11.エリオ ―盟約暦1006年、秋、第7週―

 レッドドラゴン城の牢を脱出したエリオにとって幸運だったのは、暗殺者が見張りを片付けていた事だ。おかげで牢を抜け出したと発覚するまでに時間がかかり、城門を封鎖される前にエリオは城外に出ることができた。もし人知れず城を抜け出す事になったら、という想定で考えておいた経路が役に立った。


 王都に到着してから登城するまでの二日間、エリオはトーニオと名乗り、王都に潜伏する場合にも備えていた。トーニオの名前で押さえていた宿に戻って荷物を回収し、その後もいくつかの部屋を移動しながら騎士や衛兵の捜索をかわしてきた。


 今晩、エリオがいる部屋は王都の西側地区の一番外側にある宿で、風向きによっては外壁の向こうにある皮なめし工場や染物工場の酷い臭いが漂ってくる安宿だ。この地域はそういう理由もあってか土地が安いようで、いわゆる貧民街の様相を呈している。それでも、エリオが幼少期を過ごした路地に比べればずっとマシである。部屋は狭くて壁が薄く、隣の部屋にいる人間の寝息でさえ聞こえてくるほどだが、今のエリオにはそのほうが都合が良い。


 エリオはこの部屋の中で唯一の家具である小さな机に蝋燭を立て、その小さな灯りの中で濁った鏡に向かい髪に櫛を入れていた。染めたばかりの黒髪は不自然で、ごわごわしているため櫛を通そうとする度にいちいち引っかかる。それでも今のうちにやっておかなければ、完全に乾くとより酷い事になる。髪と髭で色が違うのは変なので、あごひげも剃ってしまった。


 机の端に置かれた小瓶には黒い粉が半分くらい残っている。この粉はテッサ近くの断崖に生える低木の根を原料にしたもので、粉末状にしてから水で溶くと黒っぽい染料になる。


 テッサの闇の中で活動する子供たちを〈黒い子供〉と呼ぶのは、この染料で顔を黒くする事に由来している。もちろん、〈黒い子供〉であれば最初に作り方を学ぶものだ。顔などの皮膚に使った場合は三日ほど、髪の毛の場合は二〇日ほどで徐々に色は落ちていく。


 エリオはこのような事態を想定してこの粉を持ち歩いているのではなかった。自分が何者だったかを思い出すため、と人には言っているが、トーニオと一緒にいた頃から残っている唯一の品だからかもしれない。


 思い付きでトーニオと名乗った事をエリオは後悔していた。今から変える事もできるが、考えれば考えるほどトーニオという名前は都合が良い。


(あの夜と同じ過ちを繰り返そうとしているのか?)


 エリオは鏡に映るぼやけた自分に問うた。


 〝服を交換しよう。今晩だけ、俺がトーニオでお前がエリオになるんだ〟


 幼い自分の声が蘇り、それをきっかけにしてエリオの思考は過去へと、故郷へと飛んだ。


 物心ついたとき、エリオは城砦都市テッサの壁の外にあるスラム街にいた。古くなった魚や、港で売り物にならないからと捨てられた魚を拾って売っている一角で、〈魚市場〉と呼ばれていた場所だ。その隅の小屋が家と呼べる場所だった。


 地面に藁を敷いただけの床に、木の板で四角く箱を作っただけの家。雨が降れば、〈魚市場〉から流れてくる臭い水で窒息しそうになった。


 両親の記憶はなく、捨てられたのか攫われたのかも分からない。とにかく、もっとも古い記憶はその小屋から始まっている。


 他にも数人、同じくらいの子供がいたが半分くらいはいつの間にか居なくなっていた。逃げたのか、死んだのか、売られたのか、分からない。


 エリオには双子の兄弟トーニオがいた。本当に双子だったのか確かめる術はないが、見分けがつかないほどそっくりだったので、いつの間にかそういう事になっていた。エリオ自身もトーニオには不思議な絆を感じていたので、本当に双子だったのだろうと今でも信じている。子供たちの面倒を見ていたネーロという男もエリオとトーニオを双子として扱った。


