10.モディウス ―盟約暦1006年、秋、第8週―

 タルソスのモディウスは布で口と鼻を覆い、馬でクライン川の浅瀬を渡河していた。そこは数日前にアルガン帝国軍とファランティア王国軍が最初の会戦を行った場所であり、今も死の臭いが充満している。


 この川の水はアルガン帝国軍も利用するからだろう、川の中にあったファランティア人の死体は川岸に引き上げられ、所々で赤黒い山になっていた。幾人かの帝国兵がその不気味な山の周りで作業している。死体の持ち物を回収してから火をつけて焼いているのだ。


 秋も深まったこの時期、まだ虫や獣は活動しているが、それらに任せていても全てをきれいにはしてくれないだろうし、不快な羽音を立ててたくさんの蝿が飛び回っている。この小さな虫が湧くに任せていると疫病を呼ぶ事は誰でも知っている。


 テストリア大陸の南部沿岸都市で最も東に位置するタルソスに雪が降ることはまれだが、ファランティアでは南部でも冬になれば雪が降ると聞いている。だから何週間か後には、この不気味な塊も不快な臭いも雪が覆い隠しているかもしれない。


 モディウスは馬のたてがみに取り付いた蝿を手で払ったがきりがなく、少し頭に来たので鞍に立ててある旗を手に取り、まとわり付いてくる蝿の群れを追い払った。だがそれも一時的なものだ。


「くそっ」と小さく悪態をつく。口は布で覆っているから誰にも聞こえないと思っていたのだが、護衛についている二人の兵士の一人、ジョフが耳ざとく聞きつけたようで、鼻で笑う。


 護衛の二人、ジョフとトミーとは今回の任務で初めて会った。であるにも関わらず、二人はすぐにモディウスを見下すようになった。この手の人間をモディウスが察知できるのと同じく、相手もモディウスのような人間を嗅ぎ分けられるようだ。


 モディウスはタルソスの出身で、三人兄弟の末っ子として生まれた。父は町内議会の議員という、自由市民でもなれるような役人で、はっきり言えば没落貴族であった。それでも貧乏人や奴隷ではないから貴族の学校に通っていたし、そこで本を読む楽しさを知ることもできた。


 護衛の二人を見ていると、学生時代に大将を気取っていた連中を思い出す。体力や運動能力で劣るモディウスを彼らは見下していたが、モディウスも内心彼らを馬鹿だと見下していた。思えば、その辺りの関係性も良く似ている。


 モディウスの二人の兄のうち一人は、子供の頃に流行り病で死んだ。もう一人の兄は、これといった短所は無かったものの運が悪かった。テッサがタルソスを攻めて来た時に市内で敵兵と遭遇して殺されてしまったのだ。


 テッサの背後にアルガン帝国がいた事は少し考えれば分かるので、モディウスは兄を殺した連中の仲間になっているわけだが、そこにあまり葛藤はない。

 むしろ徴兵された時、なんとかそれを逃れる方法がないかと思い悩んだのは、単に軍隊で働きたくないからだった。家族に徴兵を拒否するほどの力が無かったのを本気で悔やんだものだ。


 戦闘訓練ではあまり良い評価を得られなかったが、外国語の読み書きが得意だと知られると、主に事務仕事を任されるようになった。

 それはそれで良かったのだが、まさか自分が使者として敵国に行かされるとは思ってもみなかった。


 それでも、死んだ兄たちよりは幸運だと思える。


 持たされた書状の内容は降伏勧告だと聞いている。もしこれがファランティア王国ではなく、その北にいるという海賊や蛮族の国に持っていく任務であったなら殺されに行くようなものだ。少なくともモディウスが読んだ書物の中で、彼らの元に送られた降伏勧告の使者が生きて帰ってきた例はない。


 だが、相手がファランティア王国なら別だ。ファランティア人は礼節を重んじる穏やかな人々だと聞いている。たぶん殺される事はないだろう。


 アルガン帝国内では、最初に同盟の交渉に向かった使者のエリオ・テッサヴィーレをファランティア人が殺したとされているが、それはただの方便に過ぎないとモディウスは考えている。ほぼ確信していると言っても良い。なぜなら、アルガン帝国は過去にも同様の事をやっているのだ。


 同盟交渉の使者が二度も殺されるなど口実として不自然だし、もし本当に殺されているなら、その内容が使者を殺したくなるほど侮辱的だったのだろう。


 今回、モディウスが携えている書状の内容がそういうものだったら――という不安がないではないが、それは心配し過ぎというものだ。もし使者殺しを口実に使うつもりだとしても、すでに開戦している現状でもう一度同じ事をする理由は考えられない。


 クライン川から離れて、川を渡る風の流れから外れると、モディウスは口を覆う布を引き下ろして深呼吸した。まだ死臭が鼻の奥にこびり付いているように感じる。護衛の二人は後ろで、現地調達部隊に加わりたかったと不満げに話し合っていた。


(野蛮人め)


