9.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第6週―

 ランスベルは最後に、壁に飾られた〈盟約の石版〉を外すと、布で包んで背負い袋に入れた。部屋はすっかり片付き、持って行く荷物はまとまっている。


 パーヴェルが残してくれた宝石を換金して買った馬にも、荷物を乗せた。旅立ちの準備は万全である。最後の竜騎士として〈盟約〉を果たすため、一〇年間を過ごした竜舎から旅立つ日がきたのだ。


 何事もなかったなら、竜騎士の鎧は分解して荷物に入れたかもしれない。だが、魔術師の襲撃やアルガン帝国軍の侵攻もあって身に着けて行く事にした。風雨を防ぐためのフード付き外套クロークは、ベッドの上に置いてある。まだ昼間の陽気は厚手の外套クロークを身に着けるには暖かすぎた。パーヴェルから受け継いだ竜剣ドラゴンソードは腰に下げるには大きすぎるので、背中に吊るしてある。


 竜舎も片付けて綺麗に掃除し終えている。そこにある家具や生活用品は、ほとんどが元からあったもので竜騎士の持ち物ではない。だから綺麗にして返すのが当たり前だというのがランスベルの常識である。


 竜騎士が使う特殊な道具や装備は、竜砦ドラゴンキープという竜騎士たちの拠点だった場所ごと海底へと沈んでしまったので、この竜舎にあるものはパーヴェルがランスベルのために用意した僅かな品だけだ。さらにランスベル個人の持ち物となると、自分でも驚くほど少なかった。ほんの数冊の本しかない。


 竜舎で過ごした一〇年間は竜騎士の訓練にほとんど全ての時間が費やされた。初めて王都を歩いた日、大きな書店や図書館に興奮したのを覚えているが、それらに入り浸る時間はなく、許されもしなかった。


 パーヴェルの訓練は想像以上に厳しく、自分の選択を後悔した夜は数え切れない。もしブラウスクニースがいなければ耐えられなかっただろう。ある時は夢の世界で共に空を飛び、冒険した。ある時は過去のドラゴンと竜騎士たちの物語を語ってくれた。物語は数え切れないほどあって、同じ話を聞いたことは一度も無く、ランスベルは全てを覚えているわけではない。それでもドラゴンと竜騎士の物語の、ほんの一部にしか過ぎなかったであろう。


 しかし過去のドラゴンと竜騎士たちに想いを馳せるのは、ランスベルにとって辛い訓練を少しの間忘れさせてくれる大切な時間だった。今にして思えば、ブラウスクニースはそんな話をしながらランスベルに最後の竜騎士とは何かを教えていたのかもしれない。


 ランスベルは本棚から自分の本を抜き取ってテーブルの上に積んだ。本棚には他に、竜騎士に関する記録や歴史について書かれた本が収まっている。本当に秘密にしなければならないような事は書かれていないので処分する必要はないし、価値あるものなので、図書館に寄贈してもらうよう誰かに頼むつもりでいた。その時にランスベルの買った本が混じっているのは良くない。


 テーブルに詰まれた本の、一番上の表紙を手でなぞる。ランスベルが好きだった冒険物語の一冊だ。懐かしい気分になったが、それは本の中の世界と物語を愛したランスベル少年の残滓に過ぎない。ランスベル・オーダムという少年はもうここにはいないのだ。


 開いた窓から鍛冶場の作業音が聞こえ始め、ランスベルは窓から外を見下ろした。崩壊した鍛冶場の再建作業は、ランスベルも手伝ってこの一週間でだいぶ進んだ。建屋は完成し、内部を修復する段階に入っている。鍛冶場には左官職人などの他に、新たに雇い入れられた鍛冶職人たちも作業していて、その中を二人の衛兵と近衛騎士が見回っていた。昨晩、投獄されていたエリオ・テッサヴィーレが看守を殺して逃走するという事件があったためだ。


 その事件にしても戦争にしても、〈竜珠ドラゴンオーブ〉の力を持つランスベルにできることは多い。しかしランスベルが積極的に関わることは禁じられていた。竜騎士は人間同士の争いに関わってはならないのだ。


 窓を閉めようと戸に手をかけたところで、大塔グレートタワーのほうから赤毛の女性が歩いてくるのが見えた。雲ひとつ無い秋晴れの強い日差しの中で、その髪は燃え上がる炎のようだ。


