3.ギャレット ―盟約暦1006年、秋、第10週―

 ギャレットは壁の隙間の狭い階段を、なるべく壁に触れないよう注意深く下りて行った。持ってきたことを早くも後悔している長剣ロングソードは腰に吊るさずに両手で抱えている。壁に当ててしまったら音が向こう側へ響いてしまうかもしれないからだ。ぴったりした革の胴衣レザージャーキンは新しいが独特の臭いがして、まだ硬さもあった。手にした蝋燭の頼りない灯りで足元を照らし、一段ずつ下っていく。この幅ではいざという時、グスタフは通れないのではないかと思われた。


 やっと階段が終わり、一息つく。どのくらいの高さを下りてきたか分からないが、感覚的には四階以上あったような感じだ。階段の下は一見して行き止まりのようでも灯りを上下に動かして注意深く調べると、二枚の壁が微妙にずれていて隙間がある。影が作る錯覚で一枚に見える仕掛けだ。念のため縁に革手袋をした指を這わせて確認しながら隙間に入る。


 長身で、かつ足の悪いヴィルヘルムが本当にこんな場所を通ったのかという疑問さえ浮かんでくるが、壁の隙間には新しい、何かが擦れたような跡があった。最近、誰かが通ったのは間違いない。


 人がやっと一人通れる程度の隙間を抜けると、今度は井戸のような円形の穴に足場の付いた螺旋階段があるだけの小部屋になっていた。下から吹き上げてくる風が心細げな音を立てている。この風と音がなかったら、床があると思って足を踏み出し転落したかもしれない。仮に落ちてしまっても、両手両足を突っ張れば階段に引っ掛けられるような大きさではあるが、試してみたくはない。壁に手を当てて螺旋階段を下りていく。


 壁をよく見ると、ここにも何かを擦ったような跡があった。ヴィルヘルムが残した痕跡だろう。この螺旋階段の底には、恐ろしいことに、尖った杭が上向きに立ててあった。触れれば崩れるかもしれないというほどに錆びて、朽ちているので、用は為さないかもしれない。しかし、こういう罠があるというのは怖い事だった。


 戦場では恐れ知らずのギャレットでも、慣れない任務で慣れない場所に来ると、人並みに恐怖を感じる。


 螺旋階段の底には人間一人が通れるくらいの入口があって、その向こうには暗闇が広がっている。空気が流れてくるので、やはりどこかに隙間なり空気穴のようなものがあるに違いない。湿ったかび臭い空気に顔をしかめて、暗闇に踏み出す。


 そこは通路なのか部屋なのか分からない広い空間だった。手にした蝋燭の照明では天井が微かに見える程度で、背後の入口以外は果てが見えない。今まで狭い場所にいた不安感は、広い場所に出ることで逆に増した。ただの暗闇の中に、ぽつんと蝋燭の灯りと自分だけが存在しているという寄る辺の無い不安だ。


 ギャレットはベルトに下げていた松明を手に取り、蝋燭の火を移して燃え上がるのを待った。蝋燭より見える範囲の広い松明でも、天井は見えるが、この場所の形は把握できない。


 燭台を入口に残して、長剣ロングソードを腰に吊るしたギャレットは壁沿いに歩いた。勝手な予想では、抜け道というものはまっすぐ一本道だと思っていた。もし分かれ道や迷路のようになっていた場合はどうするべきだろう。


 抜け道の内部についても聞いておいて欲しかったな――と、ギャレットはフィリベルトを恨んだ。


 心配は的中し、この部屋からは三つの通路が別々の方向に伸びていた。螺旋階段へ通じる出入口を含めれば四方向に同じような出入口がある。


 暗く目印のない空間では、ぐるりと一周しただけで方向感覚は惑わされてしまう。入ってきた出入口に蝋燭を置いたのは深い考えがあっての行動ではなかったが、そうしていなければ、いきなり方向を見失ったかもしれない。


 四つの出入口の床を調べると、一つに足跡が残っていた。堆積した湿った埃に、はっきりブーツと杖の跡が残っている。ギャレットは予備に持っていた蝋燭に火を付け、その入口に蝋を垂らして立てた。


 その先は一本道で、かなり古い地下道のようだ。床は所々、歪んで傾いている。天井からは地下水が染み出して水滴を垂らし、苔むし、茸が繁殖している場所もあった。陥没して水が溜まっている箇所もある。


 今まで見た事がない長さのムカデに似た虫が、光と熱を避けて石壁の隙間に潜り込んでいき、黒くて素早い甲虫の大群が影の中でざわっと動く。小さく甲高い鳴き声が聞こえたので、ネズミかそれに似た小動物もいるらしい。


 この通路は左右に小さな部屋が並んでいる。そのどれかにヴィルヘルムか、最悪の場合は敵兵がいるかもしれないので、床に残った痕跡を追いつつも念のため部屋の中を確認しながら進んだ。


 そうして探索しながら進んでいく途中、ふいに前方の通路を何かが横切った。松明を向けても何もいない。ネズミかもしれないが、それにしては大きく、そして二本の足で走っていたように見えた。


(まさか、小人か!?)


