1.ロクス ―盟約暦1006年、秋、第5週―
「んじゃあ、行ってくるよ」
ロクスは、すっかり薄くなってしまった頭頂部の毛髪を撫でつけながら言った。
「はあい」
妻のサラは、振り返りもせずに台所から返事をした。
二〇歳も年下の若い妻はロクスと違い、まだ髪も艶やかで、太ってもいない。美人と評判の彼女と結婚した事を、皆が羨んでいるのをロクスは密かに嬉しく思っている。
彼女がなぜロクスのような冴えない男と結婚してくれたのかは、彼自身にも謎だ。駄目で元々、と覚悟して求婚したところ、あっさり承諾してくれたのだった。
居間にある暖炉の前では娘のララが、木炭で何か落書きをしている。去年の冬に死んだロクスの母、つまりララの祖母の部屋を与えたのだが、幼い娘は居間にいることを好んだ。理由を聞いても、ララはまだ明確な答えを返せない。
まだ、ばあさんの気配みたいなものが残っているのかもな――と、ロクスは思っている。
年の数だけ、あらゆることに鈍感になっていくのが人間というものだ。四〇歳を過ぎた自分には感じ取れない〝何か〟を、ララは感じ取っているのかもしれない。
ロクスが居間を横切って扉に向かう途中で、ララがズボンを掴んだ。幼い娘を見ると、なぜか悲しげな顔で、お絵かき用の木板を見せてくる。何かを伝えようとしている様子であったが、ロクスにはそこに描かれているものが理解できなかった。
ララはロクスにとっても初めての子供なので、こういう時どうしたらいいか分からない。ただ素直に愛おしいと思い、ぎゅっと抱きしめながら「また明日な」と耳元でささやいた。
それからララの小さな手をゆっくりと外して、なんとなく違和感を感じたまま家を出る。
サウスキープの町は日没直後の薄暗闇に包まれていた。ロクスとは反対に仕事を終えて帰宅した隣人らと挨拶を交わして、兵舎に向かって歩き出す。兵舎は小高い丘の上にある砦の中なので、ずっと上り坂を歩いていかなければならない。
サウスキープはその名のとおり、ファランティア王国で最南端の砦を中心として出来上がった町だ。丘の北側は急勾配なので、勾配の緩やかな南側に町が広がっている。
かつて砦を囲んでいた壁は一度も役目を果たさないまま、半ば朽ちていた。大昔に作られた町を囲む外壁も放棄され、今では土台と壁の一部、そして地名としての〝正門〟が残っているだけだ。今や町はその外側にも広がっているが、新たな外壁を建造する予定はない。
(そう言えばギャレット卿が防壁の再建と整備を熱心に進言していたっけな)
壁の名残りを見て、ロクスはふと思い出した。
ギャレットは外国からやって来た元傭兵だという男で、一時期はサウスキープでロクスと同じ衛兵をしていた。今では自由騎士というよく分からない称号をもらって、領主のフォーゲル家で厄介になっている。
〝正門〟という名前だけが残っている場所を抜けると、サウスキープの中心街である正門広場があり、店が軒を連ねている。松明の灯りに照らされた広場は人々が行き来していて、漂ってくる香ばしい香りがロクスの食欲を刺激した。
夜警当番の日は家で夕食を済ませてくるのだが、いつもこの香りに負けてドニーの肉屋で串焼きを買ってしまう。腹が厚みを増してベルトの上からせり出すようになった原因は、年齢のせいだけでなく、このためだとロクスにも分かっている。しかし肉屋のドニーに商才があったことは認めてもいいだろう。彼の家は父親の代までただの肉屋であったが、広場に露店を出してその場で串焼きを作り売りするというのはドニーのアイデアだ。以来、ロクスを含め常連となった住民は多い。
今日もドニーの剃り上げた禿頭と、肉屋らしく盛り上がった肩の筋肉が、串焼きの炎に照らされてテカテカと輝いている。そしてロクスを見つけると、ニヤリと笑った。
結局いつもどおり串焼きの包みを抱えてロクスが兵舎に入ると、相棒のジョンはすでに来ていた。
「ロクス、またドニーの店でそれ買ったのか。今に剣帯が届かなくなるぞ」
開口一番に急所を突かれたロクスは、「うっ」と呻いた。年々厚みを増す腹を見ると、冗談ではなくなってきている。ロクスはなんとか反撃を試みた。
「うるさいな、あと二〇年もすればお前もこうなるさ」
そう言って丸い腹をぴしゃりと叩き、そして気が付いた。
「あっ、しまった……」
剣を家に忘れてきてしまったのだ。
それは衛兵として二五年間、休む事なく真面目に仕えてきた実績を評されて領主のフィリベルト・フォーゲルから贈られた立派な
巡回時には帯剣するのが規則なので、取りに戻るべきか悩んでいると、準備を終えたジョンがロクスの肩に手を置いた。
「ま、剣は持ってたことにしてやるよ」
そう言って兵舎を出て行く。
ジョンは年齢も腹囲もロクスの半分以下だが、物怖じしない性格で、言葉遣いにもそれが現れている。くせのある金髪で、身長は平均より低いが、しなやかな長い手足の細く引き締まった身体つきをしている。一番の特徴は生粋のファランティア人ではない――どころか、テストリア大陸人でもない――肌の色と顔つきで、混血児であることだ。