 モディウスは何度目か分からないが、二人を軽蔑した。現地調達部隊などと言っているが、ようは略奪に加わりたいという事だろう。


 クライン川を渡る時、戦死者を処理している帝国兵を見る二人の視線にはそういう意味もあったのかと思うと、この二人から解放される時が一日でも早く来ますようにと願わずにいられない。


 アルガン帝国人は自らを文化的と考えているようだが、モディウスからすれば北方の蛮族と変わりない野蛮人である。タルソスやイリスのような都市国家のほうがよほど文化的に洗練されていたし、それら文化の発祥の地こそファランティアなのだ。タルソスの哲学とイリスの詩は、今ではファランティアより発達しているという評価もあるが、そこは議論を要するところだろう。モディウス自身は、まだまだファランティアに学ぶべきだと考えている。だからこそ、ファランティア語を学んできたのだ。


 この書状で戦争が終わったら、そのまま現地の事務官なり何なりの役職を得てファランティアに滞在できないだろうか――と、モディウスは夢想した。


 夢から覚めて我に返ると、使者の証である黄十字の旗を手に持ったままなのに気付く。鞍に取り付けようとしていると、トミーが馬を右に並ばせて言った。


「旗はよく見えるように掲げておいたほうがいいぞ、モディウス。ブラックウォール城を包囲している味方の野営地までは遠いし、この辺にはまだファランティア人の残党が潜んでいるだろう。突然襲い掛かってくるかもしれん。もっとも、そういう輩が使者の旗を気にするとも思えんが」


 モディウスの目に怯えを見て取ったのか、トミーはそう言ってニヤニヤと笑みを浮かべた。ジョフも馬を進めて左に並んでくる。


「よせよ、トミー。安心しろ、モディウス。俺たちが守ってやる。だが、いざとなったら書状を俺かトミーに託すのを忘れるなよ。一番大切なのはそれだからな」


 ジョフもまたモディウスを馬鹿にしたようなニヤついた目でそう言い、モディウスの胸に掛けられた書状の筒を指差した。


(どういう意味だ?)

 思わずモディウスは考えてしまった。


 いざとなれば、この二人はモディウスを殺して残党のせいにし、書状だけを持っていくこともできる――恐ろしい想像に、ぶるっと身震いしてしまい、ついにジョフとトミーは声を出して笑った。


「こ、この辺は南生まれの私には寒いから……」


 咄嗟に言い訳がましい事を言ってしまって、モディウスは失敗したと後悔した。南と言えば、エルシア大陸人である二人のほうがずっと南の生まれだ。だが二人が身震いした事はない。ますます大声で笑われて、結局は学生時代と同じように愛想笑いしてやり過ごす羽目になった。


 クライン川の北側には耕作地が広がっているが、すでに収穫された後か、軍馬や兵士に踏み荒らされた後だ。見通しは良く、伏兵がいるようには見えない。人影もなく、荒涼とした景色は寂しい。


 途中で見かけたものといえば、蝿にたかられた馬の死体が数頭と、折れた槍や踏みにじられた紋章旗などで、動くものはなかった。


 やがて三人は、二つの丘陵の間にある両側が切り立った壁のようになっている場所に差し掛かった。戦闘に疎いモディウスでも、襲撃に適した地形だと分かる。護衛の二人も軽口を止め、警戒感を強めた。吐き気をもよおすほどの緊張がモディウスを襲う。


 緊張の時間が過ぎて、再び視界が開けた時には夕日が地面を赤く染めていた。前方に数本の木に囲まれた一軒の小屋が見える。


 そのような小屋はサウスキープからここまでの道中にもあった。ファランティア王国内の街道沿いに設置されている旅人のための施設だ。野宿が苦手なモディウスには本当にありがたいものだった。


「今日はあそこで?」


 モディウスが小屋を指し示して言うと、トミーが「先客が待ち伏せていなければな」と不気味な言い方をするので、心底嫌な気分になる。


 実際のところ、小屋には先客も伏兵もいなかった。

 小屋には窓が一つだけあり、扉は内側から閂を掛けることができる。小さな窓からの見張りでは不充分なので、小屋の前の空き地で焚き火をしながら二人が見張りをして、順番に一人ずつ小屋の中で寝るという事に決まった。


 パンとチーズ、干し肉を三人で切り分け、焚き火で炙ったりワインに浸したりして各々が好きなように食事をしてから、モディウスはパンくずを払って立ち上がった。最初に休むのはモディウスと決まっている。


「それじゃ、先に休ませてもらうよ」


 モディウスがそう言うと、トミーは不気味に囁いた。


「窓も閉じておいたほうがいいぞ。寝首をかかれないようにな」


 焚き火に照らされて影の落ちたトミーの顔は骸骨のようで、恐ろしげである。一瞬立ち止まったモディウスを見て、二人はくすくすと笑った。モディウスは毅然とした態度で背を向けたつもりだったが、上手く出来ている自信は無かった。


 小屋に入って扉を閉め、絞っていたランタンの光を少し強めにしてから窓も閉めた。ベッドは使わずに小屋の隅で膝を抱え、毛布に包まる。ベッドは窓のすぐ下にあるので、誰かが窓を壊して剣でも突っ込もうものなら届いてしまう。


 それから、もしジョフかトミーに質問された時に備えて答えを考えた。


 こんな虫がうじゃうじゃいそうな汚いベッドは使えない。窓を閉めたのは寒いからだ――これでいいだろう。


(じゃあ何故鎧を着たままなんだ、と聞かれたらどうする?)


