1.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第6週―

 王都からファランティア北部に向かう街道は大きく蛇行している。王都の北には広大な王領があり、街道はまずその西側の縁を沿うように湾曲していた。この拓かれた平野には林が点在していて、普段は馬の飼育に使われている。

 ここで育てられた馬は王領馬と呼ばれ、質が良い事で有名だ。騎士や貴族への高価な贈り物としても用いられる。


 点在する林から得られるものは主にレッドドラゴン城や王都の貴族たちによって消費されるが、平民にとって無関係な場所というわけでもない。林は王の狩場でもあったが、テイアラン四九世は趣味としての狩りはせず、年に二回の決まった時期に行うだけだった。王が狩りに成功すると、その肉は〈王の獲物〉として王都の人々に無償で提供されるので、王都はちょっとした祭りのようになる。もちろん、この狩りが失敗に終わる事はないし、数も一匹や二匹ではない。


 その他にも王家の主催するトーナメントや馬術競技の会場としても使われるが、ランスベルはそれらの催しに参加した事がない。誘いがあっても竜騎士は丁重に断る決まりだったから、遠目に眺めたことがあるだけだ。


 ランスベルが王都を出たのは夜中だったので、広大な王領も夜の闇に沈み、風の音と虫の声しかなかった。


 王領を過ぎて道が北に向かうようになると、王都からも見える〈王冠山〉のギザギザと尖った稜線が徐々に高くなっていき、周囲には木々が増えてくる。秋の色に変わり始めた雑木林の中に入ったり出たりを繰り返しているうちに、いつの間にか正面に見えていた〈王冠山〉は右手に回りこんでいた。街道が〈王冠山〉を迂回するため、またもや西に向きを変えたからだ。


 その先は、何本もの川が次々に現れる。川幅は一定ではなく、歩いて渡れる浅い清流から橋が必要なものまで様々だ。春になると水量が増して一本の大きな川になるものもある。この付近の視界は開けていて、森を抜けてきた旅人に開放感を与えてくれる。北に目をやれば、青く澄んだ空にうっすらと白く北部の山々が透けて見えた。


 これらの川はファランティア北部の山岳地帯から流れ出ていて、遥か下流では南部を縦断するシオンター河という一つの大きな流れになる。帝国軍に奇襲を受けたサウスキープは、このシオンター河の東に位置する。


 普段なら、ここはとても穏やかな気分になれる場所だ。川のせせらぎは心を落ち着かせてくれるし、いくつもの川を渡っていく途中では川岸に鹿や狐などの野生動物を見る事ができる。王都のようなごみごみした都会からやってくればなおさらだ。熊や狼もいるので完全に気を抜いてしまうわけにはいかないが道から外れなければ危険は少ない。


 しかし今は、どうしてもサウスキープの惨状を思って心苦しくなる。町を焼け出されて河に逃れようとする人々を想像すると、自分が〈竜珠ドラゴンオーブ〉の力を存分に使えば何とかできたかもしれないのに、とランスベルは思ってしまうのだった。


 〈王冠山〉を背にして川を渡り、しばらく進むと分かれ道がある。北に向かって北部へ至る道と、西のオースヒルへ向かう細い道だ。ランスベルは最初の目的地であるオースヒルに向かうため、西に向かう細い道へ入った。


 ファランティアの街道沿いには、近隣の住民が手入れしている無人の休憩小屋や、宿、居酒屋、宿場などあるので旅するには困らない。オースヒルまでの道中、ランスベルもそれらを利用してきたが、人々の話題は当然のことながら戦争ばかりだった。多くの人は王都の北にまで戦火が及ぶことはないと思っていて、その根拠は北方連合王国が成立した事と、彼らがファランティアを助けに来てくれるから、というものである。北方連合王国の成立と、ファランティア王国との同盟は、北方人たちが立ち寄った先々で話を広めて行ったらしい。


 中にはランスベルが竜騎士だと知っていて、「王都から北のこっち側は大丈夫なんですよね?」と念押ししてくる者もいた。そんな事を聞かれても答えられず、曖昧な受け答えで誤魔化しながら旅してきた。


 そうした道中を経て前方にオースヒルが見えるところまでやって来ると、町に向かう細い道にはやたらと看板が出ていて、そのほとんどはこう書かれている。


 〝盟約の丘の町オースヒルにようこそ!〟


 いくつもの看板を通り過ぎ、町の入口であるアーチ門を抜けると、目抜き通りがまっすぐに伸びている。その両側には土産物屋、居酒屋、宿屋などの商店が並んでいるが、それらの半分以上は看板を下ろし、扉や窓は板が打ち付けられた状態である。


