2.アベル ―盟約暦1006年、秋、第7週―

 かつてブレア王国の王都であったそこは、今や完全なる廃墟であった。

 周囲を囲む荒野から吹き込んでくる乾いた砂が廃墟全体を徐々に地面と同化させつつあるが、全てを覆い尽くすにはまだ何年もかかるだろう。


 この都で死んだ人間たちの放置された遺体も、まだそこここで白い骨をのぞかせている。今この都を我が物顔でうろつくのは野犬、ハイエナ、ジャッカルなどで、人間の姿はない。


 悪名高き魔術師の廃都には無法者ですら近付こうとしないのだ。廃都に足を踏み入れれば呪い殺される、夜には死霊や悪魔がうろつく、と信じられているからだ。人魂を見た、という噂もある。


 それらが迷信であることをアベルは知っているが、多少の事実を含んでもいる。冒険者を自称する連中が王都に入り込んだ時、ちょうど新しい魔術を実践してみたかったアベルはその者たちに試して殺した事がある。夜中、埋もれた魔術書を探して王都の中を歩く時に使った〈光球ライティング〉の呪文が人魂に見えたりもしただろう。


 そんな廃都の奥には、やはり廃墟同然にしか見えないかつての王宮サンクトール宮があり、アベルは今もそこに住んでいる。王宮内の一部の部屋は手入れされ、使えるようになっているが大部分は外見同様に廃墟のままだ。


 アベルは母親の部屋を自室としていた。その部屋は修理する必要がないほど状態が良かったし、母のアリッサと同じく魔術師であるアベルには道具類が揃っていて好都合だからだ――と、人に尋ねられればそのように答えているが、知られたくない別の理由もあった。


 ブレア王国滅亡の日。アルガン帝国の兵士が王宮の一番奥の部屋まで踏み込んできた時、そこには父のウィリアムとアベル、そして数人の家臣が一緒だった。母のアリッサはそこにはいなかった。避難してすぐに出て行ってしまったからだ。


 アベルがどれだけ必死に「行かないで」「一緒にいて」と懇願しても、母は頑として受け入れなかった。 「あなたを守るために行くのよ」と母は言ったが、なればこそ一緒にいるべきではなかったか、とアベルは今でも思っている。


 結局それ以来、先日の不意の接触まで、母に会う事はなかった。


 王都が陥落してすぐ、父とも引き離されたアベルは、頑丈な檻に入れられてどこかへ連れて行かれた。檻の隅で恐怖に震えながら助けを求めても、誰も助けには現れない。


 アベルの心にはいくつもの疑問が渦巻いていた。どこに連れて行かれるのか、自分を守るために出て行ったはずの母はなぜ守ってくれないのか、父はどこにいるのか、自分はどうなるのか。


 しかしそれらの疑問を護送の兵士に尋ねる勇気はなかった。

 どこに連れて行かれるにせよ、そこに到着したらきっと自分は殺される――誰かに言われたわけではないが、アベルはそう確信していた。


 一日一日と迫る死への恐怖にアベルは耐えられなくなり、目を閉じて強く願った。


 帰りたい――と。


 そして目を開いた時、アベルはサンクトール宮の母の部屋にいた。部屋を物色していた兵士たちは驚いて、同じように驚くアベルをすぐに押さえつけた。


 それから何度も外に連れ出されたが、アベルは目を閉じて念じるだけで母の部屋へ戻れるようになっていた。それで、アベルの移動は諦めざるを得なかったのだろう。母の部屋がアベルの牢獄になったのだった。


 自分の力の使い方に習熟した今では、視界内であれば一瞬で移動できるし、目印になるものがあれば視界外でも距離に関係なく移動できる。他人を移動させる事も可能だ。


 しかし、なぜか母の部屋にだけは、今でも念じるだけで戻って来られる。

 なぜ母親の部屋なのか。その理由はアベル自身にも分からない。それに理由はどうあれ、人に知られるのは嫌だ。


「あなたを守るために行くのよ」という母の言葉を幼いアベルは信じていた。母のベッドの上で身を丸め、いつ処刑が決まったと言われるかビクビクしながら、きっと母は自分を守るためにどこかで戦っているのだと信じていた。扉を開けて母が現れ、迎えに来てくれる。そんな夢を何度も見た。


 その夢は、母の裏切りを知って悪夢に変わったわけだが。


 母の事を思い出すと、アベルは心の底から膨れ上がる憎悪と怒りに目も眩む思いだ。握り締めた拳がわなわなと震える。怒りを解放して母の部屋をめちゃくちゃに荒らして回った事は何度もあるが、それは子供っぽい感情表現だとセドリックに指摘されてからは抑えるようにしている。


