2.ジョン ―盟約暦1006年、秋、第5週―

 ジョンは丘の斜面を駆け下りて、地面の窪みに飛び込んだ。乱れた呼吸に肩を弾ませながら、急いで鎖帷子チェインホーバークを脱ぐ。肩に痛みが走ったが、歯を食いしばって無視した。


 すでに重い荷物や装備は捨ててきた。この鎧と、鎧下の綿入れキルティングコートはここに捨てていくつもりである。アルガン帝国製のクロスボウに鎖帷子チェインメイルは無意味だとジョンは知っている。走るのに邪魔なだけだ。


 森に潜んでいた敵の第二射はジョンの盾を貫通し、肩を掠めて鎖の輪を弾き飛ばした。盾に隠れていた事と、小さな体格のおかげで直撃しなかったが、その裂傷は時間が経つにつれて痛みを増している。何度も目の当たりにしたその威力で、ジョンは敵がアルガン帝国だと思った。


(そしてロクス……あの太っちょおやじのおかげで助かったんだ……)


 ロクスは松明を掲げ、両手を広げていた。射手は仕留めやすい相手を先に狙ったのだろう。


 一射目がロクスを狙ったおかげで、ジョンに生き残るための僅かな時間が与えられた。二射目を盾のおかげで凌いだジョンは、戦場で身についた直感にしたがって倒れつつあるロクスの身体を盾にするようにして走った。その後何回か発射音が聞こえたが、たぶんロクスの死体か地面にでも刺さったのだろう。ジョンには命中しなかった。


(敵かもしれない相手に向かって松明を振るやつがあるかよ……)


 ジョンはロクスの愚かさに、怒りと後悔と悲しみの入り混じった複雑な感情を抱いていた。


 太矢クォレルはロクスの喉を正確に貫通して首の骨を砕いた。

 苦しまなかっただろう――と思うが、それはジョンの心を慰めはしなかった。


「ちっくしょう……」


 小さく口の中で呟いて、ジョンは鎧下の綿入れキルティングコートと汗に濡れた服を脱ぎ捨てて上半身裸になった。


 敵に追われる緊張感が、ジョンを傭兵時代へと連れ戻す。


 初めて戦場に出たのは七歳の頃だった。足の速さを見込まれて伝令としての参加だ。ジョンの所属していた傭兵団〈みなし子〉はその名のとおり、あらゆる理由で孤児になった子供たちを集めて作られた傭兵部隊だ。


 ジョンという名前も、前のジョンがちょうど死んだので、今のジョンに移っただけの名前である。傭兵団には名前のリストがあり、名無しには使われてない名前が割り当てられる。アレックス、エッド、ギャレット、ジョン――そんな感じだ。


 以前のジョンと今のジョンが混同して問題になることはない。なぜなら死んだジョンはもう話題にならないからだ。


 傭兵団〈みなし子〉がテッサと契約して、アルゴス、イリス、エイースと他の都市国家を相手に連戦していく中で、噂に聞いた戦争のない王国ファランティアがこの北に実在するという話が、傭兵たちの間で囁かれるようになった。


 ジョンの所属していたギャレットの部隊でもそれは同様で、ある時、ギャレットたちが脱走を企てていると知ったジョンは仲間に加えてもらったのだった。脱走したのはジョンを含めて七人だったが、結局、〈魔獣の森〉を抜けてファランティアに到達できたのは、ギャレット、エッド、ジョンの三人だけだ。四人は魔獣に殺されてしまった。


 呼吸が少し整ってきたので、ジョンは周辺の気配に耳をすませる。

 戦場では、愚かなやつと他人を気にするやつから死んでいく。自分の役目を全うする事が、結果的に自分と味方を生かすのだ。


 ロクスの事は頭から締め出して、ジョンは隠れ場所を離れて駆け出した。町の方角とは反対の、西を目指す。今の位置なら監視所のほうが近い。そこで篝火を上げ、緊急事態の合図を送るつもりだ。


 息を殺すのは止めてジョンは全速力に近い速度で暗闇の中を走り続けた。


 ロクスはいつもジョンが気にしない事を気にしていた。そしてよく、ジョンの知らない家族の話をした。ジョンはロクスの家族の話を聞くのを嫌ってはいなかった。そこには彼の知らない平和や愛情、家庭があった。ジョンはなぜギャレットについてファランティアに来たのか、実のところはっきりした理由を持っていなかったのだが、〝もしかしたら、これがそうかも〟と思える何かをロクスの話に感じていた。


 しかし、ジョンはいつもロクスの話に上手く応じることができなかった。〝いつかロクスと普通に話せるようになれたらいいのに〟と密かに願っていた事を、ジョンは今更になって自覚した。だがそれは二度と、永遠に叶わない願いになってしまった。


 いつの間にか死んだ人間の事を考えている自分に、そして涙を流している自分に、ジョンは驚いた。肺は痛み、肩の傷は熱を持ち始めている。その苦痛のせいに違いないと自分に言い訳する。


 やがて、監視所の四角い影が夜の闇の中から浮かび上がってきた。

 もうすぐだ――と思ったその時、ジョンは見た。

 監視塔に篝火が灯るのを。

 それは異常なしの合図を送っていた。

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