6.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第7週―

 アンサーラが包囲網を寸断してくれたおかげで、ランスベルとギブリムはそれ以上戦うことなく隠れ場所まで戻って来られた。


 今、洞窟の中にいるのは二人だけで、アンサーラはまだ戻っていない。帝国軍が周辺を捜索しているかもしれないので明かりを使うわけにもいかず、暗闇の中でランスベルは膝を抑えて座っていた。


 すぐ近くにいるはずのギブリムはほとんど気配がない。静寂の中であれば呼吸音くらいは聞こえるのだろうが、海岸に近いこの洞窟の中には波の音が反響しているうえに、奥にいるランスベルたちの乗馬が立てる音もあって、それも聞こえない。


「僕のために……ごめんなさい」


 沈黙に耐えかねてランスベルは言った。ギブリムの反応はない。怒っているに違いない。


「帝国の魔術師は僕を狙っているんだと思う。それというのも、帝国の魔術師がドラゴンの遺灰を狙って現れた時に、僕がドラゴンの力を使って見せながら手加減して逃してしまったせいで……両親と兄が人質に利用されたのも、僕に原因があると思う。それで僕――」


「家族を助けようとするのは当然のことだ」

 ギブリムの低い声が、ランスベルの言葉を遮った。

「お前は間違っていない。それは正しいことだ」


 ランスベルは我が耳を疑った。怒られるとばかり思っていたのだ。だからギブリムが自分を肯定していると分かると、不意に涙が出そうになって、慌てて目頭を押さえる。


「ドワーフは成人して一人前と認められて初めて、家名を名乗ることを許される。そして氏族の名を名乗る事を許されたら、それは氏族の名誉を体現する者と認められたと同義だ。だから氏族の名を名乗り、氏族の名で呼ばれることは、大変な名誉だ。それに、自分が何者かを思い出させてくれる」


 ギブリムがこんなに話すのは、出会ってから初めてだった。何か言えば涙声になってしまいそうだったので、ランスベルは黙って聞いた。


「だが、人間やエルフは個の名前を先に名乗り、氏族の名前は付け足すだけだ。それは氏族よりも個を優先しているからだと俺は理解している。だが、敢えて尋ねたい」


 一拍を置いて、ギブリムは言った。


「ランスベル、お前の氏族は何だ」


 ランスベルが、ただのランスベル・オーダムだったなら、ホワイトハーバーにいた頃の何もない自分だったなら、きっと家族の求めに応じて命を差し出すことさえできただろう。それは自己犠牲のような尊いものではなく、単なる無知と無関心さによってだ。もっと簡単に言えば、親に逆らう理由がないというだけだ。もっとも、そんなランスベルの命には帝国が求めるような価値などないだろうが。


 ランスベルが真の竜騎士であったなら、ドラゴンの遺灰を狙う魔術師を殺せたはずだ。その力も機会も理由もあったのだから。あの時アリッサが言ったように、〝殺すつもりで剣を振る〟べきだったのだ。そうしていれば家族が人質になる事は無かったかもしれない。


 〝お前は自分を殺せるか?〟

 パーヴェルの言葉が暗闇の中から蘇る。


 〝できる、と思います〟

 知ったふうに、幼いランスベルの声が答える。


 あの問いにはたくさんの意味があったと、今になってランスベルは実感した。ブラウスクニースと正式に絆を結んで金竜騎士を継承した時、パーヴェルは竜語でこう宣言した。


『ここにランスベル・オーダムは消え去り、新たな金竜の騎士ランスベルが誕生した』


 だが、ここに来たのはランスベル・オーダムが消え去ってなどいなかったからだ。ランスベル・オーダムを殺せなかったからだ。


「ブラウスクニースを頼む」と、最後にパーヴェルは言った。


『〈盟約〉を……最後まで……頼んだぞ』と、最後にブラウスクニースは言った。


 〈竜珠ドラゴンオーブ〉を〈竜の聖域〉に届けるということは、二人のみならず、一〇〇〇年に渡るドラゴンと全ての竜騎士の想いを届けるという事なのだ。


 そしてアンサーラとギブリムも、おそらくは大きな希望を、願いを、最後の誓約に託している。


 あの雨の日にパーヴェルの手を掴んだ瞬間から、たくさんの人と出会い、学び、経験して、命を賭ける価値があると思える使命を得たはずだったのに、ランスベルは全て忘れてしまっていた。