 ギャレットはずっと昔、まだ少年だった頃にマラクスという港町で小人を見た事がある。移動中に船の手配で間違いがあり、一日だけ自由が与えられた日で、市場を歩いていた時だ。


 人だかりに興味を惹かれて覗いてみると、小さな鉄の檻に入れられた小人がいた。身長は大人の手のひらと同じくらい。単純に小さい人間という外見で、手足は小枝のように細く、簡単に折れてしまいそうだった。


 道化師のような衣装を着ていたが、それは小人を売っている商人が着せたのかもしれない。小人は怯えていて、人間が手を伸ばすと悲鳴を上げた。それが人間たちをより楽しませている事にも気付かずに。


 面白がっている大人たちの中で、ギャレットは何故か、その小人を殺してしまいたくなった。それで、すぐにその場を離れたのだった。


 何かが横切った通路まで進むと、左右に分かれていて、そこには二つの足跡がある。一つは、ここまで追ってきたヴィルヘルムと思われる足跡で、右に向かっていた。もう一つは、小さな人間の足跡で左に向かっている。その大きさから推測できる身長は、かつて見た小人と同じくらいであった。本当に小人がいるのかもしれない。


 小人に知性はあるのか、言葉は通じるのか――マラクスで見た時に確かめておけば良かったと今更ながら思う。もし知性があって会話も可能なら、ヴィルヘルムについて何か聞けるかもしれない。念のため短剣ダガーを抜き、ギャレットは小人の足跡を辿った。


 そこはこれまでの通路よりも自然に侵食されていて、木の根や植物の蔓が入り込んでいた。植物と土のにおいに、獣臭さと死臭が混じっている。


 この地下通路にある部屋は全て扉が取り払われていたのだが、一つだけ傾いた扉が残っている部屋があり、臭いはそこから漂ってくるようだ。扉の前には小さな動物――たぶんネズミだろう――の骨や、甲虫の殻などが散乱している。


 気配を感じて松明で前方を照らすと、扉の影に小人がいた。


 かつてギャレットが見た小人の仲間なのだろうか。灰色のネズミに似た毛に全身覆われていて、かなりずんぐりした丸っこい体型をしている。灰色の毛の間の、小さな黒い瞳が松明の光を反射した。顔のほとんどは丸い団子鼻に占められている。そいつは扉の縁に小さな手をかけて、ギャレットを見ていた。


 警戒はしている様子だが、マラクスで見た小人のように悲鳴を上げて逃げ出すという感じでもない。様子を見ている、というのが正しいだろう。


 ファランティアに魔獣はいないと聞いているので、こいつらは魔獣ではないのだなとギャレットは思った。


「おい、杖をついた人間は見なかったか。俺よりも大きい」と、手を頭の上で高くしてヴィルヘルムが長身であることを説明する。しかし、灰色の小人はびくりとして扉の奥へ隠れてしまった。


 ギャレットは腰の袋から干し肉を取り出すと、短剣ダガーの刃を当てて小さく切り、それを扉の前に置く。


「情報料だ」


 時間の無駄だと思いつつも、好奇心からしばらく待っていると、灰色の小人が出て来た。ギャレットの置いた干し肉を観察していたが、やがて手に取り、匂いを嗅いでから口に含む。簡単に噛み切れるほど柔らかくないのだが、ぶちっと音を立てて小人は噛み千切った。見た目に反して噛む力は強いようだ。


「言葉は分かるか? 人間を見なかったか?」


 干し肉を咀嚼するのに忙しいのか、灰色の小人は答えない。


(駄目だな)