(そうだ、セドリックに呼ばれていたんだ)


 ふとした瞬間に、まるで古傷が開くように何度も蘇ってくる憎しみと怒りの記憶から、アベルは我に返った。関節が白くなるほど握り締めていた拳をゆっくりと開き、ため息を付いて、机の上の鏡を見る。


 幼い頃、母に良く似ていると言われていた顔は大人になるにつれて父に似てきた。母と同じ鮮やかな赤色だった髪の色は、父の黒髪に似て色濃くなったし、額や顎も男性的になった。しかし、目元に母の面影が残っているのは否定できない。


 目を覆う覆面を顔に当て、頭の後ろで革紐を結ぶ。そうすれば、鏡に映る自分の顔から母の面影は消える。この覆面はそのためのものではなく、審問官が正装として身に着けるものだが、アベルはそういう意味で気に入っていた。


 紐に挟まった髪の毛を引っ張り出して整えると、椅子から立ち上がって部屋の奥のテーブルに手をかざす。そこに用意してあった審問官のローブがパッと消え、次の瞬間にはかざした手の中だ。転移テレポートさせたローブを広げて身に着けてから、念のため鏡を見て襟を正した。


 ローブの裾に両手を差し込み、アベルは目を閉じて集中する。


 何も無い暗闇に、いくつもの光が瞬いているようにアベルは感じた。

 まるで星空の中を漂っているようで美しくもあるが、自分自身が暗闇に溶けていくような不安感もあるので長居したくは無い。


 一つ一つの星はアベルが移動するための目印になる場所である。自分で作った焦点具フォーカスだけでなく、古代魔術王国期の遺物〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉なども含まれている。


 試したことのない転移先は無数にあるが、自分で試してみるような愚行はしない。以前、魔術師狩りで捕らえた魔術師を送り込んでみた時、そいつは転移先で即死した。必ずしも安全とは限らないのだ。


 この星々の中で最も明るく輝き、常にアベルを引き寄せているように感じるのが、忌々しい事に、この母の部屋だった。


 その事は考えないようにして、よく知っている光の一つに意識を集中する。そこに指先で触れるようにすると、ほんの一瞬闇に溶けたような感覚の後、転移テレポートは完了する。


 目を開けば、そこは帝都レスタントにあるミリアナ教大聖堂の地下深くにある秘密の部屋の一つだ。分厚い石壁に囲まれていて、四方の壁に備え付けられた松明が室内を照らしている。


 アベルが立っているのは部屋の中心で、頂点に向けて内側に湾曲していく大理石のアーチに囲まれた舞台のようになっている。足元の大きな一枚岩の床には複雑な魔術円マジック・サークルが刻み込まれていた。これこそ、魔術王国期の魔術師が作り出した〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉である。


 〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉から、この部屋に唯一の扉まで小さな蝋燭の明かりが点々と灯してあり、アベルはその間を歩いて扉に向かった。ローブの裾が起こす風で蝋燭の火を消さないように注意する。未熟だった頃はよく火を消してしまって注意されたものだ。


 魔法根絶を掲げるアルガン帝国の首都に、このような場所があるなど誰が想像できるだろう。大聖堂に隠された秘密の、この皮肉めいたところがアベルは気に入っていた。


 通路側からは隠し扉になっているこの扉は開け閉めが面倒なので、アベルは覗き穴から向こう側に誰もいないのを確認すると転移テレポートで扉の外に出た。左右に伸びる通路を右に向かい、迷路を迷うことなく進んでいく。途中にいくつも扉があるが、ほとんどに古代の罠が残っており迂闊に開けると死ぬ。


 道を完全に記憶しているアベルは問題なく目的の部屋に到着し、服装を正してフードを被ってから、扉をノックして中に入った。


 一切の装飾がない石造りの殺風景な通路と違い、この部屋にはいくつかの家具や調度品が持ち込まれている。柔らかいカーペットにクローゼット、書棚、執務机、一揃いの応接用テーブルと椅子などがある。


 アベルが部屋に入って来たので、執務机に座っていた大柄な人物は顔を上げた。審問官に似たローブを着ているが色は白く、目元を隠す覆面はしていない。優しげな目はいつもと変わらず、丸い二重顎の上の口元が、アベルを見て親しげに微笑んだ。


「セドリック枢機卿。アベル審問官、参上致しました」と、アベルは頭を下げて礼をした。


「待っていたよ」

 そう言ってセドリックは執務机から立ち上がる。


 アベルが初めて会った時から変わらない、大柄で厚みのある体格。着ている服は審問官のものに似ているが、銀糸が織り込まれて意匠を凝らしたものだ。両肩は鎧を模して張り出しているので、元々大きな体躯をさらに大きく見せている。


