2.ペールヨルン ―盟約暦1006年、秋、第10週―

「そろそろ終わりにしよう」

 ペールヨルンは二人で扱う大きな鋸を置いて、相方と他の仲間に呼びかけた。


 久しぶりの晴れ間を利用して村の作業所で木材の切り出しをしていたが、すでに日は山の陰に落ちている。山の稜線を浮かび上がらせていた光も衰え、それを反射して白く光っていた川も黒い流れに変わろうとしていた。


 篝火を炊いて作業を続けることもできるが、体力的にも終えるべき時だ。刃物を扱う仕事は手元が狂うと大変な事故に繋がる。もっと早くに作業を終えても良かったが、村の周囲を囲む壁を補強するのに大量の木材が必要とされていた。


 ペールヨルン以外には、イェルドだけがオークの姿を見ている。三人の旅人とイェルドがペールヨルンの目撃したオークを調べに行き、そして戻ってきたイェルドが血相を変えて村人に報告しても、彼らの反応はそれほど緊迫したものではなかった。


 前回のオークとの戦いから八年が経過している。そろそろまたオークの侵入があってもおかしくない時期だと誰しも思っていたのだ。オークの出現にはある程度の周期性がある。そして前回、前々回と小規模な戦いで終わったと聞いていた。オークを撃退したのはスパイク谷で、この村の人間はその戦いに参加していない。今回もまた、オークとの戦いにこの村が巻き込まれる可能性は低いと村人たちは考えている。


 実際にオークの姿を見ているペールヨルンは、イェルドの危機感が理解できた。確かに部族からはぐれたオークの小集団という感じではなかったし、〈黒の山脈〉ではなく、より南のアード地方に彼らがいた事には何か意味があるように思う。


 ブラン王の軍に合流するために五人の若者が村を離れている今、用心に越したことはない。もし戦いとなれば、ペールヨルンも大きな体を活かして斧で戦うつもりでいる。


 ペールヨルンは作業所の焚き火で、一緒に作業していた仲間と共にぬるいミード酒を飲み、汗を拭いて作業所を後にした。皆で酒場に向かって坂道を上がっていくと、村の入口方面から下ってくるイェルドの姿が目に入る。


 普段なら呼びかけて挨拶するくらいだが、今日はまた四人の旅人を連れていた。


 立て続けに旅人が村を訪れるのは珍しい事である。四人のうち三人は馬を引いて歩く北方の戦士で、服装からしてスパイク谷の戦士だとペールヨルンは思った。残りの一人は馬で運ばれている。ぽっちゃりと太った男で、両手を後ろに、太い胴体をぐるぐる巻きに縛られていた。頬を赤く染め、不満げに口を尖らせている。その表情は子供っぽいが、外見は十分に大人だ。二〇代後半から三〇歳手前というところか。


 縛られて不満のない者などいないので、そんな態度でもおかしくはないが、ペールヨルンは何か引っかかるものを感じた。酒場に向かう仲間たちを先に行かせ、道が合流する場所でイェルドと旅人を待って声をかける。


「イェルド、この人たちは?」


「ああ、スパイク谷の人だ。罪人を追いかけてアードまで来たんだと。捕まえて戻る途中だそうだ」


 イェルドの声は少し落ち込んでいるようだった。ペールヨルン同様に、彼もスパイク谷が戦士を派遣してくれたのではと期待したのだろう。


 三人の旅人はスパイク谷の戦士を代表したような服装であった。兜の中心には尖った山が額から後頭部まで一本通っていて、目と鼻を覆う面当てが付いている。長方形の金属片を縫い合わせたラメラ―アーマーを、鎖帷子チェインホーバークの上に着ていた。スパイク谷を表す色を交互に編んだ織布を袈裟懸けにしてベルトで止め、その下はスカートのように垂らしている。分厚い毛皮のブーツと手袋は長く、それぞれ膝と肘の上まであった。冷気や雪が侵入しないように、だ。


 防寒のためだけでなく首を保護する意味もある分厚く巻かれた首巻きマフラーを、リーダーらしい先頭の男以外は口元が隠れるほどに引き上げていた。背負った円形盾ラウンドシールドには尖った鋲スパイクが打ち付けてあるが、スパイク谷という名前に由来するわけではない。鎧を着た相手にはあまり効果がなくとも、素肌を露出させている事が多いオークを相手にする場合は有効だからだ。


 その服装に何らおかしな所は無い。罪人を捕らえるために数人の戦士が他の地方まで旅するのも珍しくはない。


 ペールヨルンが違和感の正体について考えている間に、イェルドに先導された一団は彼の前を通り過ぎて酒場に向かって歩いて行く。


「くそっ、腕が痛てぇ。なんで俺が――」


 すれ違いざま、馬上の罪人は小さな声で不満を漏らしたが、戦士の一人が素早くわき腹を打って黙らせた。その言葉には強い南部訛りが感じられた。アード地方よりもさらに南、ファランティアの訛りだ。


