9.アンサーラ ―盟約暦1006年、秋、第8週―
アンサーラは村に面した川辺に座り、目を閉じて夜の世界に浸っていた。
月が厚い雲の向こうにある夜は、人間たちにとって暗闇にも等しいだろうが、エルフであるアンサーラは僅かな光でも物を見る事ができる。だから闇に身を置こうとすれば目を閉じなければならない。
アンサーラは夜の世界に満ちる音が好きだ。世界を渡る風の音、川辺の丸石を洗う水の音、森で繰り広げられる静かな命のやり取り、たくさんの葉の合唱――人間たちは夜を静寂の世界だと思っているようだが、そんな事はない。
この村全体から立ち上る人間の臭いも、夜風が少しずつ散らしてくれる。夜明け前には、この場所で得られる最も清浄な空気を味わうことができるだろう。
〈ナイトエルフの反乱〉と呼ばれた戦いが終わって数百年の間は、アンサーラもデイエルフのように昼の光を愛で、夜の闇を否定しようとしていた。
それは闇で光る金色の瞳のせいだったし、夜の闇のような漆黒の髪のせいだったし、半分はナイトエルフであるという出自――もっと正確には狂王ザラーサンサーラの娘だという事――のせいだった。
だが、長い時間をかけてアンサーラは自己否定の無意味さを理解した。昼の光と同じように、夜の闇を愛せるのは特別な事なのだ。
酒場でオークの話をした時の事をアンサーラは反省していた。
アンサーラ――というよりエルフという種族は、自分たちが人間より上位の存在だと自覚している。ランスベルを愚かな子供として扱ったつもりはないが、そう取られても仕方の無い言いようだったかもしれない。
エルフは肉体的に老いる事はないが、永遠に成長し続けるわけでもない。肉体的にも精神的にも限界はある。長い年月の中で忘れてしまう事もあるし、思い込みから間違った記憶を信じ込む事もある。価値観や精神性が変化する事もある。それでも、最も賢いとされる人間ですら、まるで子供のように未熟だと感じてしまうのだ。
身体能力にしても、人間が最も力を増す短い間でさえエルフには到底及ばない。エルフの身体能力は魔法的なものではあるが、筋肉の動きや反射を制御する技術にも長けている。長い間、同じ肉体を使っているのだから操り方に習熟するのは当然である。
例えるなら、エルフにとって人間は野に咲く花のようなものだ。ほんの短い季節に咲き誇り、ふと気付けば朽ちている。もしいくつか摘み取っても、季節が巡ればまたそこに繁茂している――そうした考え方が、数々の過ちの原因なのだとアンサーラは理解している。
デイエルフですら、生物の生長を誘導する。バラはより美しく、樫の木はより硬く、という具合に。彼らは生物が本来望んでいる生長を魔法で手助けしているだけだと言うが、それは自分たちが特別な存在だという自覚がなければ言えない言葉だ。
父がした事はその延長線上にあり、程度の差なのだ。確かに踏み越えてはいけない一線を越えてしまったのは事実だが、根本的な思想は同じだ。
ランスベルは繊細で、相手の境遇に立って物事を理解しようとする。それはアンサーラが好む性質であり、人間という種がエルフとは違う道を歩めるかもしれない可能性だ。しかし、それゆえに迷い、愚かな選択をする。ファランティア以外の人間世界では弱者と見做されてしまう。だから守り、育んでいきたいと思ってしまった。まさにエルフ的な考え方だ。
(わたくしはもっとランスベルを尊重しなければならない。〈盟約〉の誓いにある〝守り〟とは単に現実的な脅威から彼の身を守り、〝導く〟とは〈エルフの港〉に連れて行くという意味でしかない)
〈盟約〉には二つの誓約がある。最初の誓約は、エルフはファーラランティーアの地から立ち去り、以後干渉せぬ事。そして最後の誓約は、最後の竜騎士を守って〈エルフの港〉に導く事。
この二つの誓約を果たした時、最後の誓約で〈盟約の者〉が口にした願いが竜語魔法として発現する。竜語魔法はこの世界を形作る力と同種のものだ。この世界に限定すれば、どんな事でも可能なはずである。
だがエルフたちは、もうこの世界に興味がない。新しい世界が発見され、ほとんどのエルフは〈エルフの港〉から旅立った。だからごく個人的な願いを持つアンサーラが〈盟約の者〉として認められたのだ。
アンサーラはゆっくりと目を開き、村のほうへ顔を向けた。今いる川辺より高い位置にある酒場の、窓の隙間から炎の光と焚き火の爆ぜる音が漏れている。闇夜でも、アンサーラの金色の瞳は萱葺きの屋根から立ち上る煙を見ることができた。