 この衣装は二年前に作り直されていた。年相応に胴回りが太くなってきて、以前のものでは合わなくなってしまったからだ。しかし、少し余裕を持たせて作らせたはずの衣装もすでにぴったりとしている。


 出会った頃は茶色だった髪は白髪が帯のように混ざり、年々、その割合は大きくなっている。いつの間にか目の下に弛みが出来ているが、優しげな光を称えた黒い瞳は年を経ても変わっていない。


 アベルの父ウィリアムは痩せぎすだったので外見は全く異なるセドリックだが、柔和な話し方や子供に対しても誠実な態度など、性格的には似ているところがあった。


 〝大きくて頼りがいのある父親〟というのがアベルのセドリックに対する印象だ。ちなみに、セドリックに子供はいない。


 アベルがセドリックと初めて会ったのは、母の部屋に監禁されるようになってすぐだった。最初は〝枢機卿〟という名称も立場も知らなかったが、兵士たちの反応から偉い人なのだと予想した。なんとなく、枢機卿というのは帝国の王様という意味かなと思っていたくらいだ。当時は皇帝という言葉すら知らなかったのだ。


 彼は最初に約束をした。「君に嘘は付かない」と。だからアベルは最初に一番知りたかった事を尋ねた。


「僕は殺される?」


「わからない。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない」と、セドリックは答えた。


「……答えになってないよ……」


 恐怖に怯えてアベルが言うと、セドリックは言った。


「そうだね。でも嘘は言わない約束だからね」


 そして厚みのある大きな手で、アベルの小さな手を包んでくれた。その手の温もりは、安心できるものだった。


 いかに孤独なアベルとはいえ、〝敵側〟だと認識していたセドリックをすぐに信用したわけではない。だが、怯えた子供が、優しい大人を頼るようになるのは時間の問題だった。


 セドリックはアベルが〈選ばれし者〉だと教えてくれたし、遊びを通じて力の使い方を少しずつ教えてくれた。


 そのうちアベルが室内を転移テレポートできるようになると、セドリックは言った。


「決して部屋の外に飛んではいけないよ。私が皇帝陛下に怒られてしまうし、君が逃げたらお母さんが殺されてしまう。君たちはお互いの人質にされている。君がここにいる限り、お母さんは安全だから」


 アベルはその言葉の意味が理解できたので、真剣な眼差しで頷いた。


 力の使い方にも慣れ、年相応に好奇心の出てきたアベルが監禁から逃れようとしなかったのは、セドリックの信頼を裏切ってはいけないという思いと、母の命を自分が繋いでいるという責任感だった。


 そして、アベルが監禁されるようになって三度目の冬が来た。

 アベルがその日を忘れる事は決して無い。


 部屋を訪ねてきたセドリックの表情は暗く沈んでいた。すぐに異変を感じ取って彼の元に駆け寄ると、セドリックは大きな身体で抱きしめ、そして耳元で言った。


「いいかい、よく聞いて。君のお母さんがいなくなった。逃げたんだ」


 その言葉を理解するまで、アベルには時間が必要だった。それは母の裏切りを伝えるものであり、アベルの死刑宣告でもあった。


 泣き叫ぶことすらできず、あらゆる感情が凍りついてしまったようだった。全身から力が抜けた。セドリックが抱きとめてくれなければ、糸の切れた人形のように崩れてしまったかもしれない。


「君に人質としての価値は無くなってしまった。君のお母さんは、君を置いて逃げてしまったから」


 セドリックの言葉の一つ一つがアベルを打ちのめした。アベルは最後の力を振り絞り、唯一の希望を込めて言った。


「嘘でしょ……?」


「私が、嘘を言った事があったかい?」


 その瞬間アベルの感情は爆発し、金切り声を上げて暴れ出した。両手で髪を掻き毟り、自分の頭を拳で打った。その時の記憶は曖昧だが、セドリックが言うには、暴れるアベルを抑えようとしたら消えてしまったという。


 セドリックはそれからも毎日部屋を訪れて「戻っておいで」と、消えたアベルに呼びかけていたらしい。アベルの曖昧な記憶の中でも、セドリックが自分を呼ぶ声が聞こえていたような気はしている。


 それに応えたのかどうかもはっきりしないが、ともかく、アベルは数日後に再び母の部屋に出現した。


 セドリックはアベルを抱きしめて一言、「よかった」と言った。その言葉が心の底からのものであると分かり、アベルは唯一残った確かなものを得て眠りに落ちたのだった。


 その日からセドリックはアベルにとって父同然となり、そして魔術の師として彼を育ててくれた。


 アベルはサンクトール宮から帝都レスタントの大聖堂に移動する方法を覚え、それからはサンクトール宮と、セドリックが普段生活している大聖堂を行き来する生活になった。


 審問官になってからは毎日顔を合わせているわけではないが、その絆は失われていない。だから今、部屋の中には二人しかいないのに枢機卿として振舞うセドリックの態度に、アベルは疑問を感じていた。


 そしてその疑問を口にする前に、セドリックが言った。

「アベル審問官も、そこに座るといい」


(俺――も?)