 それらはここ最近そうなった、というわけではない。建物の状態から、店じまいをしたのはずっと前だったことが見て取れる。オースヒルを訪れる観光客はもうほとんどいないのだ。


 〈盟約の丘〉は、その名の通り〈盟約〉が結ばれた場所であり、ファランティア発祥の地とも言える。その周囲は整備され、丘の上に建てられた〈盟約の石碑〉まで階段も作られていた。かつては多くの人々が毎年訪れ、その人々のために宿屋が出来て、居酒屋が出来て、土産物屋が出来て、そしてオースヒルという名の町になった。


 ドラゴンは自らを神格化することを固く禁じたが、もしそうしていなかったら、きっとオースヒルはドラゴン教の総本山にでもなっていただろう。そうであったなら、今もたくさんの人がオースヒルに集まっていたに違いないが、単なる観光地にしかならなかったオースヒルは完全にさびれてしまった。目抜き通りにも全く人影がない。


 無人の通りをゆっくり馬で進んでいくと、ランスベルの姿を見つけた中年女性が土産物屋から飛び出してきた。


「あの、もしかして竜騎士様ではないですか!?」


 女性の大きな声に驚きながらランスベルは名乗った。


「えっ、あ、はい。金竜騎士ランスベルと申します」


「ああ、やっぱりオースヒルに残っていて正解だった。ちょっと待っててくださいな!」


 女性は興奮した様子で店の中へ戻って行った。そして、女性と同じくらいの年頃の中年男性を引っ張り出してくる。それを合図に、他のわずかに残った店からも数人が顔を出し、ぞろぞろと集まってきた。子供や若者はほとんどいない。


 彼らは口々に「竜騎士様」と一斉に話しかけてきて、ランスベルは困惑した。その中で「エルフとドワーフ」という言葉を聞きつけたランスベルは、それを口にした老人に聞き返す。


「エルフとドワーフを見たのですか?」


「そうです、そうです。エルフとドワーフを見かけたんです。だから竜騎士様も来るだろうと。また次の〈盟約〉が始まるのですね? わたしらを守ってくださるのですね!?」


 老人は興奮して早口にまくし立てる。これまでにも何度かあったやり取りにランスベルは正直うんざりしていたので、〈盟約〉に関しては何も言わなかった。


「その二人がどこにいるか分かりますか?」


 ランスベルが尋ねると、答えたのはその老人ではなく別の中年男性だった。


「ドワーフさんはうちの宿に泊まってますよ。金とか宝石とか羽振りが良くって!」と、笑顔で言う。


 別の女性が老人を押しのけて言った。

「たぶんエルフだと思うんですけど、〈盟約の丘〉の近くで見かけました。でも瞬きの間にいなくなっちゃって……」


 押しのけられた老人はむっとして、その女性に文句を言う。

「お前、それ、俺が言おうとしたのに!」


 ランスベルは宿の主人らしき男に向かって言った。

「あなたの宿に案内していただけませんか。僕……いえ私は、その方に会わなければなりません」


「もちろんですとも。よろしければ竜騎士様もぜひ泊まって行ってください」


 宿の主人は満面の笑みでそう言うと、集まった住民を手で退かしながら先導してくれた。


 宿までの道すがら、オースヒルの人々はぞろぞろと付いて来ながら「次の盟約」と「自分達を守りに来た」というような事をしきりに話している。そのどちらでもない、と言うべきなのだが、ランスベルにはできなかった。


 旅の間にも同じような事を尋ねてくる人はいて、そのたびにランスベルは心苦しい思いをした。レッドドラゴン城の会議室で言ったように、はっきりと言う事ができなかった。


 人々の期待を裏切ってしまってよいのか、傷つけてしまってよいのか、分からなくなってしまったのだ。最後にモーリッツから聞かされたホワイトハーバーの状況と、受け取った兄からの手紙が、ランスベルの心をかき乱していた。


 あの雨の日、パーヴェルに「君は自分を殺せるか」と問われて、ランスベルは「できます」と答えた。そこには〝人間としての自分を殺せるか〟という意味があったのだろう。竜騎士として人間たちに真実を伝えるべきだというのは分かっているのに、人間的な心情がそれを躊躇させている。


