1.アリッサ ―盟約暦1006年、秋、第7週―

 王都は連日連夜、人の出入りが激しくなっていた。

 テイアラン四九世の名の下に召集され、地方からやって来た騎士とその従者や兵士の集団が到着すると、王に謁見して命を受け、また任地に向けて出て行くためだ。


 集まった戦力を把握して、ホワイトハーバーから王都に至る街道を封鎖している部隊、ブラックウォール城に向かう部隊、王都防衛に残す部隊、と振り分けていくのはハイマン将軍の仕事である。三〇〇年の平和が続いたファランティアにおいて将軍は名誉職のような扱いになっていたが、ハイマンは将軍と呼ぶに相応しい能力がある事を証明し続けている。


 アリッサの知る限り、常に机にかじりついてペンを走らせ、頭を抱えてはペンを走らせ――と、繰り返していた。いつ眠っているのかも定かではなく、目の下にはくっきりとができている。目は充血して真っ赤だ。


 目を血走らせているという意味ではステンタールもそうである。アルガン帝国の密偵を見つけ出せておらず、いまだに牢を破ったエリオを捕まえられていないなど、ハイマンに比べてステンタールは結果を出していない。そうした焦りのためか、玉座の横に立って、連日訪れる面識のない騎士や従者を全員容疑者のように睨みつけている。


 ただ、アリッサにはステンタールの気持ちが良く分かった。これまでの事件によって猜疑心が強くなっているのは同じなのだ。


 アリッサに密偵を見抜く事は求められていないが、魔術師が紛れ込んでいたらと思うと恐ろしかった。敵の魔術師が入り込むのを許してしまうなど、宮廷魔術師という肩書きに相応しい働きではない。


 ランスベルが城を離れてすぐに、竜語魔法の力は無くなってしまった。だから城の竜語魔法に力を与えていたのはランスベルの持つ何か――おそらく、握りしめていた腰の皮袋に入っている――だろう、とアリッサは考えている。


 しかし、それが本当に自分自身の考えなのか、それともアベルの考えなのか、正直なところはっきりしなかった。


 アベルとの接触があれほどの混乱を生んだのは、〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉の呪文や触媒が強力過ぎたというよりも、アリッサの想いが強すぎたせいかもしれない。我が子を身の内に戻そうとするかのように、ぎゅっと抱きしめようとした。愛情が暴走した。


 その結果、思考だけでなく魔力通路までが混線したような状態になってしまい、その後遺症によって正常に魔力を引き出せなくなってしまったのだった。


 それも徐々に回復したと感じているが、ファステンで起こしたような事故を繰り返すわけにはいかないので、アリッサはまだ魔術の使用を試していない。だから城を覆う魔術に対する警戒網も不活性になっている。


 こうした事情はコーディー以外に話していなかった。もし話せば、アベルの事まで説明しなければならなくなるからだ。それにもし〈魔力感知ディテクト・マジック〉と〈警報アラーム〉を組み合わせた呪文が働いていたとしても、敵も同じ魔術師なら何らかの対策を講じてくる可能性はある。


 だからアリッサもステンタール同様に、目を皿のようにして謁見にやってくる人々を観察しなければならなかった。


 日が暮れて謁見の時間が終わり、テイアランが自室に戻ると、アリッサは一時コーディーに護衛を任せてドンドンと共に自室に戻った。


 テーブルに焼き菓子クッキーを置くと、ドンドンは椅子に座ってそれに手を伸ばす。アリッサは机に向かい、そこに置かれた蝋燭に両手をかざしながらドンドンに言った。


「大丈夫だと思うけど、もし何かあったら……意識を解放して力を使ってね、ドンドン」


 ドンドンはクッキーを頬張りながら、気楽な様子で「うん」と頷く。


 魔術が暴走した場合に備えてドンドンに居てもらっているが、彼はアリッサを絶対的に信頼している。失敗するとは思っていないのだろう。


 アリッサは意識を集中させ、ゆっくりと呪文を唱えた。注意深く、魔力の感触を確かめる。〈盟約〉の力が失われた時の魔力流入現象が経験として役に立っていた。魔力通路をゆっくりと開き、魔力を引き出すと、その感覚は以前と何ら違いはない。


 ぽっ、と蝋燭に火が灯る。アベルとの接触による後遺症は完全に無くなったようだ。アリッサは安堵のため息をついた。


「終わったの?」


 クッキーの屑を、ぷっくりとせり出した腹の上に撒き散らしながらドンドンは無邪気に言った。


 ドンドンは今年で一五歳になるが、話しぶりは幼い。生まれてからアリッサに出会うまで、ドンドンは何も無い部屋に閉じ込められ外部との接触を絶たれた状態にあった。その分、精神的な成長が遅いのだ。


