8.エリオ ―盟約暦1006年、秋、第5週―

 エリオはレッドドラゴン城の地下牢で横になり、天井を眺めていた。床の上に直接敷いた古い毛布は、石の床の冷たさを和らげてくれたが、寝心地が良いとはとても言えない。一応、寝床として使うように藁が敷かれていたのだが、湿っていて臭いうえに虫だらけだったので、今はその反対側に避難している。


 テッサ城の自室にあるベッドと比べたら最悪と言ってもいい。だが、幼少期を過ごした魚臭い泥の上よりはずっとましだった。


 全部で四つの牢があるらしいこの地下牢に収監されているのはエリオ一人のようだ。耳をすませても、ネズミや虫の這い回る音くらいで、人間の気配は感じられない。かすかに漂う死臭はネズミのものか、はるか昔に収監され忘れられた人々のものか。


 ここにエリオを放り込んだ騎士たちが牢の横に松明をかけてくれたので、暗闇に取り残されずにいられるのは幸いだった。迎賓館から連れ出された後も目隠しなどされなかったので、この地下牢が大塔グレートタワーの下だということも分かっている。


 しかし、この後どうなるかまでは分からない。拷問されるのは嫌なので、知っている事は全部話してしまうつもりでいる。


(もし殺されそうになったら、そんな事をすれば帝国の思う壺だぞ、とでも言ってみよう)


 迎賓館から出る寸前に聞こえた〝奇襲〟という言葉で、エリオにはだいたいの状況が想像できていた。


 〈魔獣の森〉の東部には、密かに帝国軍の野営基地が建設されている。通称は〈森の小屋〉だ。ファランティアに向かう帝国人は、その存在を口外せぬよう命じられていた。人の口に完全に蓋をすることはできないから、いずれどこかから洩れるだろうが、おおっぴらにすることもないという判断だろう。実際、それが〝奇襲〟の役に立ったわけだ。


 テッサ城の執務室で読んだ書簡には、アルガン帝国がファランティア併合を目指す事と、ドラゴンの葬儀に皇帝の代理人を送る事、そして最初の計画について書かれていた。


 概要は、〈森の小屋〉からサウスキープという町に攻撃を仕掛け、それに連動してホワイトハーバーの港を封鎖する、というものだ。


 執政官は現地軍の最高司令官でもあるので、ホワイトハーバーの封鎖はロランドに一任されていたが、〈森の小屋〉からの攻撃はアルガン帝国のマクシミリアン将軍が行うとなっていた。


 作戦開始の初動は〈森の小屋〉からの攻撃なので、実質的な指揮権はマクシミリアンが握っていると言っていいだろう。葬儀の代理人の件といい、ロランドの忠誠心がその手腕ほどには信用されていないことが分かる。


 ドラゴンの葬儀に皇帝の代理人として出席する――となればロランド本人は計画を実行しなければならないので無理としても、ロランドに次ぐ地位の人間あるいはロランドが重用している人間を送らねばならない。


 だがこの代理人は生きて戻ることがない、というのが帝国の筋書きだったのだろう。おそらく帝国内では、この代理人は宣戦布告の使者か同盟交渉の使者という事になっているのではないだろうか。


 つまりサウスキープへの攻撃は奇襲ではなく、宣戦布告の上での軍事行動という事になる。あるいはファランティア側が使者を殺した報復行動でもいい。いずれにせよ、ファランティアへの奇襲と同時にロランドの力を削ぐことができる。


 以降の動きについては記されていなかったので、エリオが知っていて、想像できるのはこの程度である。今頃はロランドの手元に次の計画があるのだろうが、知る術がない。


 エリオは立ち上がると、袖の裏や襟の後ろ、靴底などから色々な角度に曲がった細い小さな棒を取り出した。ここに放り込まれる時に見つからなくて良かったと思いながら、それらを組み合わせて牢の鍵を調べる。エリオの技量で開ける事ができそうだ。


 次にエリオは牢の中を見回して、錠前破りの道具をいくつかに分けて隠すことにした。


 一つは元の場所、つまり服の中に。それから臭い藁の中。もう一箇所、隠し場所を探していると、部屋の隅の壁に出来た亀裂に目が行った。ネズミの巣かもしれないので、うかつに指を突っ込んで噛み付かれたくはない。そこに隠すのは止めて、毛布の端のほつれた部分から中に隠した。壁を背にして毛布の上に座り、他にできることはないかと考える。