 ランスベルが思い悩んでいる間に、宿へと到着してしまった。


 通りに面して前庭があり、厩もそこにある。庭を抜けた先の二階建ての建物が宿だろう。ブーツを履いた馬の看板が出ていて、それが宿の名前にもなっているようだ。


「少々お待ちを!」と宿の主人は言って、宿に駆け込んで行くと、すぐに女将と思われる女性が出てくる。ランスベルが馬から下りて前庭に入って行くのを、町の人々は通りから見ていた。主人が走って戻ってきて馬の手綱を取る。


「馬は私にお任せを。竜騎士様はどうぞ中へ」


「ありがとうございます。お願いします」


 ランスベルは素直に手綱から手を離して、女将が待ち構える宿の玄関へと向かった。宿の玄関に入る前に外套クロークを脱いで、ばさりと埃を払うと、女将が笑顔で手を差し出した。後はお任せを、という意味だろう。


 こういうやり取りに慣れていないランスベルは、「あ、す、すみません……」と言いながら外套クロークを渡す。


「いいんですよ。そこにあるものも自由に使ってくださいな」


 女将は玄関を開けて言った。そこには水の入った手桶や手ぬぐい、ブラシなどが用意されている。ランスベルはそれらを使って顔や手を拭き、服やブーツの汚れを落とした。その間に女将は外套クロークにブラシを掛けて埃を落とし、畳んで、玄関にある長腰掛けベンチに置いた。


「ドワーフさんに知らせてきますね」

 そう言って二階に上がっていく。


 宿泊客でもないのに長腰掛けベンチに座るのはなんとなく悪い気がして、ランスベルは立ったまま待った。二階から下りてきた女将は立っているランスベルを見て、〝おや?〟という顔をして苦笑する。


「ドワーフさんはお部屋で待っているみたいです……みたいです、というのも変ですけど。あのドワーフさんほとんど話さなくて。言葉は通じてると思うんですけどねえ……ご案内しますね」


「はい、お願いします」


 女将に案内されて、ランスベルは二階の部屋の一つまで来た。扉をノックしてみたが、反応はない。「入ってもいいんじゃありませんか」と女将は言って、一階に戻って行った。


 ランスベルは気を取り直してもう一度ノックしてから、「失礼します」と扉を開く。


 小さな部屋にはベッド、机、丸テーブルとイス、クローゼットがあるだけだ。扉の正面にベッドがあり、そこにずんぐりとした人間――ではなく、ドワーフ――が座っている。人間に合わせて作られた椅子よりも、足が短いドワーフにはベッドのほうが腰掛けやすいのだろう。


 胴体は大柄な人間と同じくらいあり、肩幅は広く筋肉が盛り上がっている。足は太く短い。頭髪も髭も豊かで、胸の下まで届いている。眉毛も太いので、顔は毛のない部分のほうが少なく感じるほどだ。毛髪は濃い赤銅色をしている。毛むくじゃらで、ずんぐりむっくりした人、というのがランスベルの感じた第一印象であった。


『私は金竜ブラウスクニースと契りし竜騎士、ランスベルと申します』


 念のため下位竜語で自己紹介して頭を下げた。下位竜語はドラゴンが他の種族と会話する時に用いるもので、どんな種族にも通じる。その代わり、言葉に付随する感情や内包した意味までも正確に伝わってしまうので嘘を付くのが非常に難しい。ランスベルは完全に習得しておらず、嘘を付くこともできない。


 ドワーフはぎしぎしとベッドを揺らして、ドスンと床に立った。見た目以上に体重があるのだろう。立ち姿を見ると、人間に似てはいるが明らかに違う種族なのだと分かる体形をしていた。太い眉の影から灰色の瞳で、じっとランスベルを見つめながらドワーフはファランティア語で自己紹介した。


「ギブリム・バン・バスクスだ。ドワーフの〈盟約の者〉だ」

 北方訛りはあるものの、流暢にそう言って、手を差し出してくる。


「よろしくお願いします。ギブリム・バン・バスクス殿」


 今度はランスベルもファランティア語で答えて、ドワーフの手を取った。ギブリムが上下に激しく揺さぶったので、不意を突かれてランスベルは身体ごと前のめりになってしまう。ギブリムの身長はランスベルより頭一つ低いのだ。


