7.アリッサ ―盟約暦1006年、秋、第7週―

 レッドドラゴン城の大塔グレートタワー。その三階にある自室で、アリッサは魔術の準備をしていた。


 家具は部屋の隅によせられ、床には大きく複雑な魔術円マジック・サークルが描かれている。その中心の台座には、水を湛えた底の浅い水盤があり、四隅には要となる道具が設置してあった。開け放たれた窓から入ってくる秋の夜風は冷たいが、満月の光を入れるためには開けておく必要がある。


 満月の夜には探知系の魔術が力を増す。それだけでなく、満月そのものを構成要素とする〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉という儀式魔術が行使できる。〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉は探知系の呪文では最上位のもので、扱える魔術師は数少ない。アリッサはその内の一人である。


 扉がノックされ、アリッサは「どうぞ」と応じた。浮かない顔をしたコーディーが入ってくる。アリッサは呪文書を読んで最終的な確認をしながら言った。


「もうすぐ準備完了」


「本当にやるんですか、アリッサ」


 この儀式にコーディーが反対しているのは分かっている。アリッサは呪文書から顔を上げて答えた。


「ファランティアを守る宮廷魔術師として……というより、個人的な事情のほうが大きいのは確か……でも、このままで済ますことはできないわ。お願いよ、コーディー」


 コーディーは断らない、とアリッサには分かっていた。ファランティアについてきた魔術師は皆アリッサに敬意を払ってくれるが、コーディーのようにそれ以上の気持ちを抱いている人もいる。だから彼の想いを利用しているようで、心苦しくはある。それでもアリッサは確かめなければならなかった。


 ファランティアでは魔術がほとんど力を発揮しなかったので、アリッサは夫であるウィリアムと息子アベルの行方を調べられずにいたが、〈盟約〉が失われた今なら可能である。その事をアリッサは無意識に気付かないふりをしていた。皆を助けるために犠牲にした二人がどうなったのか、それを知るのが怖かったのだ。


 しかしアベルの面影を残した魔術師を見てしまった以上、気付かぬふりをし続けることは、もうできない。


「やるわ。何かあったら、お願いね」


 アリッサは水盤を置いた台座の前に立った。コーディーは壁まで下がる。


「仕方ありません。気をつけて」


 アリッサは、小指から指輪を抜き取った。それは夫婦の絆を表すもので、お互いの血液が中に封じられている。結婚式で交換しているので、アリッサの指輪には夫であるウィリアムの血液が入っていた。


 それを水盤に落とし入れ、波紋が鎮まるのを待ってからアリッサは両手を振り上げて、呪文を唱え始める。部屋に朗々と呪文が響き、全開にしたアリッサの魔力通路から人並外れた魔力が全身を通じて魔術円マジック・サークルに流れ込む。


 呪文が成功している感覚はある。だが、水盤に反応はなく、閉じたアリッサの瞼の裏には何の像も浮かんで来ない。


 アリッサは魔術を中断して、ふらふらと台座から離れ、魔術円マジック・サークルの外、部屋の隅に置いた椅子の背もたれに寄り掛かった。


 やはり、ウィリアムは死んでいた――それはずっと前から、アリッサの中で半ば事実となっていた事の再確認であった。


 アリッサにとって意外だったのは、悲しみが深まるよりむしろ和らいだことだ。やっとウィリアムを心の中の墓地に埋葬することができる。それは寂しい事だが、悲しみを深くはしなかった。


「大丈夫ですか?」


 コーディーが暖かい薬草茶ハーブティーを差し出してきた。それを受け取って、一口飲む。温かい茶が身体を温め、心を落ち着かせる香りが鼻に抜ける。


「ありがとう、コーディー。大丈夫よ。やっぱり、ウィルはこの世界にいなかった……」


 コーディーは何も言わなかった。


 それから茶を半分ほど飲んでコーディーに返し、アリッサは戸棚に向かった。そこに用意した小箱を手に取り、台座に戻る。水盤から指輪を取り出して再び小指に戻し、それから小箱を開けて、中に入っているものを確認した。


