10.マイラ ―盟約暦1006年、秋、第6週―

 秋の冷たい夜風も気にせず、マイラは東棟二階にある自室の窓を全開にしてその前に立っていた。目の前の城壁が、月明かりを鈍く反射している。


 ベッドの上には荷物が散乱していて、大きな鞄は口を開けたまま床の上だ。荷物の整理は全く進んでいなかった。


 戦争が始まり、侍女たちにも実家に戻るか城に残るかという選択肢が与えられたが、本人が選択するよりも親に呼び戻されるという場合のほうが多かった。マイラも両親へ手紙を送ったが、まだ返事はない。しかし戻ってくるよう言われるのは目に見えている。両親を不安にさせる理由もないので、荷物を整理していたのだが、どういうわけか手が止まってしまう。


 ニクラスは明日から料理だけでなく、武器の扱いも練習させられるとぼやいていた。タニアやウィルマは城に残ると聞いている。自分だけ戻るのが気に入らないという事ではない。実家に戻る城勤めの人は多い。マイラが特別というわけではない。


(それに、私が居ても仕方ないし……ブラウスクニース様は逝ってしまわれた。竜舎を担当できる特別な侍女では無くなってしまったのだから)


 自然と竜舎のほうを見る。月光の下で、赤い屋根が茶色っぽく見える。まるで主を失って、竜舎もしょぼくれてしまったかのようだ。


 しばらくそうしていると、月明かりの下、人馬の影が伸びてくるのにマイラは気付いた。それがランスベルだと分かるのに時間はかからなかった。


 ランスベルが旅立つ時が来たのだ。おそらくこの城で唯一、マイラだけがその事を知っていた。


 ブラウスクニースの訃報を告げられたあの朝以来、ランスベルとはずっと話していない。今、呼び止めなかったらもう話す機会はない――それを知っていても、マイラの身体は部屋を飛び出して階段を駆け下りて行こうとはしなかった。月明かりの中をゆっくりと進んでくるランスベルを黙って見守るだけだ。


 ランスベルのほうもマイラの視線に気が付いたようで、顔をこちらに向けた。そして馬を少し早く進ませて窓の下まで来ると、はっきりとマイラを見上げる。ランスベルの思惑が分からず、胸が高鳴り、マイラは慌てた。自分以外いないのに、左右をきょろきょろしてしまう。


 ランスベルはマイラが気付いてないと思ったのか、手を振って、それから下に来るよう手招きした。


「え、私ですか?」と、自分を指差しながら思わず声に出して言う。

 うんうん、とランスベルは頷いた。


 その後のマイラの動きは素早かった。


 部屋に灯した明かりの下で素早く鏡を覗き込み、できるだけ髪を整えると部屋を飛び出す。階段を駆け下りながら服のしわを伸ばして最後の数段を飛び降り、そのままの勢いで扉を開けて外に出た。


 扉の外でランスベルは馬を下りて待っていた。


 妄想の中のマイラであったなら、このままランスベルの胸に飛び込んだであろう。そして彼女を受け止めてランスベルは、月光の下でくるくると回転しただろう――しかし現実のマイラは、扉を出たところで立ち止まり、おずおずと進み出るだけだった。