 ランスベルは窓を閉め、アリッサを出迎えるために塔を下りた。

 竜舎を訪ねてきたアリッサはランスベルの旅装を見て驚いた様子だ。


「どこか行くの?」


「はい。でも、話す時間はまだあります」と、ランスベルは答えた。


 アリッサは〝私的な話をするのではない〟という顔つきになって言った。


「ランスベル卿、テイアラン陛下が貴卿にお伝えせねばならない事があるということです。会議室に来ていただけます?」


「はい。僕のほうも、ご挨拶に伺おうと思っていたところでした。今日も会議なのですね」


 アリッサは表情を緩めて答える。

「ええ、あなたも知っているでしょうけど、昨晩の事件やら色々とあってね……」

 そう言いながら、ほつれた赤毛を耳の後ろにやる。


 テイアランの護衛として付いているアリッサは、テイアラン以上に休めていないのだろう――と、ランスベルは考えて気付いた。


「陛下から離れても大丈夫なのですか?」


「少しの間なら大丈夫よ。転移テレポート能力を持つ〈選ばれし者〉と言っても視界の外には焦点具フォーカスがなければ転移テレポートできないし、それにドンドンがいてくれるから」


 気弱そうな目をした太った少年を思い浮かべ、ずいぶん信頼しているのだなとランスベルは思った。


「ドンドン君はそんなに強力な魔術師なんですか?」


 アリッサは躊躇いがちに答える。


「あまり公言したくないのだけれど……ドンドンは〈暴食に選ばれし者〉で、彼の周囲では全ての魔力が食われてしまう。魔術に対しては無敵なのよ」


 あの少年にそんな力があるとは思っておらず、ランスベルは驚いた。

「それは……すごいですね」


「そうね、すごいけど……でもあの子はそんな力を望んでない。魔術師のほとんどは望んで力を得るけど、〈選ばれし者〉は本人の意志と関係なく魔力通路が開くの。ドンドンの場合は、生まれた瞬間に力を発揮したと聞いているわ。そして、その力を制御しなければ魔力以外のものも――」


 アリッサは言葉を切った。その表情には悲しみと哀れみが見て取れる。


「せめて、あの子が普通に一生を終えるまで〈盟約〉の力に守って欲しかった……」


 ランスベルはなんと言うべきか分からず、ただ「残念です」とだけ言った。アリッサは悲しげに頷いて、それから気持ちを切り替えるように髪をかき上げた。


「さて、それじゃあ行きましょうか」


 二人は竜舎を離れて歩き出した。

「それにしても、わざわざアリッサさんが呼びに来なくても良かったんじゃないですか」


「実は、もう一つ個人的に聞きたいことがあって……ランスベル、あの夜、襲ってきた魔術師の顔を見た? 髪の色とか目の色とか……」


 そう問われて、ランスベルは記憶を探った。


「うーん……いえ、はっきりとは見ていません。こう、目元を覆うような覆面をしていましたし、フードも被っていて……」


 ランスベルは手で目の辺りを覆って見せた。


「そう……分かったわ。ありがとう」


「何か気になることがあるのですか?」


「いえ、いいのよ。忘れてちょうだい」


 そう言われてしまってはしつこく問うわけにもいかない。ランスベルは釈然としないものを感じたが、話はそこで終わり、二人は会議室まで黙って歩いた。道中アリッサを盗み見たが、彼女は何か考え事をしているようだった。


 会議室に入ると、そこにはいつもの顔ぶれが揃っている。テイアラン、ステンタール、モーリッツ、ハイマン、コーディー、それにドンドンである。ドンドン以外の全員が平静を装っているものの、そこには疲労が見て取れた。


「ランスベル卿をお連れしました」


 アリッサはそう言って道を空ける。ランスベルは一歩進み出て、会釈した。


「お呼びでしょうか、陛下」


「ランスベル卿、その服装、王都を出られるのか?」


 テイアランはランスベルの格好を見てすぐにそう言った。機会を得たと思い、先に自分の用件を話すことにした。


「はい、陛下。陛下には先代の金竜騎士パーヴェルの頃より、ブラウスクニース共々わたくしどもに竜舎を提供して下さり大変感謝しております。理由を秘密にせねばならぬ事は心苦しく思うのですが、わたくしは最後の竜騎士として旅立たねばなりません。今日までありがとうございました」


 言い切って、ランスベルは深く頭を下げた。

 顔を上げると、先に話していたアリッサを含めて全員が驚いたような顔をしている。


「まるでもう戻らぬような言い方ですが……」と、モーリッツが言った。


 ランスベルは意識して口を結び、無言を答えとした。そんな彼にハイマンが問う。


「これから本格的に戦いが始まるというのに……今でなくてはならない事なのですか?」


 戦力として期待されているのを感じていたので、将軍の言いたい事は分かる。ランスベルははっきりと答えた。


「はい。本来であればもっと早くお話すべきでしたが、申し訳ありません」


 渋面のステンタールがハイマンに同調するように言った。


「ランスベル卿ご自身、先ほど申しておりましたが、テイアラン陛下にはご恩を受けたはず。この王国の危機に、それを少しでも返してから、とは考えないのですか」


 できれば快く旅立ちを認めて欲しかったが――仕方ない。渋々答える。


「わたくしのような若輩者が生意気を、と思われるかもしれません。しかし竜騎士とは本来、人とドラゴンの中間にある者であり、人にもドラゴンにも属しません。かつての竜騎士戦争以降、人間同士の争いには関与せず、という事で議論は決着しております」