 茶色に干乾びた根の切れ端のようなもの、それはかつてアベルとアリッサを繋いでいた、へその緒だ。アリッサは蓋を閉めると、それを水盤の中心に置いた。


 先ほどと同じ要領で〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉の呪文を唱える。すると、ウィリアムを探した時とはまるで違う反応を示した。水盤に波紋が次々生まれ、複雑な模様を描き出す。アリッサには、はっきりとアベルの存在が感じられた。ここより遥か南のほうだ。意識を集中させる。


 アリッサの意識はファランティアを離れて〈魔獣の森〉を越え、都市国家の明かりが点々としているテッサニアを越え、海を越えてエルシア大陸へと飛んだ。


 再び戻ってきた懐かしいアリッサの部屋に、一人の若者がいる。〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉は間違いなく、その若者をアベルだと示している。


(アベル!)


 顔が見たい――という強い衝動を、アリッサは必死に抑えた。迂闊な事をして、また勘付かれてしまうわけにはいかない。


 アベルは袖が紫色の黒っぽい長裾の服を着ていた。ベッドの上にある黄色の帯が付いた黒い上着を手に取って腕を通す。それがミリアナ教の審問官のローブだとアリッサは知っている。


 魔獣根絶、魔法排斥というアルガン帝国の精神は、ミリアナ教の教義が根底にある。そのミリアナ教で信仰の正しさを証明する審問官が、まさか魔術師だとは誰も思うまい。


 これを考えたのが皇帝レスターなのか、それともセドリック枢機卿なのか、アリッサは知らないが、神をも畏れぬとはまさにこの事である。


 アベルは部屋の中を歩いて机まで行き、アリッサの物だった鏡を見ながら目元だけ隠す覆面を着け、後頭部で紐を縛った。その覆面は審問官の正装であった。それからフードを深く被り、指で印を結んで〈光球ライティング〉の呪文を使って明かりを出して部屋の外に出て行く。


 〈遠目クレアボヤンス〉とは違い、〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉は対象に追従できるので、アリッサの視点も一緒に部屋を出た。


 部屋の外はやはり廃墟同然であった。崩れた柱、割れた壁、雑草の茂る中庭、破壊された噴水、焼け落ちた建物――それらに見向きもせずアベルは別の部屋へ入っていく。


 そこはかつて王家の人々が食事をしていた部屋だ。アリッサの部屋同様に原型を留めているが、内装は全く違っている。壁はミリアナ教の紋様が刺繍されたタペストリーで埋め尽くされ、枝付き燭台や教壇などが配置されており、教会のような雰囲気だ。


 教壇の前には三角錐に組み上げられた棒と、その中央に吊り下げられた鏡があった。遠隔地と〈幻視会話ヴィジョン・トーク〉するための魔術道具である。アベルはローブの幅広な袖に両手を差込み、鏡の前に立って呪文を唱えた。鏡がブーンと振動して、〈幻視会話ヴィジョン・トーク〉が発動する。


 相手はクレイブという男で、漏れ聞こえる話の内容からすると同じ審問官のようだ。会話の中で、〝竜騎士にエルフにドワーフ〟という単語が聞こえた。竜騎士と言えばランスベルの他にはいない。アリッサはもっとよく聞き取れるように近付こうとした。その時、アベルが気配を察したのか、振り向く。


「待て――誰だ?」


 気付かれた。呪文を止めなければ――アリッサは当然、そうしなければいけなかった。だが、振り向いたアベルの顔を見た瞬間に感情が理性を凌駕して判断力を失った。


 〝我が子に触れたい〟という強い衝動に突き動かされ、手を伸ばしてしまった。


 〈月の瞳アイ・オブ・ザ・ムーン〉という強力な呪文に、へその緒という強力な触媒を用いていたためか、それともアリッサの母親としての想いが強過ぎたのか、二人の意識は接触し、交錯する。


 ドラゴンの遺灰を守るために現れた竜騎士は――


 ――ランスベル。


 ドラゴンの力が残っていた――


 ――遺灰の他に何か力の源がある――


 ――腰の皮袋を気にしていた。


 セドリックに必要なもの――

 ドラゴンの力が手に入れば――

 ホワイトハーバー占領――

 オーダム家――


 ――ランスベルの実家と両親――


 利用できる――


 ――それは駄目!