 ギャレットが諦めた時、灰色の小人は干し肉の残りを背中に隠して、さっと小さな手を出してきた。まるで、〝もっとよこせ〟と言っているような仕草である。

 その図々しさが気に入って、ギャレットは干し肉を全て差し出した。灰色の小人にとっては大きな塊なので、両手で抱えるようにして扉の影に消えていく。


「じゃあな」


 ギャレットが別れを告げて立ち去ろうと腰を浮かせた時、松明の光を反射して部屋の中で何かがキラリと光った。灰色の小人が頭に見事な装飾品を被って出てくる。


 それは、見た事も無い黒い宝石が付いた首飾りで、鎖は金と銀の輪を編んで作られたものだ。一見してかなりの値打ち物だと分かる。中心の黒い宝石が黒曜石だとしても、それ以外の部分だけでかなりの値段が付きそうだ。


 灰色の小人は、それを両手で持ち上げてギャレットに差し出している。


「俺にくれるのか? 交換ということか?」


 尋ねても返事はない。小さな豆粒のように黒い瞳は、〝そうだ〟と言っているようにも見える。


 ギャレットは松明を床に置き、警戒しながらその首飾りを持ち上げた。松明の光を吸い込むような黒い宝石の輝きは、ギャレットのような人間でさえ魅了する美しさだ。黒曜石ではないが、このような黒い宝石は見た事がない。


 灰色の小人は満足したのか、扉の隙間から中へ戻ると、もう出てこなかった。

 ギャレットは首飾りを腰の袋に入れて、通路を引き返し、そのままヴィルヘルムの足跡が続く方向へ直進する。


 地下通路の中は外よりも暖かいが、進むにつれて徐々に冷えてきた。通路には階段のような段差が付き、上へと向かっている。床を這う冷気は、間違いなく外気だ。出口があるに違いない。


 結局、ヴィルヘルムは見つからなかったが、まだ行っていない通路も探索すべきだろうか。足跡はまっすぐここへ向かっていたので、ヴィルヘルムがこの地下通路をうろうろしたとは思えない。考えても分からないので、出口を調べてから戻る事に決めて、ギャレットは進んだ。


 通路の行き止まりは石組みの階段になっていて、天井に鉄製の扉が付いている。内側に掛けるための閂は外されて床に放置されていた。錆の付着具合や埃の状態などから、最近外されたように思える。


 扉を調べると、鍵は掛かっていた。扉は冷たく、向こう側に外気が入り込んでいるのは間違いない。鍵穴にも擦った跡があり、最近誰かが使ったようである。これらの痕跡から、ヴィルヘルムがここから出て行ったのは間違いなさそうだった。


 反対側に聞き耳を立てて何も聞こえないのを確認してから、預かった鍵をゆっくり回す。金属の擦れる音が思ったより大きい。近くに人間がいたら確実に気付かれるだろう。ゆっくりと、軋む金属の扉を押し開けると、そこは小さな地下室だった。頭上の床だった部分は崩落していて、星空が見える。


 地下室跡から、頭だけ出すようにして周囲を見回すと森の中だった。おそらく、ブラックウォール城の北にある〈ベッカー家の森〉だろう。家臣でも許可なく立ち入りは許されない場所である。


 抜け道への入口がある崩落した地下室の周囲は、円形に建物の基部だけが残っていて、それも植物に覆われている。何も知らない者が通りかかったら、うっかりこの穴に落ちてしまうかもしれない。それほど建物の基部は地面と同化していた。


 よく見ると地下への扉にも土が積もっていた様子がある。扉を開けた時、それが頭の上から降ってこなかったのは、最近誰かがこの扉を開けたからだ。

 ギャレットは注意深く外を探ったが、夜の森では視界が悪すぎた。それでも、近くに人の気配がない事くらいは分かる。


(ここまでだな)


 ギャレットはそう判断して、最後に森の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んでから、地下へ戻って扉をゆっくりと閉じた。鍵を掛け直して、閂を戻す。これで仮にヴィルヘルムが戻ってきても、ここからは入れない。扉を壊さない限りは。


 抜け道を引き返して城内に戻り、壁の隙間から小さな部屋に出た。そこは天守キープの最上階で、グスタフの部屋と、亡くなった彼の妻エミーリアが使っていた部屋の間にあり、物置になっている。


 大人二人がやっと並べる程度の幅しかない細長い部屋で、間違いで出来てしまった空間を誤魔化そうとして作られたような部屋だ。頑丈な箱や、古い家具などが積み上げられ埃を被っている。窓もないので、明かりが無ければ昼間でも真っ暗だろう。