(人間には聞くことができず、見ることができない世界……それでも、共にいる事はできるはず)
アンサーラは音も無く立ち上がると、酒場に向かって歩き出した。
翌朝になり、ランスベルが一緒に行くと言い出してもアンサーラは驚かなかった。「わかりました」と了承した時、逆にランスベルのほうが意外という顔をした。
ランスベルが行くなら、ギブリムも付いてくる。ギブリムもアンサーラ同様に最後の竜騎士を守らねばならない。そしてギブリムの願いはアンサーラのように個人的なものではなく、種族全体のものだ。ドワーフ語を理解できるアンサーラは、誓約の言葉からそれを知っていた。
イェルドがやって来たので、三人は酒場で朝食を共にし、それから一行は村を出発した。
木こりのペールヨルンがオークを見たという洞窟は、手書きの地図で見る限り村からそう遠くはない。山の中にあって、谷側は急な斜面になっているため回り道して行かなければならず、実際の距離よりは時間がかかりそうだ。
その谷底を流れる川の下流に村がある。切った木は斜面を滑らせて川に落とせば、村で拾えるというわけである。
地図を見れば、以前そこに住んでいたゴブリンを追い払ったというイェルドの話も納得だ。人間の生活圏に近すぎる。
ゴブリンは緑に近い肌色で、黄色い目をした小型の亜人種である。力は人間と同じくらいで猿のように素早い。身体的には人間より優れていると言ってもいいが、知能は人間の子供と同じくらいしかない。
オークのような魔獣ではなく、この世界の原生種族で、独自の信仰と文化を持っている。エルフがこの世界にやって来た当初は人間より多いくらいで、ゴブリンを先住民と認めたエルフもいるほどだ。しかし、人間の生活圏が拡大するにつれて住処を追われ、数も逆転してしまった。
実際の地形と地図を見比べて、だいたい把握したアンサーラは他の三人から離れ、周囲を警戒するため先行した。
彼女の感覚では、人間もドワーフも騒々しくて歩みは遅い。危険を避けるには、可能な限り早く危険を察知する必要がある。万が一、アンサーラに気付けなかった危険に三人が直面したとしても、ギブリムが一緒なら守ってもらえるはずだ。
それにランスベルも、自分で対処する能力がある――と、アンサーラは意識的に付け加えた。
先行したアンサーラは目的地と思われる洞窟までやって来ると、気配を殺し、フードの奥で金色に光る目を細めて洞窟を観察する。入口は高い位置にあり、岩棚が張り出しているので、中の様子を見るには正面より高い位置に登らなければならない。
アンサーラは周囲を見回して、洞窟の上に出られるように横から崖を登った。
この時点でアンサーラは、洞窟の中には誰もいないと判断していた。仮に身を潜めているとしても、この距離でエルフの鋭い感覚から完全に隠れられる生物は少ない。入口の上まで行って、念のため聞き耳を立ててもオークやゴブリンの気配は無かった。
そこへ、騒々しい音を立ててランスベルたち三人がやって来る。本人たちはこっそり近付いているつもりらしい。イェルドが、アンサーラの下にある洞窟の入口を指差したのが見えた。この洞窟が目的地で間違いないようだ。
ランスベルがギブリムに目で問いかける。おそらく洞窟に何かいるか確認したのだろう。ギブリムは首を左右に振った。
ドワーフは地面や空気の振動をかなり正確に感知する特殊な感覚を持っている。もしかするとアンサーラがここにいる事にも気付いているかもしれない。
ギブリムが先頭に出ようと腰を浮かせると、ランスベルがその動きを制して先んじた。ランスベルが先頭になり、イェルドを挟んで最後尾にギブリムが続く。三人は身を隠すのを止めて、洞窟の入口へと正面から登ってきた。
アンサーラは大胆にも空中に身を躍らせ、猫のように回転し、音も立てず洞窟の入口前に着地して三人と合流する。
突然目の前にアンサーラが飛び降りてきたので、先頭を歩いていたランスベルはぎょっとして目を見開き、その後ろにいたイェルドは「うおおっ」と声を上げて驚いた。その様子が少し可笑しかったが、態度に出さずアンサーラは言った。
「洞窟の中にも周囲にも、オークはいないようです」
年を経たエルフはめったな事で驚いたり取り乱したりしない。だからランスベルたち人間が、とても表情豊かに思えるのだ。見ていて飽きない、と言ってもいい。だがそれを態度で表せば、馬鹿にしていると思われるかもしれない。