 ランスベルは顔を上げて涙を拭い、答えた。

「僕は……竜騎士でありたい……」


 ギブリムは何も言わなかったが、しばらくしてぽつりと呟く。

「……お前とアンサーラは似ている」


「僕とアンサーラが?」


 それに答えたのはギブリムではなかった。


「確かに、似た状況にあるかもしれませんね」

 洞窟の入口からアンサーラの声がした。


 いつの間にか戻っていたアンサーラが洞窟の入口に立っている。夜のアンサーラは金色の目をした人型の闇だ。


「危惧していた事ではありましたが、やはりあなたの家族は帝国に与しているようです。あなたを取り逃がした今でも、拘束される事なく、屋敷の周りには警護の兵士が付いています」


 その声は昼間と変わらず美しく、ランスベルへの同情が感じられた。


「……うん……」


 その事実を認識することは、まるで溶けた鉛を飲み込むように苦しかった。確かに父が優しさを示した事はほとんど無かったのだが、それでも父親である。それは疑う必要のない確かなものの一つだった。今までは。


 親が子供を敵に差し出す、という行為をランスベルは受け止められずにいた。アルガン帝国がランスベルを迎え入れるとでも思っているのだろうか。竜語魔法を使うランスベルは帝国にとって魔法使いの一人であり、抹殺すべき対象のはずだ。運がよければ帝国の魔術師団に勧誘されるかもしれないが、断れば殺されるだろう。


 串刺しになって街道に晒されている自分を、家族が眺めている様を想像してしまい、ランスベルは吐きそうになった。


 アンサーラは洞窟の中に入ると完全に姿が見えなくなったが、ランスベルの向かい側に腰を下ろす気配がした。一対の金色の瞳が闇の中から見つめている。


「ランスベル、わたくしは誓約を果たして得られる奇跡に賭けています。その機会を得るために何百年も待っていました。わたくしたちの旅はまだ始まってもいません。だから旅立つために、あなたの助けとなり得るのならば、わたくしの事をお話しましょう……ナイトエルフ、という名称は伝わっていますか?」


 その名を聞いても、すぐには思い出せなかった。昔話や絵本に出てくる邪悪なエルフのことだったような気がする。たしか闇夜のように黒く、金色の目をした――そこまで思い出して、ランスベルは気付いた。


「まさか……アンサーラが?」


「ええ」と言って、アンサーラは続けた。


「最初にフードを取った時に驚かれるのではと思っていましたが、あなたの反応を見て、もう竜騎士でさえナイトエルフの存在を忘れてしまったのだろうと思いました。この漆黒の髪と、闇の中で金色に光る瞳はナイトエルフの特徴です。そしてこの白い肌と銀色の瞳はデイエルフのもの。わたくしの母はデイエルフでしたが、父はナイトエルフでした。ちなみに、人間たちが通常エルフと呼んでいるのはデイエルフのことです」


 光の中で見るアンサーラと、闇の中で見るアンサーラの印象があれほど違うのはそのせいなのかとランスベルは驚いた。


「父の名前はザラーサンサーラ。エルフですら忘れようとしてきた名前ですから、人間にはもうその名は伝わっていないでしょう。父はナイトエルフの指導者でした。そして、長い旅路に疲れ果てた父はこの世界をエルフの理想郷とするべく、エルフの魔法の全てを使って支配しようと考えました」


「この世界?」と、ランスベルは思わず口を挟む。


「世界はいくつもあるのですよ、ランスベル。エルフもドワーフも、そうですね……あなたたちの言葉にすれば〈世界を渡り歩くもの〉とでも呼ぶべき種族です。エルフには、別の世界に移動する魔法があります。他にも色々な魔法がありますが、ナイトエルフが得意とするものは生命操作の魔法です。本来は植物や動物を、それらが望む形に生長させるために用いられたものです。その力を最大限に使うと……対象が望まなくとも、魔法使いが望んだ形に生長させることができます。この世界に蔓延して人間たちを苦しめている魔獣は最初からこの世界に存在したわけではありません」


 アンサーラの話の流れが、ランスベルにもなんとなく分かってきた。


「魔獣は、父が作り出したのです。あれらは、この世界にいた生物がナイトエルフの魔法で歪められたものです。アルガン帝国は魔獣に対抗して生まれた国家ですから、この現状は九五〇年前に父が始めた所業が原因とも言えるのです。それは〈ナイトエルフの反乱〉と呼ばれています。デイエルフの立場からすれば反乱なのでしょう。父には父の正義があり、わたくしもそれを信じるよう育てられました。あり得ないと言われていたデイエルフとドワーフの同盟が竜騎士の働きによって成立し、デイエルフ、ドワーフ、竜騎士、人間といった種族を超えた連合により〈ナイトエルフの反乱〉は五〇年で終結する事となりました。当時のわたくしは一七歳。エルフは二〇歳まで、肉体的にも精神的にも人間と変わらず成長しますから、今のあなたと同じ年頃ですね」