 ――自我を保たなくては――


 俺はアベルだ――


 ――私はアリッサ。


 あの竜騎士は未熟だ――

 魔術師一人殺せない――


 ――違う。

 ――殺せなかったのではなく、殺さなかったのよ。


 それは利用できる――


 ――駄目よ、そんなふうに考えては。


 俺の中から出て行け、魔女め――


 ――あなたの母親よ。


 子供を捨てた女が――


 ――お母さんよ。


 〝二度と言うな!〟


 憎悪が精神の炎となって燃え上がり、アリッサを包み込んだ。それは同時にアベル自身の精神をも焼き、二人はもろともに悲鳴を上げた。


 誰かの手がアリッサの肩を掴んで、アベルから引き剥がそうとする。

 待って、まだ伝えるべき事があるのに――しかし、アリッサはそのまま引き離された。


 酷い頭痛にうめき声を上げながら、アリッサは目を覚ました。

 いつの間にか床に寝かされている。頭の下には丸めたローブが敷いてあった。


「大丈夫ですか!?」


 コーディーがアリッサの顔を覗き込んでいる。手には陶器製の水差しを持ったままだ。


「あんな強力な触媒を使った魔術で、実の母親が子供に接触するなんて危険すぎますよ。いつも冷静なアリッサが、あんな事をするなんて……」


「……どうなったの?」と、頭痛に苦しみながらアリッサが問う。


「アリッサがすごい悲鳴を上げて、防御の魔術円マジック・サークルが燃え出したんです。四方の要も全部燃えてしまって、危なかったんですよ!?」


 コーディーの言葉には心配を通り越した怒りがあった。


 アリッサは頭を動かして部屋の中を見回した。コーディーの言ったように、魔術円マジック・サークルの四隅に設置した魔術道具は黒く焼け焦げていて、一番外側に描いた防御の魔術円マジック・サークルは床を焦がしてしまっている。水をかけて消火したせいで黒い水たまりが出来ていて、異臭が鼻をつく。


 アリッサは上体を起こした。頭痛は治まりつつある。


「水が飲みたいわ」


 コーディーはため息をつき、水差しを逆さまにして見せた。水は一滴も残っていないようだ。


「火を消すのに使ってしまったので、もらってきます。一人で大丈夫ですか?」


 アリッサは頷いた。コーディーは立ち上がって部屋を出て行く。


 それからアリッサはゆっくりと立ち上がり、台座に近寄った。水盤の中心に置いた小箱も炭化している。手で触れると、崩れて水を黒く染めた。中身まで燃え尽きてしまったのだ。


 アベルが生きていた――その事実は純粋に嬉しかったが、帝国の審問官、つまり魔術師団の一員になってしまっていた。その上、〈選ばれし者〉であり、我が身もろとも焼き尽くさんとするほどアリッサを憎んでいる。


 アリッサは今まで何度も、もしアベルが生きていたら、もしウィリアムが生きていたら、と夢想したことがある。何度も夢を見過ぎて、いつの間にか、もし生きて再会できたら二人とも喜んでくれると思い込んでいた。


 だが、アベルと思考を共有した時に感じた憎悪は、話し合う程度で何とかなるとは思えなかった。思い出すと震えがくるほどの憎悪だった。


 アリッサはがっくりと、焦げた台座にすがりつくように倒れ込む。そしてブレア王国とサンクトール宮が炎に包まれたあの日から、絶対に言うまいと決めていた言葉を口にしてしまった。


「誰か……ウィル……助けて……」と、消え入りそうな声で。

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