けないという事で、まずは厩舎に案内され、そこから城を目指して歩く間ランナルはずっと話し続けていた。彼が北方で一番のおしゃべりだと言われてもランスベルは驚かないだろう。


 ランナルはエイクリムの出身で十八歳。実家は革製品を扱っている商店だという。城に行く途中、町外れにぽつんと立つ家がそうだと教えてくれた。年齢が近く、自分と同じ商人の息子という生まれにランスベルは自然と共感を覚える。


 ランナルは家業を継ぐよりも戦士の道に進む事を決意し、戦士として名のある伯父の下で修行して、その武具を譲り受けた。なぜ戦士になりたかったのかについては、名誉が云々という話をしていたが、結局は最後に漏らした言葉が本心だろう。


「革をなめす時の臭いがひでぇのなんのって!」


 ランナルは前回の戦争に従軍し、そこでの活躍が認められて衛士に取り立てられたのだという。衛士というのは王や領主などの権力者に仕えている職業戦士で、衣食住の心配はなくなり、装備や金が支給され、出世できれば家や畑、森の収穫権や鉱山の採掘権の一部などを得る事もあるのだそうだ。


 ランナルは自分の話ばかりしていたわけではなく、町の通りを歩きながら店の評判や、通りにたむろする戦士の中で名前を知っている者がいればその武勇について語り、現状についても話した。


「ブラン上位王が南で戦争するってんで、スヴェン王は戦士たちを召集したんだ。でも、〈黒の門〉にいる衛士からオークの部族が侵入を企てているって報告があってさ。戦う相手がアルガン帝国からオークに変わったわけ。いつもこんなに戦士だらけってわけじゃねぇんだぞ」


「〈黒の門〉というのは?」


 一瞬の隙を突いてランスベルが問うと、話の腰を折られたという感じでランナルは簡単に説明した。


「えっ? ああ、〈黒の山脈〉を越えられる唯一の峠道。で、あそこにいるのがさぁ――」という具合である。


 時々、早口になって聞き取れない事もありランスベルは全てを理解できたわけではない。ただ、町にあふれている戦士たちが長く滞在していて、退屈しているのは見て分かった。気晴らしに金を賭けて拳闘や格闘をしている集団もある。


 ふと、ランスベルは北方に入ってから気になっていた事を思い出した。ファランティア王国と同盟を結び、援軍を出すと約束したブラン上位王の軍隊とどこかですれ違うか、見かける事があるだろうと思っていたのに、結局ここまで出会っていない。一体、北方の軍隊はどこにいるのか。


 ランナルに尋ねようとしても口を挟む隙がなく、どこか釈然としないままランスベルは歩き続けた。


 エイクリムの中央通りを抜けると、道は湖の桟橋、町外れ、絶壁の各方面へ分かれている。ランナルに従い絶壁のほうへ歩いていくと、前方に木製の門が見えてきた。絶壁の亀裂を利用して作られたもので、開かれたままの門の向こうは奥へと続く洞窟になっている。


 ランナルは門を守る衛士と二言三言、言葉を交わしてさらに奥へとランスベルたちを案内した。


 洞窟内は明かりが備え付けられているので歩くのに問題はない。奥は急勾配の上り坂になっていて、滑り止めの横木が埋められている。それに足を掛けながら坂道を登っている間も、ランナルは話し続けていたが、洞窟内を吹き抜ける風の音にかき消されてほとんど聞き取れなかった。


 前方に外の光が見えてくると、ランナルは立ち止まってフードを被るように勧めた。滝がどうとか言っているが、後頭部から前に手を動かす仕草でそうと分かる。ランナル自身は首巻きマフラーを頭巾のようにして被り、ランスベルたちは言われたとおりにフードを被って、外に出る。


「うわぁ……!」


 あまりの絶景に、ランスベルは思わず感嘆の声を上げた。


 そこはエイクリムに向かっている時に見えた、絶壁の途中にある亀裂を利用した通路で、足元にあるエイクリムの町が見渡せるのはもちろん、湖から流れ出るゴルダー河の源流が谷間を流れていく先々まで見る事ができる。


 右手の谷の上には物見台のような建物があり、左手の谷の斜面にはランスベルたちが下ってきた道がくっ付いている。


「上からの眺めはもっとすごいんだ。天気が良ければ最高なんだがなあ」

 手すりにつかまって外を眺めるランスベルに、ランナルはそう言った。


 声をかけられて我に返ったランスベルは、はしゃいでしまった事を恥じたが、もはや後の祭りである。ちらりと二人の仲間を見ると、アンサーラは目を細め、ギブリムはいつもと変わらぬ様子でランスベルを見つめている。しかし二人が笑っているのだと、ランスベルにも分かるようになっていた。