 ネーロは養父というより所有者というほうが正しい。でっぷりした腹の中年男で、頭は禿げかけていて、前歯の欠けた口からはいつも酒と葉巻の混じった臭い息が漏れていた。父親らしい愛情表現などした事がなく、家畜に餌を与えるように食べ物を持ってきた。そして子供たちが歩いて、物を持てて、話せるようになるとすぐ仕事を割り振った。掃除や配達という堅気の仕事から、見張り、盗み、果ては殺しまで。


 ネーロは決して善良な人間ではなく、日常的に暴力を振るう、臭くて狭い小屋の暴君であった。だからエリオはネーロを憎んでさえいたが、ネーロはエリオの才能を愛した。


「いい子だ、エリオ」


 そう言って乱暴に頭をなでる。それもエリオは嫌いだったが、エリオ以外の子供にネーロがそうするところを見たことがなかったので、特別扱いされていたのは間違いない。


 エリオは音を立てずに動くことができ、素早く、手先が器用で、大抵のことは見様見真似でできてしまった。そのせいでエリオは他の子供より早く裏の仕事に使われるようになった。


 そのような才能がトーニオにはなかったから、ネーロの興味を引くことはなかった。その他大勢の子供と同じく扱われ、毎日掃除や配達をして日銭を稼いできた。


 ある日トーニオが、ネーロに好かれるにはどうすればいいかと相談してきた。トーニオはネーロが大好きだったのだ。そこだけは、エリオとトーニオは分かり合えなかった。たぶんトーニオは、どこにでもいるような、親の愛情を独り占めしたいだけの子供だったのだろう。


 エリオはトーニオのために、とっておきの秘密を教えることにした。テッサ城にある、小さな子供だけが通り抜けられる秘密の抜け道だ。トーニオは満面の笑みでネーロの元に駈けて行き、すぐにその秘密を教えた。だが、ネーロは信じなかった。食い下がるトーニオに対して、「それなら、城ん中のモンをなんか盗ってきてみな。そうすりゃ、信じてやるよ」と言った。


 もちろんトーニオは城に忍び込もうとしたが、侵入経路を知っているだけでは無理だ。だからその晩、トーニオとエリオは服を交換して入れ替わった。


「服を交換しよう。今晩だけ、俺がトーニオでお前がエリオになるんだ」


 エリオはトーニオになって城に忍び込み、テッサ王家の紋章が入った銀のナイフを大広間から盗んだ。


 この夜の事を思い出すと、エリオは今でも後悔の念に苦しめられる。


 愚かなネーロは酒場で酔って、自分の手下はいつでも城に忍び込めると公言してしまった。その証拠もある、とテッサ王家の紋章が入った銀のナイフを持ち歩いていた。


 後から知った事だが、テッサの支配者たちはスラムに蠢くネーロのような存在を黙認していた。だが、王の持ち物に手を出すとなれば話は別だ。あっという間にネーロは捕まり、狭くて臭い小屋にも近衛兵が踏み込んだ。エリオがそれを知ったのは、トーニオが連れて行かれた後だった。


 トーニオとネーロを捕らえた一団を、エリオは先回りして、路上で待ち構えた。そして、やって来た一団に向かって、城に忍び込んだのは自分であってトーニオではない、と主張した。


 ネーロは「やっぱりそうか! エリオよぉ、お前は俺の宝だよ!」と叫んだせいで、騎士に篭手で殴られ、さらに前歯を失った。


 そしてトーニオも叫んだ。

「ナイフを盗んだのは僕じゃない、エリオだよ!」


 騎士たちは誰も信じなかった。彼らには、トーニオが罪を逃れたい一心で嘘をついているようにしか見えなかったに違いない。逆にエリオは、兄弟を助けるために身代わりになろうとする献身的な少年と見なされた。


 この子の心は騎士の手本となるものだ、などと大げさに叫んで銀貨を数枚握らせてくる。エリオは銀貨を投げ返し、泣き叫び、真実を叫んだが、誰も信じなかった。


 そしてネーロとトーニオは城に連れて行かれた。

 だからエリオは決心した。

 もう一度忍び込んで、トーニオを助ける。もし、そうする必要があるなら、あの騎士を殺してでも。


 結局、エリオはトーニオを助け出すことができなかった。見張りに見つかり、城内を逃げ回った挙句に捕まってしまったのだ。だがこれによって、城に忍び込んだのはエリオのほうだと証明できたのだった。