「竜騎士……」


 ランスベルは呟いた。パーヴェルはエルフやドワーフなどの種族に関する秘密や、一〇〇〇年に渡る竜騎士の歴史に隠された真実といった知識の習得を後回しにしたためランスベルは知らない事も多い。竜砦ドラゴンキープにはそれらの知識が残っているかもしれないが、今や海底に沈んでいてランスベルは場所も知らない。


「わたくしはずっと、心のどこかで父のしている事に反感を抱いていました。魔獣を作り出す禍々しい所業を見るたびに、どのような理由があったとしても許される事ではないと感じていたのです。わたくしもその所業に加担していたのは否定できない事実ですが……ある時、わたくしは父がした事の全てを知り、ナイトエルフを裏切って――」


「俺の祖父ドルドスらと共にナイトエルフの狂王を倒すのに協力した」


 ギブリムが話に割り込んだ。それでいいだろう、とでも言いたげな強い口調だったが、アンサーラは話を止めなかった。


「最後の戦いの中で、わたくしは父を殺しました」


 はっきりと、アンサーラはそう言った。ギブリムは沈黙し、ランスベルも言葉を失う。


「当時のわたくしは、あなたと同じくらいの年頃だと言いましたね、ランスベル。あれから九〇六年ほど経て、その間ずっとわたくしは考え続けてきました。今では父の正義と理想を、理解する事も認める事もできます。父を許す事さえできます。それでも父の所業が過ちだと、わたくしは断言します。もし今、父と話せたとしても、やはりわたくしと父はその点において分かり合えないでしょう」


「……理解する事も許す事もできるのに、分かり合えない?」


 ランスベルが問うと、アンサーラの金色に光る瞳が頷いた。


「許す、許さないという問題は、過ちであったかどうかとは別の問題です。わたくしには父を殺した責任があります。だから父に代わって、その過ちを正すと決めたのです」


「それがアンサーラの願いなんだね……」


「ええ。わたくしの願いは、この世界から未来永劫、全ての魔獣を消し去る力を得ることです。それを成すために、この世界で最も強力な奇跡と呼ぶに相応しいドラゴンの力に賭けています。その結果、この身がどうなろうと躊躇いはしません」


 正直なところ、ランスベルにはアンサーラの気持ちに共感するのは難しく、その話を充分に理解もできなかった。九〇六年という時間はランスベルにとって無限に等しい時間であり想像の及ぶところではないし、エルフという種族についても知識が無かったからだ。


 だが彼女が誓約に、最後の竜騎士に託した願いの重さと「許す、許さないという問題は、過ちであったかどうかとは別の問題」という言葉は、ランスベルの心を揺さぶった。


 野晒しになって立ち並ぶ、串刺しにされた人々の姿は、あってはならない事の一つだとランスベルは思う。それに父が協力しているのは、おそらく間違いないが、元凶ではない。父はアルガン帝国の侵略という大きな動きの中の末端に過ぎず、仮に父が協力しなかったとしても結果は同じだったかもしれない。


 父が自分を帝国に差し出した事を思い出すと、胃が握りつぶされたように苦しくなり、鈍い鈍痛が頭の中で疼く。それでもランスベルは考えなければいけなかった。


 父は知らないのだ。ランスベルに託された想いと願いの重さを。だから、そんな事ができた――そう考えてみても、ランスベルには強い疑念が残った。


 もし知っていても、やったのではないか――と。


 ランスベルの記憶にある父は、家の中にあるものは全て、物でも人でも自分の思い通りになるべきだと考えているような人物であった。


 アンサーラの話は終わって、三人とも沈黙した。アンサーラとギブリムは、ランスベルが答えを出すのを待っているようだった。しかし必死に考えてみても、真実は分からない。父が何を考えているのか、なぜあんな事をしたのか。想像する事はできても真実は分からない。