「上で時間があったら、もっと絶景が見られる場所を教えてやるよ。その場所は俺が前に――」と、ランナルは話しながら通路を上っていく。ランスベルたちも後に続いた。


 通路は絶壁の内側にあり、水避けの軒も付いていたが、それでも滝の水は吹き込んでくる。足元は滑りやすく、外套クロークは濡れてしまった。


 外から見えたとおり亀裂の先は橋になっていて、その先は絶壁の上に通じている。そこから突き出た岩棚の上に小さな城があった。


 城には谷側に飛び出したテラスがある。そこからの眺めはすごいだろうなとランスベルは見上げた。テラスには誰かいるらしく、風になびく金髪が少し見える。


「おーい、こっちこっち」


 ランナルに呼ばれて駆け寄ると、城の入口に立つ衛士と引き合わせてくれた。ランスベルはこれまで同様に用件を伝える。話を聞き終えた衛士は、扉を開けて一行を城内に招き入れてくれた。ランナルも一緒に付いて来る。


 城の玄関は土台が石造りで、上部は木造である。正面に階段があり、奥へ通路が続いているのが見えた。通路には左右に扉があって、今は左の扉だけ閉まっている。外観から想像するに、その閉まっている左の扉の先にテラスがあるのだろう。


 そこで待つように、と言われたランスベルたちは、大きな暖炉の前で濡れた外套クロークを乾かし、暖を取りながら言われたとおりに待った。風の音が笛のように城の奥から聞こえてくる。この城がある絶壁の上は風も強そうだ。


 待っている間にもランナルの話は続いていて、よくも話題が尽きないものだなと感心してしまう。彼の話は前回の戦争と、戦場での経験に移っていた。ランナルはそこで敵の戦士を少なくとも三人は直接的に殺し、七人に怪我を負わせたと自慢げに話している。


 出会ってからまだ間もないが、ランスベルはどことなく憎めないランナルを気に入りかけていた。しかし、その話には共感できなかった――というより、共感したくなかった。


 人を斬った感触はまだランスベルの手の中に残っている。それは狼や猪などの獣を斬るのと大差なく、だからこそ、恐ろしかった。どこかで気持ちが切り替わってしまったら、獲物を捌くのと同じように人殺しにも慣れる事ができると、疑いなく断言できる。


 自らの武勇伝を誇らしげに語るランナルを非難すべきではない。だが、目の前の陽気な若者が戦場では何人も殺していて、しかも、それを自慢しているという事実をランスベルは上手く割り切れずにいた。


 ランスベルが微妙な表情でランナルの武勇伝を聞いていると、大きな声が玄関に響く。


「ランスベル!」


 大声の主を見ると、階段の上にヒルダが立っていた。スパイク谷の王女であり女戦士でもあるヒルダは、青色で長袖のチュニックに、編み上げ紐の付いた革の袖なし胴衣ベストを着て、女性らしい形の胸を締め上げている。下はズボンに革のブーツを履き、腰には剣を下げていた。胸を張り、両の拳を腰に当てて立つ姿は堂々たるものである。美しい金髪は流れるに任せ、口元には笑みを浮かべている。


「ヒルダおう――」

 王女、と言いそうになってランスベルは慌てて言い直した。

「ヒルダ殿。お久しぶりでございます」


 彼女はブラン王に付いているとばかり思っていたが、考えてみればスパイク谷の軍勢が残っているなら彼女もまた残っていて不思議はない。ファランティア王国に来たのも、病床の父王に代わっての事だった。


「ファランティアの竜騎士がオークの報せを持って来たと聞いて、偽者だったらどうしてやるかと思ってたんだ。アンタ、どうしてこんなところにいるんだい?」


 ヒルダは玄関に響き渡る大きな声で話しながら階段を下りてきた。さすがのランナルも王女を前に口をつぐんでいる。


「竜騎士の使命により、旅をしている途中です」


「アンタはファランティアで帝国相手に戦っているとばかり思っていたよ。ファランティアを守るのが竜騎士の使命だと思っていたからね」


 目の前まで来たヒルダは相変わらずの長身である。ランスベルは見上げて答えた。


「その使命は、ブラウスクニースの死と共に終わりました。今は別の使命があって、そのために旅をしています。ぼ――私のほうも、ヒルダ殿がまだスパイク谷におられるとは思っていませんでしたので、驚きました」