「ええ、終わった。ありがとう、ドンドン」


 アリッサが優しく肩に手を置くと、ドンドンは満面の笑みを返した。たとえ魔術師の仲間でも、他の人間には見せない笑顔だ。


 さっそく城の警戒網を活性化させる。この城内で、呪文によって感知される魔術師はアリッサ、ドンドン、コーディーの三人だけである。


「じゃあ、またいつもの部屋に戻りましょうか」


 ひとまず安心して、アリッサがそう言うと、ドンドンは不満げに口を尖らせた。


「もっとアリッサと二人でいたいな」


 アリッサは胸の痛みを微笑みで誤魔化して、ドンドンの頭を撫でる。

「私もそうだけど、今は――」

 扉をノックする音に、アリッサの言葉は遮られた。


 扉を開けると疲れ果てたハイマンが立っている。思わず、〝大丈夫ですか?〟と聞いてしまいたくなる様子だ。


「アリッサ、少し良いか」


 しかしその声は、相変わらずの厳格さを失っていない。


「ええ、どうぞ」


 ハイマンを部屋に招き入れると、ドンドンはうつむいて表情を失くした。アリッサ以外にはそのほうが、いつもどおりの彼である。


「時間が惜しいので単刀直入に話す。ファランティアの魔術師は全員、ハスト湖畔の別荘に集まっているのか?」


「まだ揃っていませんが、明日、明後日には全員揃うはずです」


「彼らを戦線に投入できないか、という相談だ」


「そんな――」


 そんなの無理です、と反射的に答えようとしたが、ハイマンは先を急いでアリッサの返答を遮った。


「戦力として期待しているわけではない。現状ではステンタールに身柄を預けている状況だ。はっきり言って、ステンタールの最近の振る舞いを考えると良い状況とは言えないのではないか。兵士として戦線に出れば彼らが味方だと、少なくとも共に戦った兵士は認識する。そうしていく事が結果的に魔術師のためになるのではないか?」


 そんな理屈――と、アリッサは唾棄したい思いであった。魔術師の事を考えているというのは、アリッサを説得するための方便に過ぎないだろう。本当は単に、戦力として期待しているはずだ。


「……将軍は、私の魔力が暴走した時の事や、帝国の魔術師がランスベル卿を襲った時の事を考えているのかもしれませんが、あんな事ができる魔術師はほとんどいません。魔術師の多くは、たくさんの人を殺傷するような魔術は使えません」


 ハイマンは眉間の皺をますます深くした。


「わかった。正直に言うと別の懸念もあるのだ。魔術師たちが現在の扱いに不満を持って敵に回るのではないか、というな。例の密偵の件もある。暗殺者にはなれずとも内通者にはなれる。一〇人の魔術師なら戦えなくとも混乱を引き起こす事はできるだろう?」


 ハイマンが何を言おうと、アリッサには魔術でもって戦えというのは納得できるものではない。そもそも戦いに魔術を用いる事を良しとしなかったからこそ、アルガン帝国から逃げていた魔術師たちだ。


 ファランティアに来たのは魔術師狩りへの恐れもあるが、戦いを避けるためでもある。アルガン帝国と戦うという道を選んでエルシア大陸に残った集団もいるが、ファランティアにいる彼らはそうではない。そんな彼らに戦うことを求めるなど、できるわけがない。


「戦わせるくらいなら、どんな状況にも我慢させます」


 アリッサは迷わず拒否した。

 ハイマンは深くため息を漏らして言った。


「わかった。だが冷静になったら、もう一度考えてみてくれ」


「私が冷静でないと?」


 扉に手をかけたハイマンの背中に向かってアリッサは言い返した。


「そう見えるがね」


 ハイマンは部屋を出て行った。


(私は冷静だわ)


 アリッサは唇を噛んだ。


(皆をファランティアに連れて来たのは戦わせるためじゃない。皆を連れてきたのは私なのよ。ウィルとアベルを犠牲にしてまで――)


 ズキンと胸が痛んで苦しくなり、アリッサは胸を押さえる。


「アリッサ、大丈夫? あいつ、嫌なやつだね」


 心配そうな顔をしてドンドンがアリッサの膝に手を置く。アリッサは、そのふっくらした柔らかい手を握った。


「ありがとう、ドンドン」


 へへへ、とドンドンが微笑む。その笑顔はアリッサを何度も救ってきたものだ。


(私には責任がある。私がこの笑顔を、そして皆を、守らなければ)


 アリッサは呪文のように、心の中で唱えた。

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