 彼らを見送って、ペールヨルンは酒場に寄らず自宅へと向かった。

 家に帰ると、手ぶらな夫を見て妻のヘルナが険のある声で問う。


「あんた、なんか忘れてない?」


「忘れてないさ」


 そう答えてペールヨルンは両手を火にかざした。ヘルナは炉の向こう側で両の拳を腰に当て、怒りを表現しながら指摘する。


「酒場でカミラからチーズを受け取って来て、って言った事よ。どこにチーズがあるってのさ!」


 二人目の子供を身篭ってから、ヘルナは不機嫌な事が多い。特にペールヨルンが思い通りに動いてくれない時は、ちょっとした事でも腹を立てる。


 怒りっぽい子にならなければいいが――と、ヘルナの目立つ腹を見ながらペールヨルンは思った。そして妻の逆鱗に触れないよう注意深く答える。


「忘れてないよ。それは覚えているが、少し気になることがあってイェルドの家に行かなきゃならん。チーズは明日でもいいだろう?」


「それは、チーズよりも大事な用件なの?」


 今のヘルナにとってチーズがどれだけ重要なのかペールヨルンは知らない。つい数日前までチーズの臭いが嫌だと言って全部外に出させたくらいなのだ。だが、似たような事は一度目の時にもあったから、子供を身篭った女とはそういうものなのだろう。


「ああ。チーズよりも重要なんだ」


 その代償にヘルナの怒りを受けるほどの確信があるわけではないが、そう答える。


「そう。なら、仕方が無いわね」


 ついさっき自分で言った言葉を忘れてしまったかのように、今度はあっさりと引いたのでペールヨルンは肩透かしを食らった。だが、そのほうが本来の彼女らしい。ヘルナは火にかけた鍋の様子を見てから、刻んだ野菜を取りに行った。


 ペールヨルンも立ち上がって炉辺を離れ、上着を羽織る。北方人にとっては、まだそれほど厚着が必要な季節ではない。それから食料品を置いた棚を漁ってパンの塊とミード酒の瓶を手に取り、「じゃあ、行ってくる」とヘルナに声をかけた。家の扉に手をかけたところでふと思いつき、振り返ってもう一度ヘルナに言う。


「戸締りはしっかりしてくれ。外のやつらが村にいる」


 奥から「はぁい」というヘルナの声と、三歳になる長男の声がした。


 外に出ると、村はすっかり暗くなっていた。しかし、普段から暗い森の中を歩く木こりのペールヨルンにとっては、まだ明かりは不要だ。


 村内の道が交差する場所で、ボーリが松明台に火を点けようとしていた。そこは酒場からの一本道も合流する村の交差点で、川原に向かって斜面が切り立っている。昔、酔った男が足を踏み外して転げ落ち、首を折って死んだらしい。それで明かりを置くようになったという事だが、村人にとって夜中に火を手に入れるのに便利な場所だからという理由ではないかと、ペールヨルンは子供の頃から思っている。


 ボーリと挨拶を交わして坂道を上へと進み、途中で折り返すように続く細い道に入って、その行き止まりにあるイェルドの家に向かう。離れた場所からでも明かりがないのは見て取れたので、まだ戻っていないのだろう。最初から帰ってくるのを待つつもりだったので問題はない。


 イェルドの家に到着して念のため呼びかけてみるが、やはり返事はなかった。窓も閉まっている。ペールヨルンは窓の下に置かれた腰掛けに座り、背を家に預けた。持ってきた堅いパンをナイフで切り取って口に入れ、柔らかくなってからミード酒で飲み込む。


 イェルドの家は村の中でも少し外れた場所にある一軒家だ。子供の頃は、なんでこんな不便な場所に家を建てたのだろうと不思議に思ったものだが、今は違う。


(おそらくイェルドの先祖は俺と似たようなやつだったのだろう。こうして一人でいるほうが落ち着く)


 自宅は身体を休める場所であり、毎日帰るべき場所であるのは間違いない。しかし彼の心が真に休まるのは、森の中で一人佇む時だった。戦争が終わってやっとまた一人で森に行けるようになった矢先に、オークの騒動が始まって、ペールヨルンの心は森を求めている。


 山のほうに視線を向けると、そこには真の暗闇が広がっていた。森は、夜空よりずっと暗い。星さえないのだから。


 夜の森は素晴らしく落ち着くだろう――ペールヨルンは思いを馳せる。


 松明の光がかなり近くに来てやっと、ペールヨルンは我に返った。


「誰かいるのか、誰だ?」


 光の中からイェルドが誰何する。顔が赤いのは、酒を飲んできたからだろう。周囲を照らすために明かりを持っているのに、闇の中にいる自分のほうが光の中にいるイェルドを良く見る事ができるというのも不思議なことだ、とペールヨルンは思った。