 そう言ってしまってから、ランスベルは余計な一言だったかと思った。ヒルダは腕を組み、不機嫌な様子で唸る。


「ああ、そうなんだ。ブランから戦士を集めるように言われて召集したのに、合流の指示を待てって伝令があって、それっきりさ。いつまでも戦士たちをエイクリムに留め置くわけにもいかない。どうしようか……って時にオークの報だ。まるでオークの動きをブランは知ってたみたいなタイミングだったね」


 最後の一言は冗談だというようにヒルダは笑った。そして腕組みを解き、話を続ける。


「ま、城の玄関で立ち話もなんだ。親父も交えて奥で話そう。アンタの連れも、もちろん一緒に」


 そう言ってヒルダは、ギブリム、アンサーラの順に会釈して敬意を払った。


 ギブリムは「うむ」と頷き、アンサーラは「お招きに感謝します」と優雅に腰を折る。ランスベルも「はい、わかりました」と答えて、歩き出したヒルダに続いた。


 階段を上がった所で振り返ると、ランナルはニッと笑って軽く手を振ってくれた。ランスベルは頭を下げて感謝の意を示してから、ヒルダたちを追って左の扉に入る。


 その先は通路になっていて、左右に二つずつ、四つの扉がある。ヒルダは右側の手前の扉を開いて中に入った。


 そこは、ちょうどレッドドラゴン城の会議室を小さくしたような部屋だった。中央に長方形のテーブルがあり、椅子が向かい合うように並べられ、一番奥には木彫りの彫刻が施された立派な玉座があり、髭も髪もほとんど白くなった老人が肘掛に身体を預けて座っている。壁に掛けられた見事な織物と同様に、複雑な図柄を編みこんだマントを肩から掛け、刺繍の施された青色のローブに、棘のついた鉄の輪――王冠だろう――を頭に頂いている。


(この人がスヴェン王だ)


 体型はヒルダに似ていて、長身で手足が長く肩幅が広い。ヒルダのほうが父親譲りの体格と言うべきだろうが、ランスベルはそう思った。病床にあるという話どおり、ひどく痩せていて薬草のようなにおいがする。しかし、灰青色の瞳に宿る光は気力がまだ衰えていない事を表していた。


「親父、竜騎士殿をお連れしたぞ。ランスベル、親父とマグナルだ」


 ヒルダが簡単に紹介する。やはり座している老人がスヴェン王で、その隣に立つ、頭の禿げ上がった巨漢がマグナルという人らしい。


 ヒルダの適当な紹介ではどのような立場の人かは分からない。背は高いがヒルダよりはわずかに低く、でっぷりと太っている。耳の上に残った髪の毛は老王と同じく白髪混じりだが、年齢は王より幾分か下だろう。丸く突き出た腹が覆いかぶさったベルトには幅広の片手剣ブロードソードを吊るしている。


 竜騎士であるランスベルは、人間の権力者に平伏する必要はないが、礼儀として挨拶した。


「初めて謁見を賜ります。金竜騎士ランスベルと申します」


 深々と頭を下げたランスベルに、スヴェンが応じる


「不躾な娘で申し訳なく思う、金竜騎士ランスベル殿。わしはスパイク谷を統べる王、スヴェンと申す。ヒルダは娘である前に戦士たらんとする者。非礼があってもご容赦願いたい。この者は家令長にして我が代理戦士マグナルと申す」


 老王に紹介されて、マグナルは腹を突き出したまま軽く頭を下げた。代理戦士がどういう役目なのかランスベルは知らないが、今はそれを尋ねる時ではない。


 ランスベルは身体を横にずらし、後ろの二人を紹介する。

「この二人は私の旅の仲間です」


「俺はギブリム。城に招いてくれた事、感謝する」


 ギブリムが響くような低い声で名乗った。ヒルダも含めて北方人たちは姿勢を正して頭を下げる。三人を代表してスヴェンが応じた。


「伝説に謳われる戦士の一族、その名を名乗る方とお会いできるとは光栄です」


 「それから、彼女は――」と、ランスベルが言ったところでアンサーラは自ら前に出た。ずっと深く被ったままだったフードを後ろに落としてマントを外すと、漆黒の艶やかな髪がさらさらと流れる。その姿を見て、スヴェンとマグナルが息を呑む。美しい旋律のような声が部屋に流れた。


「お久しぶりです……と言うべきでしょうか。わたくしを覚えておいでですか?」


 そう問われても、しばし老王とマグナルは呆然とアンサーラを見つめていた。ヒルダが怪訝な顔をして、そんな二人を見やる。それはランスベルも同様だ。アンサーラがスパイク谷の王と知り合いとは聞いていない。