 この言葉はパーヴェルが用意していたものだが、ランスベルも竜騎士の在り方を意識するために何度も心の中で繰り返し、暗記していた。


「くっ……」とステンタールは声を漏らし、それから続ける。


「ランスベル卿も知らぬ事でしょうが、アルガン帝国にも魔術師がいると分かったのです。先日の襲撃も帝国の魔術師でしたが、あなたは見事に撃退した。魔術師に対抗できる戦力として、あなたを唯一信頼できる方だと思っていたのですよ!?」


 ランスベルは努めて冷静に言い返す。


「もし戦ったのが私ではなく、アリッサ殿なら鍛冶場を壊すこともなく対処できていたでしょう。アリッサ殿の支援を受けたファランティアの騎士なら対抗できます」


「まさか――帝国の魔術師だと知っていた?」


 ステンタールが目を見開く。ランスベルが頷くと、〈王の騎士〉はそのまま絶句した。


 最後に、黙ってやり取りを聞いていたテイアランが呟くように言う。

「ランスベル卿は、ファランティアの民を見捨てると言うのか……」

 その言葉がランスベルの胸にぐさりと突き刺さる。


 僕だってこんな時に帝国が攻めてくるなんて思ってなかったさ――と言いたかった。ブラウスクニースを看取り、埋葬して、王都から旅立ち〈竜の聖域〉を目指す。迷い無くそうできるようにと心の準備をしてきたのに。何も知らないくせに好き勝手を言うなと叫びたかった。


 しかしランスベルは喚くかわりに拳をぐっと握った。パーヴェルの言葉が思い出される。


 〝〈竜珠ドラゴンオーブ〉や〈竜の聖域〉のことを知れば、人間は間違いなくそれに頼ろうとするだろう。彼らはドラゴンに守られているだけだという状況に疑問を感じてもいない。一〇〇〇年の間、守護を続けてきたドラゴン達の想いを理解していないのだ〟


 部屋の隅にいるドンドンが、室内の険悪な雰囲気を感じたのか不安げな顔でアリッサを見上げる。アリッサは微笑みを返し、ドンドンの肩にそっと手を置く。


 〝せめて、あの子が普通に一生を終えるまで盟約の力に守って欲しかった……〟


 そのアリッサの言葉には、人間の力ではどうにもできない事に対しての、すがりつくような想いが含まれていた。それを求めてファランティアに来るには苦労もあっただろうし、大きな代償を払ったはずなのだ。だがファランティア人は、何世代にも渡って守護を当たり前のものとしてきた。


 パーヴェルはこうも言っていた。


 〝盟約は一〇〇年、いや五〇年で良かったかもしれない。ドラゴンは人間の寿命の短さを理解できていなかった〟


 ランスベルはゆっくりと息を吐き、そして自分を殺して言った。

「ドラゴンはファランティアを去りました。だから竜騎士も去るのです」


 もはや誰も何も言わなかったので、話は終わったと思いランスベルは頭を下げた。そして背を向けようとした時になって、モーリッツがいつもの口調で呼び止める。


「お待ちください、ランスベル卿。最後に一つだけ、どうしてもお伝えしなければならない事があるのです」


 そう言えば相手の用件を聞いていなかった、とランスベルは振り返った。

「なんでしょうか」


「現在、王国中の騎士に対して召集をかけているのですが、ホワイトハーバーからは何も音沙汰がありません。まさか、と思われるでしょうけれど、ホワイトハーバーは帝国軍に占領されています。帝国軍は町の実質的な領主、すなわち四大商家の当主を人質として、彼らを解放して欲しければ竜騎士ランスベル卿を寄越せと要求しています」


 ゆっくりと、ランスベルが理解するのを待つようにモーリッツは話し、そして一呼吸置いて続ける。


「……もちろん、人質にはご実家のオーダム家当主ガスアドさんも含まれています。まあ、竜騎士のランスベル卿には、もう関係のない話かもしれませんけれども……こちらに帝国軍からの要求が書かれた書状があります。それと、こちらはガスアドさんからランスベル卿宛の手紙です。申し訳ございませんが、内容は読ませていただきました。このような状況ですので、ご了承くださいませ」


 ふっくらしたモーリッツの手が、すっと二通の書状を差し出した。


 ランスベルは二通の書状に目を留めたまま、その場に立ち尽くしてしまった。そして震える手を書状に伸ばす。その表情は、さきほど毅然と旅立ちを告げた竜騎士のものではなく、ランスベル・オーダムのものだった。

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