 ロランドはこれらの話を聞いた後、エリオに一度だけ選択の機会を与えた。


「今後いついかなる時も、私に仕えると誓うなら二人は国外追放に留めてやる。だが誓わぬなら、三人揃って城門に首を晒す事になる」


 答えは決まっていた。以来、エリオの所有権はネーロからロランドに移った。


 ロランドの元で大人になり、テッサニア統一戦争が始まって各地を連戦していく間、エリオはトーニオを探した。ロランドはそれに気付いていたが黙認していたのだろう、とエリオは思っている。


 テッサニア連合王国ができて、帝国属領テッサニアになった後は、仕事上付き合いのある商人や船長にトーニオの行方を捜してもらった。しかし未だに手かがりすらない。グイド船長の言ったように、諦めるべきなのだろう。それが分かっているにも関わらず、エリオは今もトーニオを探している。


 だからトーニオは全くの架空人物ではない。エリオ・テッサヴィーレの双子の兄弟として公言されている名前だ。これほど都合が良い名前は他にない。同じ顔をしていても双子なのだから当然だと言える。しかし――


階段を忍び足で上がってくる気配に、エリオの思考は中断され現実に引き戻された。


 ため息をついて櫛を置き、音を出さないように立ち上がると、扉のすぐ横に立つ。手には抜身のナイフを持ったまま、相手が近づいてくるのをじっと待った。足音から判断するに鎧は着ておらず、体重の軽い人間で、一人だ。


 足音の主がそのまま扉の前を通過することを期待したが、そうはならなかった。エリオの部屋の前で止まっている。おそらく、聞き耳でも立てているのだろう。金属の擦れる音が鍵穴から聞こえてきて、がちり、と回る。


 宿泊客以外に合鍵を売るような宿主はファランティアにはいないと期待していたが、どうやらそうでもないようだ。


 扉がゆっくりと軋みながら開いていく。エリオの立っている場所は、ちょうど扉の裏になるので入ってくる人物を見る事はできない。もちろん、相手からも見えない。


 部屋の中には黄ばんだ布で仕切られた寝床があり、入ってきた人物はそこに注目しながら後ろ手に扉をそっと閉めた。それで、エリオからは相手の後ろ姿が見えるようになる。


 頭巾で頭を覆っていて、身体つきは女だ。牢で襲ってきたようなごつい男ではない。エリオは影の中から手を伸ばしてナイフの刃を細い首筋に当てた。侵入者は「ひっ」と小さく息を呑む。身体をびくりと動かしたので、鋭いナイフの刃が僅かに皮膚を傷つけてしまった。驚きすぎだ。素人か。


「声を出したり、急に動いたりしたら殺す。まずは手に持っているものをその場に捨てろ」


 エリオが凄みのある声で命じると、侵入者は手にしていた細い突き刺し用短剣スティレットを手離した。ストン、と床に突き立つ。


 誤って殺さないように注意しながら、エリオは器用に左手で侵入者の武装を解除した。腰と肩ベルトを外し、ブーツからナイフを抜き取る。


「両手をそこのテーブルに置け」と指示すると、侵入者はゆっくり動いてその通りにした。後ろからフードを引き降ろすと、蝋燭の微かな光に照らされて鏡にその顔が映る。


「あまりこういう仕事には慣れていないようだね。タニア」


 微かに震える肩を見て、エリオは侵入者――侍女のタニア――に言った。


「出身はエイースあたりかな?」


「は……初めて会った時から?」

 震える声でタニアが聞き返す。


「女性をじっくり観察するのは男の性だろ。南部訛りには少し話して気が付いた。帝国の密偵がいるとしたら君かなと思うさ。それに生粋の密偵でも、ましてや暗殺者でもない。まあ、そういう連中だったらこんな話をする前に殺すか、殺されるか、しているだろうけどね……じゃあ、いくつか確認するから答えてくれ。黙秘したら永遠に沈黙してもらう」