 モディウスは少し考えてから立ち上がり、鎧を脱いで剣と一緒にして置いた。

 完全な支配下ではないとはいえ、味方が勝利した土地で、閂のかかる小屋の中で、完全武装というのはどうにも言い訳が思いつかない。これ以上あのくすくす笑いをされたくはなかった。


 そうして元の姿勢に戻って目を閉じると、あっという間に眠りに落ちる。


 〝どん〟


 扉が叩かれたような気がして、モディウスは心臓が口から飛び出るかと思うくらい驚いて目覚めた。前方に伸ばしかけていた足が、驚いた拍子にまっすぐ伸びてテーブルの脚を蹴ってしまう。テーブルと、その上のランタンがぐらぐらと揺れるのを見て慌てて立ち上がり、ランタンを押さえる。


 危うく火事を起こすところだった――モディウスはそのままの姿勢で扉を見た。今もまだ、心臓が身体の内側から胸を叩くように激しく動悸している。


 緊張のあまり悪い夢を見たのだろうか。感覚的には目を閉じてすぐに起こされたように感じるが、もう交代なのかもしれない。それともモディウスを驚かせようと、二人のどちらかが悪ふざけをしているのか。


 扉の向こうで、ジョフとトミーが例のくすくす笑いをしているかと思うと、さすがにモディウスも怒りが湧いてきた。


 〝どん〟


 再び誰かが扉を叩いた。夢ではない。今度は声も聞こえる。


「助けてください。誰かいるんでしょう?」


 ファランティア語である。扉越しなのでくぐもって聞こえるが、若い娘の声だ。二人の悪ふざけだとしたら手が込み過ぎている。


「だ、だれ!?」


 モディウスもファランティア語で誰何したが、扉の向こうの人物は答えず、もう一度繰り返した。


「助けてください。お願い、開けて」


 近くの民家の娘だろうか。足音を忍ばせて扉の前まで行き、問いかける。


「何があった?」


 今度はすぐに答えが返ってくる。


「二人組の帝国兵に乱暴されそうになって……逃げてきたんです。中に入れて。助けて。あいつら、すぐそこまで来てる」


 あの二人ならやりそうな事だ。モディウスは自分も同じだと思われたくなくて閂を外し、扉を開いた。そこに全裸の娘が立っていたので、モディウスはびっくりして目を丸くした。


 娘の話が本当なら――服を来ているほうが不自然ではあるが。


「ああ、よかった」


 娘はそう言って純粋な微笑みを浮かべ、モディウスの胸に飛び込んできた。ランタンの光に照らされた娘の裸体は美しかった。


 娘の話が本当なら――無意識に感じていた疑問を自覚する暇もなく、慌てて両腕を開いて娘を抱き止める。


 刃がモディウスのみぞおちに刺しこまれ、ぐい、と心臓に向かって上に押し込まれた。刃の冷たさを感じたのは一瞬で、すぐに灼熱の痛みへと変わる。


 モディウスは悲鳴を上げた。娘は恍惚とした表情で、うっとりとモディウスを見ている。血の塊が喉を上がってきて、口と鼻からごぼりと出た。モディウスに分かるのは、自分が娘に刺された事と、床に倒れた事、そしてすぐに死ぬだろうという事だけだ。


 魂の奥底から死の恐怖が沸き起こり、気が狂わんばかりに泣き叫んだが、身体は意思と無関係に痙攣するばかりで全く反応しない。まるで体という容器の中に閉じ込められてしまったかのようだ。


 国に残してきた両親と親戚、数少ない友人の顔が浮かんでは消えていく。彼らに助けを求めて叫んでも、それは誰にも届かないようだった。モディウスは最後に、ジョフとトミーにさえ助けを求めた。


 目の前が真っ暗で何も見えない。

 ものすごく寒い。

 ものすごく怖い。


「簡単だっただろ?」

 若い男の声が聞こえてきた。


「ええ、ジョンの言うとおりにやったら、すごく簡単だった」

 娘が楽しそうに答える。


「さっき気絶させたやつ、そこに縛り付けてあるんだ。君が殺したいだろうと思って」


「ほんとう? やった。わたし、殺したいわ!」


 娘のうれしそうな声に、若い男の声も楽しそうに笑った。


「もう一人のほうが先に死にそうだから、そっちを先にやろう――」


 モディウスが聞くことができたのはそこまでで、あとは永遠の暗闇が続くのみだった。




〈次章へ続く〉

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