そのせいか周囲とはあまり打ち解けておらず、鋭い目つきと話し方のせいで生意気だと陰口を叩かれている。だが、ロクスにとっては変に年上扱いされるよりも気が楽だった。それに相棒としての長い付き合いで、彼なりの気遣いにも気付いている。
今回もロクスはジョンが見逃してくれた事に感謝し、急いで
薄闇が完全に夜の闇へと変わった頃、ロクスとジョンはサウスキープから西へ一マイルほど離れた場所にいた。
振り返れば、砦とその南に広がる町の明かりが点々と見える。果樹園や畑は町より東のほうにあるので、視界を遮るものがないのだ。
南には、ここより南部に広がる〈魔獣の森〉の木々が、真っ黒な壁のように東西の視界の果てまで続いている。
ロクスが子供の時分には、この森は恐怖の対象であった。悪さをすると〝森に置き去りにするぞ〟と大人に脅されたものだ。
この森は熊や猪、狼のような獣だけでなく、ゴブリンや魔獣などの住処であり、人の領域ではないとされてきた。魔獣は盟約によって守られたファランティアの地に入ってくることはないが、その境界線は曖昧である。そのため実際に、巡回中の衛兵がうっかり森に近づき過ぎて行方不明になったり、森に入った木こりが魔獣に襲われたり、といった事件もあった。
四週間ほど前に最後のドラゴンが死んで、魔獣がファランティアに侵入してくるのではとサウスキープは警戒態勢になったが、結局何も起こらなかった。それを、アルガン帝国による魔獣狩りのおかげだと言う者も多い。
七年前に〈魔獣の森〉の向こう側、エルシア海に面した沿岸地域の都市国家群が併合されてアルガン帝国属領テッサニアになってからは、アルガン帝国による魔獣狩りが積極的に行われているのだ。
一年ほど前からは、魔獣狩りにやってきたアルガン帝国の魔獣狩人がサウスキープにまで姿を見せるようになり、最近は護衛付きではあるものの、森を抜けて取引に来るテッサニアの商人もいる。
「あのさ、剣を忘れるのは今回限りにしようぜ」
ロクスの前方を、松明で森を照らしながら歩いていたジョンが、唐突に切り出した。
「俺のために嘘をつく事になっちゃって、ごめんな」
ジョンの気持ちを察してそう応えると、その読みは外れだったようで、若者はハッと鼻で笑って言った。
「別にそんなこと気にしねえよ。たださ、歩き慣れた巡回路だけど、安全だって保証されてるわけじゃないだろ?」
俺の事を心配してくれてるんだな――と思って、ロクスは嬉しくなった。
「お前、いいやつだなあ」
ジョンは振り返り、何か言おうとしたが止めて、再び前を向いて歩き始めた。
(あれ、また読み違えたか……)
ロクスは兜越しに自分の頭を撫で付け、ジョンを追いかけた。
二人の巡回は、森に沿って西に進み、今は無人の監視所まで行って連絡用の篝火を灯したら、サウスキープからの信号を確認して戻る事になっている。
緩やかに盛り上がった丘を越えて下りに入り、月の明るい夜なら監視所の塔が四角い影となって見える距離まで来た。今晩は月が出ていないため、監視所の影は夜空に溶けて何も見えない。
突然ジョンが立ち止まり、ロクスは危うく追突するところだった。
「なんだよ――」
ロクスの抗議は、ジョンの鋭い「シッ」という声に遮られる。いつの間にかジョンは盾を構えていた。
「森で何か動いた。一つじゃない」と、小声で告げる。
ロクスは息を呑み、ジョンの視線を追ったが、その先には森の暗闇しか見えない。ジョンもまた、ララと同じようにロクスの見えないものが見えているのだろうか――そんな事を考えながら、ロクスは松明を掲げて森に目を凝らした。すると、茂みからぬっと立ち上がる人影がある。木の陰にも数人いるようだ。その姿を見て、ロクスは、ほっと胸を撫で下ろした。
「だいじょうぶだ、ジョン。人間だよ。たぶんテッサニアの人だろう。こんな時間まで……森で迷ったのかもしれないな」
ジョンのほうは見ずにそう言ってから、ロクスは「おーい」と松明を左右に振りながら呼びかけた。
バン、という大きな音に続いて、松明の炎を反射して何かがキラリと光る。
ジョンの声がした。
家に置き忘れてきた剣。一度も使った事がない剣。ジョンの言うとおりだった。
まだ食べてない串焼き。
自慢の若くて美人な妻、サラ。今日は後姿しか見てない。
去年死んだばあさん。最後は安らかに逝った。
どすん、という衝撃を顎の下に感じると同時にボキッと何かが折れる音。激痛。
愛しいララ。明日になれば会えると当然のように信じていたのに。
ララが書いていた絵の意味。あれはこの事を――
そこで、ロクスの意識は永遠に途絶えた。
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