 箱の一つを椅子代わりにして待っていたフィリベルトは、ギャレットの姿を見てさっそく尋ねてきた。


「どうだった?」


 ギャレットは地下の様子と、ヴィルヘルムがおそらく外に出たであろう事、そして小人の事は伏せて、見つけた首飾りを差し出した。


 ヴィルヘルムの話を聞いてがっくりと肩を落としたフィリベルトだったが、首飾りを見ると驚きに目を丸くして身を乗り出す。


「そ、それは〈黒い太陽〉ではないか!?」


 〝渡せ〟というように両手を差し出したので、ギャレットは首飾りを渡した。フィリベルトはそれをとても大切な物のように扱い、蝋燭の明かりでじっくりと観察し始める。


「有名な品物なのですか?」


 ギャレットが問うと、〝何を馬鹿な事を言っているんだ〟という顔をしてフィリベルトは答えた。


「ベッカー家の失われた家宝だよ。グスタフ公の父、ライルバッハ様の時代に失われたものだ。アデリン陛下の婚礼の折にも、これがその胸元を飾れない事をグスタフ公は心より悔やんでおられた。ヴィルヘルムの件は残念だが、この家宝のようにいつか戻るかもしれんな……うむ、我ながら良い言葉だ。グスタフ公にもそのように話そう。気を持ち直してくれるやもしれぬ」


 フィリベルトは首飾りを大事そうに、懐へと入れた。


「後の事は明日、フランツと話せ。私はグスタフ公にこれをお届けする。でかしたぞ、ギャレット」


 そう言って、フィリベルトは慌ただしく部屋から出て行った。


 翌朝、ギャレットはフランツの部屋を訪れ、地下探検の話をした。崩落の危険性や、まだ見ていない通路がある事、扉は脆くなっていて補強しなければならない事――それから灰色の小人に話が及ぶと、フランツは目を丸くした。


「それは灰色小人だ。おとぎ話では、灰色小人に食べ物を渡すと失せ物を返してくれるのだが、魔法の力だったり、実は灰色小人が盗んでいたり、話によって違いがある。それにしても、本当にいたのだな。しかも、この城の地下に住んでいたとは……」


 フランツの声には多少、楽しげな雰囲気がある。しかしギャレットは、こんな時に見つかるくらいなら見つからなければ良かったのにと思っていた。この城が帝国に占領されれば確実に奪われてしまうからだ。


 二人がそんな話をしていると扉が叩かれ、フランツの返事も待たずに開かれた。そこに立っていたのはグスタフだ。


「グスタフ公」

 二人は慌てて椅子から立ち上がり、頭を垂れる。


「そのままでよい」


 そう言ってグスタフは部屋の中まで入って来た。その背後で、付き従っているフィリベルトが扉を閉める。


 グスタフは少し疲れているように見えたが、フィリベルトから聞いていたような憔悴ぶりは感じられなかった。いつもどおりの無愛想な顔だ。城主の背後からフィリベルトがギャレットに向けて、〝上手くいったぞ〟と言いたげな顔をして見せたが、窓まで歩いたグスタフが振り向いたので、慌てて表情を隠す。


 グスタフがそれに気付いたかどうか分からないが、気にしない様子で三人に向けて言った。


「ここにいる皆と、ベルントには心配をかけたようだ」


 そして無言で目線を下げる。それは彼にできる最大の謝辞に思えた。


「ヴィルヘルムが無事に脱出したのなら……生きておるのなら、いずれこの城に戻り、わしの後を継いでくれると信じる事にした。〈黒い太陽〉が再び戻ってきたのは、その身に流れる血を信じよ、という先祖のお告げかもしれぬ。そして自由騎士ギャレットよ。そなたは二度に渡り、我が家の宝を取り戻してくれた。〈クライン川の会戦〉からヴィルヘルムを、そして今、〈黒い太陽〉を――」


 グスタフはいったん言葉を切った。ギャレットは何と言うべきか分からず、黙って頭を下げる。


「――だがヴィルヘルムの件、抜け道の件、そして〈黒い太陽〉の件も、公言できぬ。よって、すぐにそなたの働きに報いることはできんが、いずれは報いる事もできよう」


 グスタフがここまで言うのは珍しく、フィリベルトもフランツも、驚いたようにギャレットを見た。ギャレットは誇らしさよりも居心地の悪さを感じて、お決まりの文句を口にする。


「私ごときには、もったいない御言葉です」


「うむ」と、グスタフは頷いて続けた。


「我が命に代えてもブラックウォール城は守りきらねばならん。だが、腹が減っては戦はできぬ。まずは食事だ。皆も付いてまいれ。それから今後について話し合おうぞ」


 〈黒い太陽〉が戻っても、ブラックウォール城を取り巻く状況は何一つ変わりはしない。しかし少なくとも、しかめ面の城主が戻ってきただけましになったかもしれない――ギャレットはそう思う事にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る