 タニアは沈黙したままだが、エリオは一方的に質問した。


「どんな命令を受けてここに来た?」


「エリオ・テッサヴィーレを殺すと……」


「君一人で殺れると思われたなら心外だな」


「私じゃなくて……魔術師がやるって……」


 魔術師という言葉が出てエリオは驚いたが、それをタニアに悟られまいとした。帝国に魔術師がいるのはほぼ確信していたものの、タニアが繋がっているとは思わなかった。


「魔術師が来る予定だったのか?」


「ええ……私はただ後始末をするために来たんだけど、様子が変だったから見に来た……」


「君も魔術師なのか? どうやって奴らを呼び出すんだ?」


「よ、呼び出すんじゃなくて、魔法のコインがあるの。それを置いておくと、そこに魔術師が出てくる……ベルトの小袋に入ってる」


 床に落としたベルトをちらりと見ると、確かに小袋が付いていた。つま先で突くと、確かにコインが入っているような音と感触がある。


 何か予定外の事があって魔術師は来られなかったというわけか――と、エリオは納得した。その理由までは想像もつかないが。


「この場所をどうやって知った?」


「エリオにはトーニオという兄弟がいるから、トーニオという外国人を探せって指示があった……」


 王都には今、外国人が大勢いる。ドラゴンの葬儀を見物しに来て、戦争が始まってしまい、開戦と同時にホワイトハーバーが占拠されてしまったので王都に足止めされているのだ。だから外国人とエリオという名前、その二つの手がかりだけでエリオまでたどり着くのは相当な時間がかかると思っていた。だがトーニオという名前まで知っているなら別だ。


「その話は誰かにしたか?」


「し、し、してない」


 タニアはこれ以上、この緊張状態に耐えられないようだったので、エリオは本題に入ることにした。


「取引しようか、タニア。君の命と引き換えに。君は今晩、エリオの寝込みを襲って殺害に成功したが、周囲に気付かれて死体はそのままになっていると報告するんだ」


「そんな嘘、すぐにばれる……」


「帝国にとっては、エリオが死んだということが重要なのであって俺の死体を手に入れることじゃない。それに俺はトーニオであってエリオじゃない。もうエリオはこの世にいないわけだ。分かるか?」


 タニアは沈黙した。どうすべきか考えているのだろうが、答えは一つしかないとエリオには分かっている。今ここで死ぬか、エリオの共犯者になってこの場を生き延びるか。どちらかを選べと言われれば、普通なら後者を選ぶだろう。


「わ、分かった」

 ナイフが喉に当たっているので頷くこともできず、かすれた声でタニアは答えた。


「念のため言っておくが、もし裏切ったら今度は楽しいおしゃべりは抜きで君を殺す。俺の事を聞いているなら、俺がどこにでも入り込める事も聞いているはずだ。たとえ魔術師の隠れ家にいても関係ないぞ」


 その言葉をタニアが理解できるように待ってから、ナイフを引っ込める。タニアは大きく息を吐き、その場にくずおれた。


「さて、取引が成立したのなら君と俺は協力者だ。今後は頻繁に連絡を取り合ってデートしよう」


 タニアは横目で背後のエリオを見た。その目には恐れと、少しの反抗心が見られたがエリオはそれを許した。


 一人になってエリオは窓辺に立ち、タニアから貰った魔術師のコインを指の間でくるくる回して弄びながら、逃げるように去っていくタニアの後姿を見送った。


 これが吉と出るか凶と出るかは分からない。親指でコインを弾いて上に飛ばし、空中で掴んで手を開くと表だった。模様のある面が表だったら、だが。


 窓から差し込む満月の明かりに照らしてみて、模様や形をよく観察する。この重さ、形、模様のコインやそれに類するものには今後注意しよう、とエリオは思った。それから机に戻り、蝋燭の明かりでもう一度コインを良く観察してから、ナイフの柄頭で叩いて割る。割れた魔術師のコインはもう用を成さないとタニアは言っていた。


 そして蝋燭の火を吹き消すと、部屋は暗闇に包まれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る