洞窟の入口は大柄な人間でも入れるほど大きいが、内部はそれほど広くない。
狭い岩の隙間を覗くと、奥にも空間があった。しかし、ゴブリンならまだしも人間やオークが入ろうと思う隙間ではない。
念のためアンサーラが入ってみると、ゴブリンが作ったらしい動物の骨と木を組み合わせた祭壇があるだけだった。その周囲には、何かの紋様が刻まれた石や、黒曜石の破片が散らばっている。
ここに住んでいたゴブリンたちが戻ってくることは無いだろうが、アンサーラはそのみすぼらしい祭壇には手をつけずに洞窟の入口へと戻った。
「ここに住み着いてるって感じじゃなさそうだ。持ち物が何も無い」と、イェルドの声が洞窟内に響く。焚き火を調べていたランスベルが立ち上がる。
「でも、今朝までここにいたかもしれません。まだ熱が残っています」
洞窟の入口にははっきりと足跡が残っている。散らばった動物の骨や茶色の染み――オークたちの食事のあとだろう――を見るに、二、三日ここに留まってから移動したようだ。
「追跡しましょう」
アンサーラの提案に、イェルドは頷いた。
「そうしよう。連中がどこに行ったのか知っておく必要がある」
オークたちの痕跡はアンサーラでなくとも追跡可能なほどはっきりしていたが、これまでの道中と同じくアンサーラが先行して三人を導いた。
雲の向こうでぼんやりとした太陽が頭上を過ぎて、やがて見えなくなるほど雲が厚くなってきた頃、一行は川原にいるオークを発見した。
オークたちは見える範囲に五人いる。川に向かって張り出した崖の下で、休憩しているようだった。毛皮を身に纏い、弓や斧で武装している。はぐれ者のオークというより、イェルドが心配したとおり斥候のような装備だ。
オークの姿を目に捉えた瞬間、アンサーラは心がすっと冷たくなっていくのを感じた。もはや魔獣を狩るのに怒りや憎しみが湧き起こる事はない。父が思い出される事もない。
魔獣は魔法で作り出された生物だが、いくつかの例外を除き元になった生物と同じくらいの寿命しかないので、アンサーラの父が作り出した個体はほぼ死んでいる。このオークたちにしても、最初に作り出されたオークから生まれた子孫なのだ。
彼ら自身に罪はあるのか、という葛藤ももうアンサーラにはない。本来この世界に存在しなかった生物が、世界の在り様を歪めている。それは正されなければならない。
「あの崖の上にわたくしが姿を見せたら、攻撃してください」
それだけ言うと、返事も聞かずにアンサーラは木々の影に身を潜めた。そして影から影へと移動しながら、目的の場所に向かう。
オークたちに気付かれることなく、アンサーラは張り出した崖の上までやってきた。ランスベルたちの隠れている場所を見ると、あまり上手く隠れているとは思えなかったが、オークたちはまだ気付いていない。
アンサーラが崖の上で立ち上がると、ランスベルたちはそれに気付いて武器を抜いた。隠れ場所から飛び出し、斜面を駆け下りる。
崖の下でオークたちが口々に「人間だ」「ドワーフだ」「見つかった」「殺せ」とオーク語で騒ぎだした。
三人のオークが崖下から飛び出しランスベルたちを迎え撃つために走る。ということは、下に残っているのは二人だ。矢羽を鳴らして、二本の矢が崖の下から飛んだ。一本は外れて、もう一本は先頭を走るギブリムの盾に防がれる。
イェルドは立ち止まり、肩から弓を外して応射する構えだ。
そこまで見てから、アンサーラは魔法の呪文を囁きつつ崖から飛び降りた。フードが風をはらんで膨らみ、マントがはためく。ぐんぐん迫る地面に激突する直前に、魔法の風がその身体を受け止めたが落下の衝撃全てを吸収するわけではない。全身を折り曲げて着地し、そのままぐるりと前転して衝撃を逃がしつつ、矢を番えた二人のオークの間を転がって前に出た。
おそらく二人のオークは何が起こったのか理解する間もなかったであろう。アンサーラは前転を止めて回転しながら飛び上がりつつ、二本の剣でオークの喉を切り裂いた。二つの赤い口がぱっくりと喉に開き、二人のオークは血の泡を吹き出して膝を折る。
そこへ「やべえ!」というイェルドの声と共に矢が飛び込んできたので、アンサーラは上体を反らしてイェルドの放った矢を避けた。アンサーラの予想より正確な射撃で、矢は死を間近にした二人のオークのうち一人の胸に命中して、その苦しみを終わらせる。