 最後にロランドと交わした言葉を思い出すと、ロランドはエリオが〝殺された使者〟として使われることを予測していた節もあった。


(だったら教えといてよ、陛下……)


 エリオは冗談めかして心の中でそう言い、ため息をついてから、目線を上げた。さっき見つけた、部屋の隅の亀裂が見える。


 昔、テッサ城の地下牢にあった亀裂に形がそっくりだな――と、エリオは思った。そのまま当時の思い出に心を捕らわれそうになったので、慌てて目を逸らす。楽しい思い出ではないのに、ふとした隙に思い出そうとしてしまう。その理由はエリオ自身にも分からなかった。壁の亀裂に背を向けるようにして再び横になり、これからの計画について考えを巡らせる。


 しばらくして、人の気配がしたのでエリオは起き上がった。地下牢の鉄格子から出入口のほうを見ると、松明を持った大きな影がのっそりと歩いてくる。その人物の声が地下牢に響いた。


「よう、あまり良い部屋じゃないようだな」


「これはこれはブラン王。なぜこのような場所に?」


 ブランが供も連れずに一人で地下牢へ来た事に、驚きつつも興味を持って、エリオはうやうやしく頭を下げた。


「今はブラン上位王だ。俺が北方を統一した」


「それは……大変なことですね」


 エリオは北方の歴史に詳しいわけではないが、それでもかなりの大事だというのは分かる。


「のんびり話してる時間はないんだ、エリオよ。俺たちは明日にも王都を出て、北方へ戻る。お前も一緒に来るか?」


 ますます興味を惹かれて、エリオは聞き返した。

「本気ですか。どうやって?」


「本気だ。エリオ・テッサヴィーレはここで死に、俺の供が一人増える。お前はあまり北方人に見えんが、兜で顔を隠せば誤魔化せる」


(似たようなことを考えるものだ。やはりブランはただの猪ではない)


 エリオは真剣な表情で、一度だけ正直に答えた。

「一緒には行けません」


「ここに残れば、帝国の暗殺者に殺されるぞ。お前が死んでいたほうが、より大義名分が立つからな」


「心配してくださるのですか?」


 ブランは大きな肩を落として、ため息をついた。

「ロランドのためか? それなら俺と来るべきだぞ」


「まさか。レスター皇帝陛下のためです」


 これは嘘だ。ブランは松明の光に照らされて赤と黒の二色に見える髪をがしがしと掻く。


「ちっ、どいつもこいつも……」

 そしてマントをひるがえして背を向け、「さらばだ」と言って去った。


 さてと――とエリオは再び毛布の上に座り、冷たい石壁に背を預けた。


 ブランの出現は意外だったが、たぶん次に来るやつは殺しが目的だろう。生き延びられる自信があるとは言えないが、精一杯やるしかない。


 命の危機に際してもエリオは冷静だった。その理由をあまり深く考えたことはない。分かったところで意味があるとも思えないから考えるだけ時間の無駄だ。考えるべきことは他にたくさんある。どんな時にも。エリオは居場所を変えることにした。


 エリオが奥の暗がりに移動してから、しばらく経った。松明の火勢は弱まり、もう日付は変わっただろうという頃になって異変は起こった。

「なんだお前、ここは――ぎゃっ」という声、そして人間が倒れる音。


 この暗殺者はだいぶ雑な仕事をするようだ。看守に声を出させるなんて――だが、そのおかげで心構えができた。ひたひたという足音が地下牢の中を歩いてくる。エリオは暗がりでじっと身を潜め、気配を消した。


 侵入者が牢の前まで来たので、松明に照らされてその姿が暗闇に浮かび上がる。黒い布で目から下を覆い、頭巾を被って顔を隠している。裾がくるぶしの上までしかないズボンを履いている他に身に着けているものはなく、裸足だ。手には幅広の短刀を持っている。


 変な格好だな、とエリオは思った。正体を隠したいのは分かるが、普通は見咎められても変に思われない服装をするものだ。例えばこの城で働く人間の服装とか、看守の服を盗むとか。


 素人なのかとエリオは疑ったが、これから人を殺すというわりに緊張した様子が無いので殺しには慣れているようだ。筋肉質な背中には汗一つかいていないし、呼吸も平静だ。


 侵入者は看守から奪ったのか、鍵を取り出すとエリオの牢を開けた。錆び付いた格子戸がひどい音を立てる。格子戸を押し開いた侵入者はすぐに入ろうとはせず、隅の暗がりを見つめている。