 最初に答えたのはスヴェンのほうだった。


「……むろん、覚えているとも。アンサーラ」


 アンサーラは軽く会釈した。


「覚えていてくださり、ありがたく思います。お二方とも、お変わりないご様子」


 今までずっと黙っていたマグナルが呻くようにして言う。


「いや……あなたのほうこそ、まったく変わっておられず、ただただ驚くばかりです……あなたと出会ったのは四〇年前でしたか。我が王も、私も、年を取ってしまいました」


 アンサーラに目を奪われたままマグナルはそう言いつつ、突き出た腹を引っ込めてベルトを持ち上げた。アンサーラは首を横に振る。


「嫌味だとお思いになりませんように。あなた方お二人の瞳に宿る光は、当時と全く変わっておりません」


 ヒルダはさっさと椅子に座って足を組み、身体を傾けながらやり取りを見ていたが、不意に「ふーん」と訳知り顔でマグナルを見上げた。マグナルは剥げ上がった頭頂部まで赤くして、ヒルダを一瞥する。そして誤魔化すように咳払いしてから「申し訳ない」と言って黙った。


 ランスベルにはよく分からないそのようなやり取りの後、マグナル以外の全員が着席して話は始まった。


 ランスベルは竜騎士の使命により三人で旅しているという事情を簡単に説明してからオークの件を話す。


「――というわけで、途中に立ち寄ったウラク村でオークを見たという話があり、その確認に協力したところオークを発見しました。そのオークたちの装備がはぐれ者らしくなかった事と、死の間際に〝女王〟と口にした事から、オークの女王に率いられた部族が北方への侵入を計画しているのではないかと考えたのです」


 話を聞き終えてから最初に発言したのはヒルダだった。


「そいつが斥候なのは間違いないと思うね。アンタたちも知ってると思うが、〈黒の山脈〉を越える道は〈黒の門〉ていう峠しかない。んで、アタシらはそこを見張ってる。だからオークたちが〈黒の門〉に近付いている事も、だいたいの規模も掴んでいる。最近は送り込まれる斥候の数も多くて、こっちの斥候と小競り合いを始めている状況だ。つまり、もう戦いは始まってるわけだが……変なのは、なんでアードのほうに斥候がいたのか、だね」


 ランスベルは考えていた事を思い切って尋ねた。


「〈黒の門〉以外に、〈黒の山脈〉を越える道が見つかって、それがアード地方のほうだという事はあり得ないのですか?」


 それにはヒルダが即答する。


「あり得なくはないよ。実際、四、五人程度の集団なら山越えも可能だろうさ。でも軍隊が通行できるのは〈黒の門〉以外に見つかってないし、現にオークたちは〈黒の門〉を通るつもりで動いている。それは斥候の報告からも明らかなんだ。だから少人数の集団を、遭難する危険を冒してまで〈黒の門〉より南から侵入させる理由が分からない。こちらの監視を抜けて〈黒の門〉を越えた斥候が、道に迷ってアードのほうまで行ってしまった……ってのが一番ありそうだけど」


 スヴェン王の隣に立ったままマグナルが意見する。


「そんな間抜けな理由ならいいがね。陽動という事もある」


「はん。陽動って、たったの五人でか?」と、ヒルダ。


「人数を多く見せる方法はある。それに後続集団がないとは言えんだろ?」


 マグナルが言い返し、ヒルダはすぐに言葉を返せなかった。その合間にスヴェンが口を開く。


「いずれにせよ、貴重な情報となるかもしれぬ。竜騎士殿には感謝せねばならん。この後はどちらに向かわれる予定かな?」


「実は、〈黒の門〉に向かう予定でした」


 で、良いんだよね――という確認の意味を込めてギブリムを見ると、ドワーフは頷いた。エイクリムから〈黒の門〉へ向かい、そこからドワーフの地下都市を目指すと聞いている。