残ったオークに止めを刺して、アンサーラは地面を指し呪文を唱えた。二つの丸石がふわりと浮き上がる。ランスベルたちに向かって走るオークの一人を指差すと、丸石は
しかし、これは余計な世話焼きであった。背中の痛みに呻いてオークが仰け反ったせいで、下段の構えから切り上げたランスベルの一撃が浅く入ってしまったのだ。それでも腹から胸まで切り裂かれたオークはもんどりうって倒れる。
ギブリムは召喚した魔法の
ランスベルたちに向かった三人のオークのうち、二人は一撃で倒され、残る一人はすぐさま戦いを放棄して逃げ出した。素早い判断だ。川に入って水しぶきを上げながら一目散に逃げていくオークに、イェルドがもう一度矢を放ったが、狙いを外して水中に没する。
様子を見ていたアンサーラは剣を二本とも鞘に収め、呪文を唱えながら両手を動かした。その両手の動きに操られるようにして、川の水面がごぽりと持ち上がる。まるで生き物のようにオークの腰に巻きつくと、あっという間に全身を包み込む。
オークはごぼごぼと空気の泡を吐き出しながら、必死に自分を包み込んだ水の塊を何とかしようとしているが、水は掴むことも、ましてや引き剥がすこともできない。窒息したオークはもがき苦しんでいたが、ギブリムの投げた槍が頭を貫通すると、一度だけ痙攣して絶命した。
敵とはいえ、溺死する様を見て楽しむようなドワーフで無かった事に安堵しつつ、アンサーラは魔法を解いた。自然に戻った水と一緒にオークの死体は川の中に引き込まれる。
ランスベルたちに合流するとイェルドが青い顔をしながら、あたふたと説明した。
「さっきのは悪かった。いきなりあんたがあそこにいたもんでびっくりした……あんたを狙ったわけじゃないんだ」
「あなたが矢を射るのは分かっていましたし、飛んでくる矢も見えていました。何も問題はありません」
アンサーラがそう答えると、イェルドは安心したようだった。彼の態度が戦いの前と違う事にアンサーラは気付いている。もしアンサーラの怒りに触れれば、簡単に殺されてしまうと分かったのだろう。もちろんそんな事はしないが、ごく自然な反応として受け止める。
ランスベルが斬ったオークはまだかろうじて生きていた。血を吐き出し、苦しそうだ。ランスベルが剣を構え、止めを刺そうとしている。
わたくしがやりましょう――と、アンサーラは言いかけて止めた。これ以上、余計な事をすべきではない。
ランスベルは一瞬、躊躇ったが、口をぐっと結んでオークの苦しみを終わらせるために剣を振るった。その一瞬の躊躇いが、オークに最後の言葉を叫ばせた。
アンサーラはオーク語を理解できる。実際、オーク語はエルフ語が彼らに発音しやすいよう変化したものだ。だから、断末魔に叫んだ言葉の意味も理解できた。
「女王、と言ったか?」
ギブリムがアンサーラに確認する。さすがのギブリムも黙っていられまい。アンサーラは頷いて答えた。
「ええ、〝女王の怒りに焼かれるがいい〟と言いました」
「むう」と、ギブリムが唸る。
二人の反応が気になったのだろう、うつむいていたランスベルが「何か問題?」と顔を上げて尋ねた。イェルドはぽかんとしている。
アンサーラは振り向き、二人に説明した。
「オーク社会では通常、女王はあり得ません。オークが女性を王にするとしたら、それはハイ・オークの場合だけです」
「ハイ・オークってなんだ?」と、イェルドが問う。
「恐ろしい相手です。オークとハイ・オークは、人間とエルフほどの力量差があります。この者たちは斥候だと思います。ハイ・オークの女王に率いられた部族が、こちら側に侵入を企てている……ということでしょう」
「それは、やべえって事か?」
イェルドが続けて問うたので、アンサーラは「はい」と、真剣な眼差しで頷いた。
ランスベルがイェルドに尋ねる。
「イェルドさん、こういう場合はどうする事になっているのですか?」
「普通はオークの斥候を見つけたら王に伝える事になってるが、今アードリグに王はいねえから……直接、スパイク谷のスヴェン王に伝えるしかねぇな。スパイク谷はずっとオークの侵入から北方を守ってきたから……」
それを聞いてランスベルは言った。
「僕たち、ちょうどスパイク谷を目指していたんです。それなら、僕たちが伝えます」
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