「ギブリムと呼んでくれ」

 髭をもごもご動かしてドワーフが言った。


「はい。僕の事はランスベルと呼んでください。それで、あの……手を離してもらっても?」


 まだ強く握られたままの手を見つめて言うと、ギブリムは手を離した。「奇妙な習慣だ」と、むっつりして言う。それで、人間の流儀に合わせて握手してくれたのだとランスベルは気付いた。


「エルフの方も来ていると町の人から聞いたのですが、もう会いましたか?」


 ランスベルが尋ねると、ギブリムは首を横に振る。


「そうですか……〈盟約の丘〉に僕達が現れるのを待っているのかもしれません。行ってみましょう」


 今度は、ギブリムは首を縦に振った。


 最後のドラゴンがファランティアを去った後、〈盟約の丘〉に最後の竜騎士と、エルフとドワーフから〈盟約の者〉が一人ずつ集まって〈最後の誓約〉を行う事になっている。〈盟約の者〉とは、それぞれの種族の代表者ということだから、ギブリムは種族の中で特別な立場のドワーフなのだろう。


 そういう話をしてみたいとも思うが、ギブリムは無口で、部屋を出てから〈盟約の丘〉まで一言も話さなかった。


 〈盟約の丘〉はほぼ円形をしていて、頂上の石碑まで土を固めて階段が作ってある。滑り止めに細い丸太が埋め込まれていて、丘を覆う草はある程度の長さに揃えて切られていた。今でもオースヒルの人々が手入れしているのだ。石碑の周囲と、階段の急なところには柵もあるが、侵入者を防ぐ目的のものではなく転落防止のためだ。


 西日が雲を赤く染め、影が長くなり始めた頃、ランスベルとギブリムは階段を上り石碑の前までやって来た。


 オースヒルの人々は〈盟約の丘〉の下からこちらを見上げている。周囲を見回してみても、彼ら以外に人影はなかった。オースヒルの町と町の外まで続く道、収穫を控えた畑、低木の茂みと林、牧草地の囲いまで見えるので景色は良い。


 石碑には〈盟約〉の言葉が、古王国語、エルフ語、ドワーフ語で彫られている。どれもランスベルには分からない言葉だ。


 この石碑は盟約暦一〇年に作られたもので、世間一般では〈盟約〉に使われた本物だと信じられているが、本物の〈盟約の石版〉はランスベルの背負い袋の中にある。しかし、この石碑が本物ではないとしても、この場所で〈盟約〉が結ばれたのは事実であった。


 それを思うと、ランスベルは自分がどれだけ重要な役目を担っているのか改めて実感する。同時に、ホワイトハーバーの事が抜けないトゲのように胸の奥に刺さっているのを感じた。王都を離れて旅をし、この丘まで来れば、そんな迷いも無くなるかと期待していた。しかし実際には、迷いが無視できないほど心の中で大きくなっている。


(こんな事では竜騎士とは言えない……)

 ランスベルは自分を情けなく思った。


「エルフ」


 ギブリムが低い声で言い、ランスベルは石碑から目を離してドワーフの視線を追った。あまり抑揚のない言い方ではあったが警戒感を含んでいる。


 二人の前にはいつの間にか、足首まである長いマントを身に着けた人物が立っていた。マントはこの丘の地面を模したような不思議な色合いをしている。フードの中に白い肌の尖った顎が見え、その奥の瞳は影の中で金色に光っている。


「はじめまして。わたくしの事はアンサーラと呼んでください。エルフの〈盟約の者〉です」


 とても流暢なファランティア語で、美しい女性の声だった。ランスベルは理由もなく、〈盟約の者〉は全員男だと思い込んでいたので少し驚いた。


 エルフの女性はマントを肩の後ろにやって前を開いた。見たことのない紋様の付いた服と革鎧レザーアーマーを身に着けた華奢な身体が見える。手足が長く、腰は細く、胸はあまり女性的ではない。身長はランスベルと変わらないが顔はとても小さくて、八頭身か九頭身くらいだ。やはり人間と似てはいるが、違う種族なのだと一目で分かる体形をしている。


 アンサーラは手袋を取り、白い素肌を晒すとほっそりした手を差し出してきた。その歩みに足音はなく、身体の重さを感じさせない。


「はじめまして。アンサーラ殿。竜騎士のランスベルです」


 どこか実在感の薄いアンサーラに、触れても大丈夫なのかと思いながらランスベルは握手を交わした。フードの中の白い顔が微笑む。その顔を見てランスベルは完璧すぎると思い、畏怖の念を抱いた。