 アベルは椅子の一つに、いつの間にか審問官のローブを着た人物が座っているのに気付いてぎょっとした。


 その審問官はアベルのほうを見ようともしなかったが、驚きを態度に出してしまった事が悔しくて唇を噛む。事前に知らせてくれれば良かったのに、という思いでセドリックを一睨みすると、彼は僅かに肩をすくめて受け流した。


「はい。セドリック枢機卿」


 平静を装ってアベルは返事をし、さも何も無かったかのような顔をして先客の向かいに座る。正面の審問官を観察しても、フードを深く被り、下を向いているため顔は影の中に隠れて見えない。


 だが、これほど隠密に長けた審問官は一人しか思いつかなかった。おそらく、魔術師の追跡を専門にする魔術師たちの中で、最も実力のあるクリス審問官だろう。


 アベルの予想を裏付けるように、セドリックは話し始めた。

「アベル審問官とクリス審問官に来て貰ったのは、竜騎士の件についてだ」


 竜騎士の件と聞いてアベルはローブの中でぎゅっと両手を握り締めた。魔女の妨害があったとは言え、審問官三人を言わば見殺しにしてしまったようなものだ。


 セドリックはクレイブが判断を誤ったのであり、アベルに責任は無いとして責めなかったがアベル本人は納得していない。〈選ばれし者〉であり、セドリック枢機卿に養育された者であり、最年少で審問官になった者である自分は、それに相応しい働きをせねばならないはずだ。


 そんなアベルの心中を知ってか知らでか、セドリックは話を続けた。


「この件を任せていたクレイブ審問官と最後に話したのはアベル審問官だ。アベル審問官、知り得た情報をクリス審問官に説明してやってくれ」


 それはつまり、竜騎士の件はクリスに引き継がせるという意味である。アベルは両手をますます強く握りしめた。


(くそっ、なぜ俺に命じてくれない……失態を取り戻してみせるのに)


「アベル審問官?」と、セドリックは説明を促した。同時に、クリスの視線を感じたような気がしてアベルは顔を上げた。しかし、フードの奥の表情は窺い知れない。


 アベルは努めて冷静に、「はい、猊下」と返事をして説明を始めた。


 事の始まりは、ドラゴンの死である。

 ドラゴンの遺灰が魔術師にとって強力な触媒になる、という伝説の真偽を確かめる機会を得たと考えたセドリックは、アベルに命じてクレイブをレッドドラゴン城に送り込ませた。だが、クレイブは重傷を負って逃げ戻るはめになった。


 竜騎士の力の根源は絆を結んだドラゴンそのものであると言われていたから、ドラゴンを失った竜騎士は無力だと考えられていたのだ。しかし、クレイブの話では竜騎士としての力を残しているという。それで、ドラゴンの遺灰から力を得ている可能性が考えられた。


 セドリックはファランティア侵攻計画を知っていたので、ホワイトハーバー占領を待った。ホワイトハーバーに竜騎士ランスベルの両親と兄がいる、という調べはついていたからだ。


 そして、ホワイトハーバーにクレイブを派遣した。これはクレイブ本人の希望でもあった。だが、またもやクレイブは失敗し、今度は死んだ。竜騎士にはエルフとドワーフの――クレイブによれば手練の――護衛が付いていたためだ。


 〈幻視会話ヴィジョン・トーク〉でクレイブと話をしていた時に、アリッサから接触があった事については、アベルは話さなかった。だが、そこで知り得た情報は最後に付け加える。


「――というわけで、竜騎士にはまだ力が残っている。それも、ドラゴンの遺灰を持ち歩いているからではない。その力の源になっている〝何か〟は、おそらく竜騎士が腰に下げている皮袋に入っていると思われる」