 確かなのは父がまだ生きていて、話し合えるという事だけだ。アンサーラとランスベルの状況は似ているかもしれないが、その点で大きく異なる。


 ランスベルは決意して、口を開いた。

「ごめん、二人とも。もう一度だけ僕と、僕の家族に機会を与えて欲しい」


「どうするつもりですか?」と、アンサーラが問う。


「僕は竜騎士として、〈竜の聖域〉に向かう。つまり、ここにはもう戻らない。だけどその前に一度だけ、父と会って話したい。許してもらえるだろうか?」


「もちろんです」


 アンサーラは即答した。その後で、ギブリムが重々しく問う。


「俺も構わん。だがランスベル、お前は戦えるのか? 戦えないのなら、会うべきではない」


 今の状況で、父と会おうとすれば戦いは避けられないとランスベルにも分かる。戦いになれば誰かが死ぬか怪我をする。もしランスベルが誰も手にかけなくても、アンサーラかギブリムが殺せば、それはランスベルが殺したのも同然なのだ。


 そう考えれば、すでにランスベルはたくさんの人を殺している。自分の手を汚していないだけだ。先ほどの戦いでも〝包囲されないようにする〟とアンサーラは言った。具体的に聞いていないが、おそらくかなりの帝国兵を殺しているはずだ。


 自分の見える範囲に限れば、ランスベルは〝ただ家族を助けようとしただけ〟だ。だが視野を広げれば、そのために死んだ人間はすでにたくさんいる。もしかすると、父も同じなのかもしれない。


「戦える、とは言えない……でも、やってみるよ」


 パーヴェルは、知識よりも戦うための技術を優先的に習得させた。ランスベルの知っている竜語魔法も戦いに使うものがほとんどだ。それは戦うことが、最後の竜騎士の使命を果たすには必要だと考えていたからだろう。


「わかった」


 ギブリムはその一言だけで、後は何も言わなかった。暗闇の中から、ランスベルを気遣うアンサーラの声がする。


「ランスベル、あなたが竜騎士として振舞うために、個人的な事情を切り捨てなければいけないとは思いません。わたくしはナイトエルフであり、デイエルフでもあります。そのどちらかであるために、どちらかを切り捨てたいと考えた時もありますが、それこそ現実逃避に過ぎません。わたくしはわたくし、あなたはあなたです」


「ありがとう……」


 ランスベルが二人に言えたのはそれだけだった。たとえランスベル・オーダムのままだとしても、今の自分はホワイトハーバーにいた頃の自分ではないのだと言い聞かせる。


(そしてこれを最後に、今度こそ本当に、竜騎士になるんだ)


 洞窟の闇の中に、ぽつぽつと蛍のような小さな光が生まれ、それが集まって徐々に明るくなっていった。アンサーラの魔法だ。彼女が呪文を唱えて手を開くと緑色の光の粒がふわっと広がる。


 明るくなったのに驚いた馬がそわそわし始めたので、ランスベルは慌てて立ち上がり落ち着かせに行った。


 その間に、アンサーラは地面に線を引いて石を並べる。ランスベルが戻ると、彼女は説明を始めた。


「帝国軍は本隊を街道沿いに展開しています。おそらく、わたくしたちがファランティア王国軍と連携している可能性を警戒しているのでしょう。ですがそろそろ、こちらが単独だと気付く頃です」


 そう言って、並べた石を指し示す。


「幸いなことに防御柵はまだ完成していませんので、忍び込むのは問題ありません。夜明けまでまだ時間もありますし、魔法で姿を見え難くします。問題は、敵の魔術師がどんな策を講じているかです」


「帝国は魔術師の存在を秘密にしているから、表立って動かないと思うんだ」


 ランスベルが自分の考えを口にすると、アンサーラは尖った顎に手を当てて言った。


「ならば、人目に付かない場所で待ち構えていると考えるべきですね。オーダム家の中か、町の郊外か……」


 三人しかいないランスベルたちに取り得る選択肢は少なく、時間もなかった。この夜を逃せば、オーダム家と接触するのはより困難になってしまう。結局、ギブリムやアンサーラの能力に頼るような作戦になってしまった。


「正攻法ですが、このやり方で行きましょう。話す時間は数分程度しかありません。話し合うには短すぎる時間だと思いますが……」


 アンサーラはランスベルを見た。ランスベルは頷いた。

「うん。行こう」


 その言葉を合図にアンサーラは手を振って魔法の明かりを消す。三人は洞窟を出て、満月の光の中をホワイトハーバーへと歩き出す。


『ブラウスクニース、我に力を』


 ランスベルは竜語魔法を呟いた。それは祈りでもあった。

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