 アンサーラは自分から手を離すと、やはり美しい声で言った。

「何年経っても、これは奇妙な習慣だと感じます」


 外見も印象も正反対のドワーフとエルフが、握手に関しては同じ事を言ったのがランスベルには少し可笑しかった。思わず浮かんだ笑みを誤魔化すように咳払いする。


「利き手を差し出すことで敵意がない事を示すのですが、おかしいでしょうか?」


 アンサーラは自身の右手を見て答えた。

「ああ、エルフはどちらの手も同じように使えるよう訓練するので利き手というものがありませんから」


 同じ理由でドワーフのギブリムも握手を奇妙に感じたのだろうか。ランスベルは聞いてみたくなった。


 アンサーラはギブリムに向き直ると、ランスベルに対してと同じように手を差し出した。だがギブリムはそれを無視してアンサーラの顔を睨みつけながら、「フードを取ってくれ」と言う。


 一瞬、躊躇ってからアンサーラはフードを首の後ろに落とした。夕暮れの風が〈盟約の丘〉を駆けあがり、ランスベルたちに吹き付ける。アンサーラのマントが風にはためき、その下の、腰までありそうな艶やかな漆黒の髪が見えた。


 ファランティア人にも黒髪の人はいる。だがアンサーラのそれはランスベルが見た事のある黒髪とは全く別のものだった。まさしく漆黒の髪というのが相応しい。夜の森の奥にある闇を編んで作られた滑らかな布のようだ。


 顔の左右から先の尖った耳が出ていて、さながら漆黒の川に浮かぶ小さな白い船のようである。前髪は切り揃えられ、眉は白い肌にインクで描いたように整っている。フードを外した彼女の瞳は銀色をしていた。さっきは金色に見えたのに、とランスベルは不思議に思った。


 ギブリムが呻くように言う。

「その漆黒の髪、金の瞳……アンサーラ、か」


「知り合いなのですか?」


 ランスベルはアンサーラから目を離せないままギブリムに問うたが返答は無い。代わりに答えたのはアンサーラだった。


「お会いするのは初めてだと思いますが、わたくしの事を知っておられるご様子ですね」


「俺は、ギブリム・バン・バスクスだ」


「ああ」

 ギブリムの言葉にアンサーラは美しい声で頷くと、差し出した手を引き寄せ、両手を胸に当てて会釈してから言葉を続けた。

「ギブリム氏族、バン家の方でしたか。ドルドス様はお元気でしょうか?」


「祖父は俺が幼い頃、入石した。二〇〇年ほど前だ」


 ギブリムが答えると、アンサーラは目を伏せた。その表情から感情は読み取れない。


「それは残念です……もう一度お会いしたかった」


「祖父の話はいい。それより、お前が〈盟約の者〉だと……デイエルフどもは承認したのか」


 ギブリムの問いに、アンサーラは頷いた。


「はい、間違いなく、わたくしが〈盟約の者〉です。証明できれば良いのですが、この世界にエルフはほとんど残っていませんし、少なくともこの大陸にはわたくし以外にエルフはいません」


 ギブリムは何も答えず、岩になってしまったように身動ぎしなくなり、アンサーラもじっと待っている。


 話についていけないランスベルはただ呆然としているしかなかった。ギブリムというのが一族の名前であって個人名ではない事と、アンサーラとギブリムの祖父に面識がある事はなんとなく分かる。そして二人とも、とんでもなく長寿である事も。


 ドワーフはだいたい三〇〇年から五〇〇年、エルフは一〇〇〇年以上の寿命があるとランスベルも知ってはいたが、おとぎ話や伝説のようなもので実感はない。だから本物のドワーフとエルフが目の前にいても、彼らの外見から人間の基準に当てはめてしまい、ギブリムは三〇代後半から五〇代くらい、アンサーラは二〇歳前後に見ていた。


 二人の本当の年齢は何歳なのだろうか――ランスベルには疑問だらけだ。


 しばらくしてギブリムは一言「わかった」とだけ言った。それを合図にアンサーラはランスベルに呼びかける。


「では、最後の誓約を始めましょう」


 立ち尽くしていたランスベルも我に返って、「はい」と返事すると背負い袋を下ろす。そして布に包んだ〈盟約の石版〉を取り出していると、アンサーラが丘の下を見ながら尋ねてきた。