「王都を出る前に会えて良かった。マイラさんが顔を出していないかなと思って見てみたら、そうしていたので驚きました」


 ランスベルの言葉に、マイラは顔が紅潮するのを感じた。竜舎を毎晩凝視していると思われたかもしれない。しかも、それほど間違ってもいない。


「いろいろ助けていただいてありがとうございました。マイラさんにはお礼を言っておかなければと思っていたんです」


「えっ、私、何もしてません……」


 ランスベルは首を左右に振った。

「そんな事ありません。何度も助けていただきました」


 いつの事を言っているのか、マイラには全く分からない。一覧表にして渡して欲しい。


「それで、竜舎の本棚にある書物なのですが、マイラさんに差し上げます。もし不要なら図書館に寄贈していただければと思うのですが、面倒でしょうか?」


「全然、面倒じゃないです!」


 ランスベルからの申し出を断るようなことは、世界が滅ぶとしてもマイラにはできない。しかし、即答してしまってからマイラは気付いた。


「でもあれって……すごく価値ある本のような気がするんですが、いいんですか?」


 驚きのあまり少し友達口調になってしまったが、ランスベルは気にした様子もなく頷いた。


「はい。マイラさん、いつもあそこの本を読みに来ていたから……竜騎士の歴史にすごい興味あるんだなあと。せっかくなら、そういう方に託したいのです」


 それは口実で――マイラは心の中で白状した。竜騎士の歴史じゃなくて、あなたに興味があったから。


 もしかしてランスベルはそこまで見抜いた上で、こんな話をしているのではないかとマイラは疑った。もしそうなら、これほど恥ずかしい思いをしたのは人生で初めてだ。そしてこれ以上はもうないだろう。


「ありがとうございます。大切に読みます!」

 マイラは腰を折って頭を下げた。赤くなった顔を見られないように。


「だいぶ冷えてきましたし、もうお部屋に戻られたほうがいいでしょう。僕も、もう行きます」


 そう言ってランスベルは馬の鞍に手をかけた。


(行ってしまわれる)

 その時、マイラはブラウスクニースの言葉を思い出していた。


『わしの死後、ランスベルは旅に出る。そして戻ってこない。気持ちを伝えるなら、早く伝えておくことだ。秘めた思いは後悔になり、心に重く残るぞ』


 なぜそんな事を私なんかに、マイラが問うとブラウスクニースは『わしも女だからな』と言って、たぶん笑った。


 マイラは言うべきかどうか迷った。


 一度だけ、ブラウスクニース様と話した事があるんですよ――と。


 あなたが帰って来ないと知っているんですよ――と。


 私、あなたの事が好きです――と。


 しかし結局、マイラの口から出たのはありきたりな言葉だった。

「あ、あの、どちらかに行かれるのですか?」


「はい、少し遠く……ファランティアの外まで行きます」

 再び馬上の人となったランスベルが夜空を背負って、そう答える。


「戻って……来ますよね?」

 マイラは願望を込めて言った。ランスベルは沈黙してしまう。

「あの……困らせてしまったらごめんなさい。その、戻って来るんですよね……?」


 ランスベルは嘘をつきたくないのだとマイラは思った。でも全知全能のドラゴンだって、間違う事があるかもしれない。だからランスベルの口から「戻ってくる」と聞きたかった。


 ランスベルは沈黙したままで、そしてマイラがもう諦めようと思う頃になってついに口を開いた。


「……はい。戻ってきます」


 それでマイラは反射的に言葉を返した。

「私、ここにいます。だから、また、です」


 月下のランスベルは困ったような笑みを浮かべて言った。

「さようなら、マイラさん。また、です」


 そして、彼は去って行った。姿が見えなくなるまで、マイラはその背中を見送った。


 マイラが部屋に戻ると、タニアが戻って来ていた。ちょうど部屋着に着替えたところのようだ。タニアは少し怒ったように言う。


「もう、部屋にいないから心配したよ。うろうろしてると厄介事に巻き込まれるよ?」


 友人の姿を見た途端に視界が涙で揺らいだ。どうして、嫌だ、とマイラは堪えようとしたが無理だった。あふれ出た涙は止めようがなく、肩を揺らして泣き出してしまう。


「どうしたの!?」


 タニアは驚きの声をあげて駆け寄ると、マイラを抱擁した。優しくされた事でマイラの感情の堰は決壊し、声を上げて泣き崩れてしまった。


「何かあった?」


 タニアはマイラの顔を覗き込もうとしたが、泣き顔を見られるのは嫌なので、彼女の肩に額を押し付けて顔を見られまいとする。タニアはそれに気付いて再び強く抱擁し、耳元で優しく囁いた。


「戦争が怖いのね、マイラ……死ぬのも痛いのも怖いもんね。でも大丈夫、すぐに終わるよ」


 違うの、ランスベル様が行ってしまったの、とマイラは言いたかったが声にならず、ただ涙と嗚咽が止め処なくあふれ出るだけだった。

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