 エリオが迷ったのは一瞬だった。松明の光が届かない地下牢の通路の奥から、足音も気配もなく進み出る。侵入者は、さっきまでエリオが入っていた牢の中をまだ見ていた。部屋の隅に人間がいるように見せようと、藁を積み上げて毛布を掛けたのだが、藁が足りずあまり上手く出来ていなかった。それで見抜かれたのか、侵入者がふいにエリオのほうを向いた。


 エリオは走った。相手の表情は読めないが、全身が一瞬硬直したので驚いたのだろう。だがすぐにエリオへと身体を向け、通路をふさぐように立つ。


(やはり戦い慣れている)

 そう思いつつ、エリオは言った。


「帝国が俺を裏切っても、俺は帝国を裏切るつもりはない。お前の言い値を払うから、俺が死んだ事にしてくれないか。そうすればお互いに困らないだろ」


 エリオは帝国語で話しかけたが、返事はなかった。侵入者はじりじりと足の位置を変えながら前に出てくる。


「黙って仕事するタイプか。嫌いじゃない。だがその格好については少し忠告したい――」


 侵入者の短刀が閃き、エリオはそれ以上話せなかった。後ろに飛び退り、短刀が空を切る。エリオは追撃に備えて身構えたが、侵入者はむやみに突きかかってこない。通路をふさいでさえいればエリオは逃げられないと分かっているのだろう。


「仲良くなれるかと思ったけど、おしゃべりするつもりはないようだな。わかったよ。皇帝陛下万歳」


 言い終わるかどうかというタイミングで、エリオは鍵開けに使った小さな棒を指で弾き、男の左目を狙った。男は空いている左手を横に払う。飛んで来るピンを弾こうとしたのか、通路をふさごうとしたのかは分からない。ほぼ同時に、エリオは素早く、その腕の下を潜り抜けて男の背後に回った。背中で短刀が振り下ろされる音がしたが、痛みはない。そのまま出入口を目指して走る。


 男は追いかけてくるが、エリオの足は速い。ぐんぐん看守のいる部屋が近づいてきた。ランタンの明かりの中、椅子にいるはずの看守は床の血溜まりに横たわっていた。腕に切り傷があり、身を守ろうとしたのが分かる。致命傷は一目瞭然で、胸に突き立った短剣だ。


 エリオは看守部屋に飛び込むと、机に立てかけられたままの小剣スモールソードを抜き放って振り返った。細身で刀身が短めの扱いやすい剣だ。男は慌てて立ち止まり、短刀を構える。その肩が上下している。


(今度は俺が黙って仕事をする番だな)


 エリオは小剣スモールソードで突きかかったが、相手の男は思ったよりずっと手強かった。エリオは剣術も器用にこなし、動きは人並み外れて素早いが、短刀一本の男を相手になかなか隙を見出せない。


 男はエリオの剣を短刀で力任せに打ち落とし、エリオの体勢を崩そうと狙っている。そうなれば、長い腕を伸ばしてエリオを掴み、後はどうにでもできると考えているのかもしれない。


 それが分かれば、後は難しくなかった。フェイントの突きに引っかかった男の短刀を、剣先をさっと下げて空振りさせつつ、腕の内側に回りこませて短刀を持つ右手首を切り裂く。パッと血が飛び散り、男は苦痛の声を上げて短刀を手放した。


 短刀が床に落ちるより早く、エリオは前に飛び出して、相手の喉を一突きする。男は看守と同じく、血溜まりに倒れた。


 エリオは念のため男の覆面を剥いで顔を見たが知らない男だった。それどころか、顔立ちは北方人のものだ。以前から潜入していた帝国の密偵という可能性はある。だが別の可能性がエリオの脳裏に閃いた。


 話しかけても答えなかったのではなく、答えられなかったのではないか。帝国語が理解できなかったのではないか――しかし今はその事について考えている場合ではない。


 この男に用意された言い訳は、脱走を図ったエリオを看守と二人で止めようとしたが看守は殺されてしまった、とかそんなところだろうが、今ここにはエリオではない見知らぬ男と看守が死んでいる。男の体格はエリオと違いすぎて身代わりにもできないし、誰かを呼んで正直に話しても信じてもらえるわけがない。


 逃げるしかない、とエリオは決断した。看守の身体と部屋の中を手早く探り、鍵や役に立ちそうなものを取ると、上階への階段を忍び足で上って行った。

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