「俺だ。ペールヨルンだ」


 イェルドは光をかざしてペールヨルンの姿を確認すると、少し怪訝な顔をする。


「おお、なんだ。どうした」


「少し話したいことがあってな」


 イェルドは扉の鍵を開けてからペールヨルンを招いた。


「そうか。中で話すか?」


 ペールヨルンは頷いて立ち上がり、イェルドに続いて家に入った。


 イェルドは外の松明立てに置いた松明から火を家の中の炉に移し、炉辺に椅子を持ってきて勧めた。二人とも椅子に腰を落ち着けてから、ペールヨルンは話を切り出した。


「今日村にきたスパイク谷の四人だが、どう思う?」


 イェルドは首をかしげて聞き返す。

「どう、とは?」


「罪人だというあの太った男だが、俺の見たところ、あいつは北方人じゃない。スパイク谷の戦士を名乗る三人も、格好は全く疑う余地もないが、なんというか服装が揃いすぎていないか?」


 ペールヨルンはこの村で生まれ育ち、村の周囲を囲む森と山は隅々まで知っているものの、他の土地の事はよく知らない。だが、以前にスパイク谷の戦士が村にやってきた時の事は覚えている。その時の彼らは似たような格好ではあったものの、あれほど統一感は無かった。むしろ自己主張が強く、他人と同じ格好をしたくないという雰囲気だったと記憶している。それに対して、今日やって来た三人は画一的すぎる。


 イェルドは金属片で補強した革の小手レザーグローブを外しつつ答えた。


「詳しくは聞いてないが、兄弟とか、なんとか団と名乗ってるとか、理由はいくらでも考えられるぞ」


 そう言われてしまうと反論できず、ペールヨルンは別の疑問に切り替えた。


「それにあの格好。まるで冬みたいだ。まだ秋だぞ。あの罪人だけじゃなく、戦士たちも北方人じゃないとしたら……あいつらの顔を見たか?」


 イェルドは革の小手レザーグローブをどさりとテーブルに放った。


「酒場では兜と首巻きマフラーを取っていたが、北方人の顔をしていたと思う。気になるなら、見に行ってみろ。朝まで酒場にいるはずだ。イサクが付いてる」


「そうか……」

 ペールヨルンは納得しきれないまま、そう呟いて沈黙した。


 イェルドは古株の戦士で、今は亡きヤルマール王から直接任命された衛士だ。何年も村を出入りする人間を見てきている。だがペールヨルンから見れば、イェルドはそのぶっきらぼうな態度ほどに疑り深い性格ではないし、親切な男だ。


 むしろペールヨルンのような人見知りのほうが門番に相応しいのではないか――と思うこともある。しかし経験豊富なイェルドがそう言うのであれば、そうなのかもしれない。


 イェルドは腰のベルトに下げた袋や短剣ダガーなどを外してテーブルに置き、分厚いブーツを脱いで足の指を自由にした。そして黙っているペールヨルンに身体を向けると、ため息をついてから口を開く。


「なあ、ペールヨルン。仮にお前の言うとおりで、あの四人は北方人に変装した外国人だとしよう。だがそれを指摘してどうなる。より厄介な事に巻き込まれるだけじゃないのか。気付かぬふりをしてやり過ごすのが賢いやり方だ」


 それは最良の判断に思えたが、ペールヨルンは最後の抵抗をして見せた。


「もしあの四人が南方のなんとか帝国の密偵だとしてもか。もし、オークが魔法で人間に化けているとしてもか?」


 オークという言葉にイェルドはぴくりと眉を動かしたが、それでも持論は曲げなかった。


「ああ、もしそうだとしてもだ。この村の中で厄介事が起きない限り、蜂の巣を突くような真似はすべきじゃない。仮にオークを見つけても、この村に手を出さない限りは無視する」


 そう言い切ってから、ペールヨルンの心臓の位置に指を突きつけ、年長者らしく命じた。


「お前もそうしろ」


 ペールヨルンは受け入れざるを得なかった。

「……分かった。夜遅くにすまなかった」


 頭を下げてペールヨルンは立ち上がり、扉に向かう。その背中に向かってイェルドが言った。


「だが、まず俺のところに来たのは賢い選択だったぞ」


 ペールヨルンは振り返って、目で頷いてから外に出た。


 イェルドの家から出る頃には、村は夜の闇に沈んでいた。松明台に置かれた松明はまだ燃えていたので、それを貰って行こうかと手を伸ばしかけて、止める。


 もう一度、山のほうに目をやると、そこには変わらず暗闇があり、ペールヨルンはその中に駆け出して行きたいという衝動に駆られた。だが、それは愚かな行為だ。酒場に行って例の四人組を見張ろうか、とも考えたが、やはりそれも愚かな行為なのだろう。


 だからペールヨルンは、夜道をゆっくり歩いて家に帰るという、最も賢い選択をした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る