 クリスは黙って聞き終えて、頷いた。なぜその皮袋に目星を付けたのか、という点についても特に質問してこなかったので、アベルが用意していた嘘は無駄になった。

 アベルの説明にセドリックが付け足す。


「少なくとも、審問官三人を返り討ちにするような相手なのは確かだ。竜騎士に正面から挑むのは避けたほうが良いだろう。それに連中を打ち負かすことが目的ではない。竜騎士の力の源さえ奪えればいいのだからね。クリス審問官には、竜騎士の追跡と力の源の調査、そしてその奪取を任せたい」


 クリスは一拍おいて、答えた。

「私にお任せを」


 その声は男のものか女のものかはっきりとしなかった。男性の高音にも聞こえるし、女性の低音にも聞こえる。考えてみればアベルはクリスの性別も知らない。


 クリスがセドリックに問う。

「この件については、私に全権があると思ってよろしいのでしょうか、猊下。ファランティアに赴き、竜騎士の家族を利用しても?」


「もちろんだ、クリス審問官。あらゆる手段を講じてよろしい。ただし、定期的な報告は怠らないように。必要なものは言ってくれれば、善処する」


「分かりました。ところで猊下、エリオ・テッサヴィーレについてはいかがしましょう。タニアからは始末したとの報告がありましたが、生きていると思われます。追跡の途中で王都に寄り、タニア共々始末しておきますか?」


 エリオの名前が出て、またもや失敗したという思いがアベルの心中で膨れ上がった。魔女に接触されて昏倒してしまったあの夜は、エリオを始末するためにも魔術師を送るはずだったのだ。


 こいつ、わざとじゃないだろうな――と、アベルはクリスを一瞥したが、フードの影の奥までは見通せない。


 セドリックは首を横に振った。


「エリオ・テッサヴィーレは皇帝の名代としてドラゴンの葬儀に参加するため、そして同盟交渉の使者として、ファランティア王国に赴き、殺された……と、帝国内では既成事実になっている。ロランドの飼い犬は後回しでよい。タニアにはもっと大事な役目も残っている。王都に寄らず追跡を急いでくれ」


 セドリックの答えに満足したのか、クリスは音も無く立ち上がり、扉まで歩いて一礼してから部屋を退出した。最初から最後まで、ローブの衣擦れの音もしない。何か魔術を使っているのだろうか、と思いながらアベルはしばらく扉を見ていた。


 アベルの実力なら、〈魔力感知ディテクト・マジック〉に呪文詠唱は必要ない。だが、味方の魔術師を探るような事はすべきでない。それに、まだ近くにクリスの目と耳があるような気がしてならなかった。


「元気だったかい、アベル」


 セドリックはクリスの気配など全く気にしていない様子で、アベルの肩に手を置いて言った。


「はい、セドリック様」


 アベルがそう答えると、セドリックはさっきまでクリスが座っていた椅子に腰掛けた。


 アベルはセドリックを「父さん」と呼んだ事はないが、そう呼びたいと思った事は何度もある。今回もその気持ちを抑えて言葉を継ぐ。


「ところで……例の件ですが、まだ進捗がありません。セドリック様の期待に応えられずに歯がゆい思いです……すみません」


 アベルは悔しそうに顔を歪めて、拳で自分の膝を叩いた。

 セドリックは文句を言うでもなく、むしろ微笑んで言った。


「ブレア王家の秘密ともなれば、そう簡単には見つかるまいよ」


 その優しさがアベルを安心させる事もあれば不安にする事もある。今回は後者だ。


「セドリック様、あの魔女……アリッサを捕えて直接聞き出すというのはどうでしょう。今はファランティアでも魔術が使えます。命じて下されば、すぐにでも飛んで、どんな手を使ってでも吐かせてみせますが……」


 セドリックはアベルの逸る気持ちを抑えるように手のひらを向けた。


「まあまあ、そう焦らなくてもよい。アベルには、より重要な任務が控えている。皇帝陛下から直々の命令だ。今は動かず、命令を待つ。例の件はその後に続けてくれればいい」


「より重要、というのは?」


「うむ。時期は明言されておらんのだが、アベルの力が必要になる時に、すぐ動けるよう大聖堂に待機しておれ、との事だ。今日からは大聖堂に留まってもらうことになるな」


 それはつまり、セドリックと一緒にいられるという事だ。アベルは嬉しくなったが、顔には出さなかった。自分はもう子供ではない。


「わかりました。ただ最後に一つだけ……もし、あの魔女を殺すとか拷問するとかいう事になったら、俺にやらせて下さい。俺以外にやらせないでください。どうしてもこの手で――」


 両手をわなわなと震わせてアベルがそう言うと、セドリックはため息を付いて立ち上がり、アベルの肩に手を置いた。


「わかった、わかった。約束しよう……ところで、夕食は何を食べようか」

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