「あの人たちは何者なのですか?」


 ランスベルが丘の下を見ると、辺りは暗くなってきたにも関わらず、まだオースヒルの人々がそこにいた。灯りを準備している者もいる。


「彼らはこの町の民です。僕たちが新たな〈盟約〉を結ぶと思っていて、それが自分達を守ってくれると期待しているのです」


「そうですか……わたくし達を恐れているのなら、早々に立ち去るべきですね」

 アンサーラはオースヒルの人々を見下ろしながらそう言った。


 〈盟約〉は、ファランティアの地からエルフとドワーフを退けるものだ。それは戦争を続けるエルフとドワーフが当時の人間にとって脅威だったからである。

 それから一〇〇〇年が経ち、今のファランティア人にとってはエルフもドワーフも昔話に出てくる架空の存在に過ぎない。こうして会話しているランスベル自身、まだ実感しきれていないくらいだ。エルフやドワーフへの恐怖など、今のファランティア人にはない。


「彼らが恐れているのはエルフでもドワーフでもなく、別の国の人間です。南のエルシア大陸からやってきたアルガン帝国が、この国に戦いを仕掛けているのです」


 石版を取り出して立ち上がると、アンサーラは少し驚いたような顔をして言った。


「わたくしも最近までエルシア大陸におりましたので、その辺りの事情も知っていますが……あなたは彼らの誤解を解こうとしなかったのですか?」


「それは……」


 痛いところを突かれて、ランスベルは言葉に詰まった。それを見て、アンサーラは、ふっと表情を和らげる。


「誤解しないでください。あなたを責めてはいません」


 黙っていたギブリムが唐突に口を開いた。

「まずは誓約を済ませよう」


 アンサーラも「ええ」と同意する。

「その後で、竜騎士殿の悩みについてお話を伺うとしましょう」


「えっ?」


 アンサーラの言葉にランスベルは不意を突かれた。ギブリムもそれを否定するつもりはないらしい。出会ったばかりで種族も違う彼女に、悩みがあると見抜かれたことにランスベルは驚きを隠せなかった。


「〈盟約の石版〉を」


 アンサーラに促され、動揺していたランスベルは慌てて〈盟約の石版〉を水平にする。右側にギブリムが、左側にアンサーラが立つ。石版に刻まれた絵と同じ立ち位置だ。二人は石版に手を置いた。


 ギブリムがドワーフ語で誓約の言葉を口にする。

「ガドラナダン ガンダールノバレーク ラスガンダーバレオドゥム ガンダーレンドオドゥオム……」


 ギブリムが言い終えると、続いてアンサーラがエルフ語で誓約の言葉を口にした。

「エイライレン エイラシーリンレイヤーン エファンターシュムウルトュリーシートゥ シェーラスフォーシャン……」


 どちらの言葉もランスベルは理解できなかったが、それは問題ないと聞いている。最後に自分の番が来てランスベルは緊張したが心配無用だった。まるで息を吐くように、自然と竜語が口から流れ出る。


『我、〈竜珠ドラゴンオーブ〉の運び手たる最後の竜騎士、誓約を聞き届けたり。最後の誓約によって〈盟約〉果たされし時、ドラゴンは大いなる力を持ってあらゆる願いに応えるであろう』


 腰の〈竜珠ドラゴンオーブ〉が反応して、力が流れ込んでくるのをランスベルは感じた。それは腕を伝って〈盟約の石版〉へと流れ込み、そこに新たな文字を刻んでいく。言葉が刻み終わるのを三人は黙って見届けた。


「これで完了でしょうか?」

 ランスベルはそう言って、二人の顔を見た。


「おそらく、そうでしょう」と、アンサーラ。

 ギブリムも「うむ」と頷く。


 ランスベルは急に恥ずかしくなった。考えてみれば竜語魔法に関わることなのだから、ランスベルが知らないことを二人が知っているはずがない。もっと竜騎士らしく振舞わねば、とランスベルは自戒した。


 〈盟約の丘〉で、エルフとドワーフの〈盟約の者〉と会い、その導きに従って〈竜珠ドラゴンオーブ〉を〈竜の聖域〉まで届ける――簡単に言えば最後の竜騎士に課せられた使命とはそれだけのことだ。


 ランスベルが〈盟約の石版〉を再び荷物に入れるのを待って、アンサーラが言った。


「さて、それでは竜騎士殿のお心を悩ませる問題について、お話を伺いましょうか」


 周囲は暗くなり、夜の闇に包まれようとしている。そして、アンサーラの銀色の瞳が徐々に金色へと変わっていくのをランスベルは見た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る