「ならば、戦いが終わるまで待たれるが良かろう。いつ〈黒の門〉が戦場になるか分からぬ。敵の進軍に合わせて、こちらも〈黒の門〉へ進軍する予定なのだ」


 ランスベルは、スヴェン王が参戦を要請してくると予想していたが、老王の口調にその意図は感じられなかった。しかし今後の事について三人は事前に話し合っていた。


「スヴェン王、及ばずながら私たち三人も助力致します」


 ランスベルがそう言うと、老王の目が期待に輝いた。ヒルダが「やったぜ!」とテーブルを叩き、興奮したように言う。


「竜騎士にエルフにドワーフ……その戦いぶりが見られるなんて、きっと何百年に一度のことだろう!」


 アンサーラが老王に尋ねた。


「オークの女王は、すなわちハイ・オークのはずです。それについてはご存知でしょうか?」


 スヴェンはかすれた声で答える。


「吟遊詩人の謳う伝説に、〝オークの女王〟というものが出てくる。しかしそれを見た、人間、は、おらぬ……ごほっ」


 咳払いした老王を、マグナルがちらりと心配そうに見た。その視線を誰にも気付かれまいとするように、すぐ正面へ向き直る。ヒルダが父の言葉を引き取るようにして言った。


「アタシにとっては、ドワーフだってエルフだって吟遊詩人の詩の中の存在だったよ。でも今は目の前にこうして座って、話してる。ならきっと、オークの女王もいるんだろう」


 アンサーラは頷いた。


「はい。そして、ハイ・オークは普通のオークと比べ物にならない危険な存在です。例えて言うなら、人間とエルフほどの力の差があります。ハイ・オークと対するには、わたくしたち三人のいずれかが当たらねばなりません」


 ヒルダの目が怒りでぎらりと光るのをランスベルは見た。馬鹿にされたと思ったに違いない。だが、アンサーラの言葉は真実である。ランスベルはエイクリムまでの道中でハイ・オークが何なのか聞いた。オークが人間を元に作り出された魔獣なら、ハイ・オークはエルフを元に作り出された魔獣なのだ。


 それを語るアンサーラは平静であったが、ランスベルはその心中を慮った。アンサーラの父は同族を作り変えるという、ランスベルには想像できない行為にまで手を染めていたのだ。必要がなければアンサーラは話さなかっただろうし、ランスベルも聞きたくはなかった。


 ヒルダと違い、スヴェンとマグナルの二人は理解したようだった。


「わしはかつてアンサーラの戦いを見た。ハイ・オークはアンサーラと同じように戦えると?」


 そう言うスヴェンの声はますます擦れ、呼吸に異音が混ざり始めている。マグナルは不安を押し隠そうとしているが上手くいっていない。アンサーラもそれに気付いているだろうが、彼女は老王の問いに答えた。


「戦いに関して、どれだけの技量があるかは分かりません。しかし、身体能力は同じだと考えておくべきです。魔法も使えると思います」


 スヴェンが「それでは――」と何か言おうとして、突然苦しそうに咳き込んだ。


「我が王!」


 マグナルが身体を二つに折って苦しむスヴェンに手を貸し、背中をさする。そうしながら老王の様子を見て、他の者に向かって言った。


「一時、解散してもよろしいか?」


 ランスベルにはそれを拒否する理由がないし、ヒルダもそれは同様のようだった。


「戦いはアタシに任せて、親父は休んでると良いよ」


 それは父親を心配する娘の心情から出た言葉だとランスベルにも分かったが、老王はぎらりと目を光らせてヒルダを睨んだ。とはいえ、ヒルダがそれに怯む様子はなく、正面から受け止める。


 親子が視線で火花を散らす場面は珍しくないようだ。マグナルは慌てず、少し強めの口調でヒルダに言った。


「ヒルダ、竜騎士殿らを客間に案内してくれ。わしは王を寝所に連れてゆく」


 いかに病床の老王とはいえ、他人の手を借りて歩く姿を見せるわけには行かないのだろう。


「……わかったよ。ランスベル、こっちだ」

 ヒルダはそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまう。


 追うべきかどうかランスベルは困惑した。アンサーラが助け舟を出す。

「ランスベル、ヒルダ王女と行って下さい。わたくしはここに残ります」


「いえいえ!」


 マグナルが慌てて断る。アンサーラは胸に手を当て、真剣な眼差しでマグナルを見つめて言った。


「わたくしはスパイク谷の民でも、人間でもありませんから、スヴェン王の尊厳を損なうことはありません。それにご容態を診させて頂ければ、きっとできる事もあるでしょう」


「アンサーラ殿……」と、マグナルは呟いた。


 その時、スヴェンがマグナルの袖を掴んで引っ張った。マグナルが耳を寄せると老王は何事か囁く。ランスベルには聞き取れなかったが、マグナルの表情は雄弁に語った。驚いたように目を見開き、目を閉じて苦悩して、それから苦渋に満ちた表情でアンサーラに答える。


「……お願いします、アンサーラ殿……」


 アンサーラは頷き、それからランスベルに向かって言った。

「ここはわたくしに任せて」


 ランスベルは頷き、誰にともなく「それでは、私は失礼します」と頭を下げて退室を告げ、ヒルダを追った。

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