13.アリッサ ―盟約暦1006年、秋、第5週―

 迎賓館の二階にある南向きのテラスからは、大きな果樹園が正面に見えた。収穫期を迎えた秋の果実が放つ甘い芳香が秋の夜風に香っている。


 アリッサは夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。夜会の会場に満ちた強い酒と料理の匂いから逃れてきたためでもあるが、それはかつて彼女が求めた香りでもあったからだ。若い頃は、砂埃の舞う乾いた荒野にこのような果樹園を作るための研究をしていた。仮にそれが成功していたとしても、結局は空しい結末になっただろうが。


「お邪魔してもよろしいか?」


 突然声をかけられた事よりも、その声量に驚いてアリッサが振り向くと、室内の光を背にブランの巨体が影となってそびえ立っていた。このテラスにはアリッサ一人しかいないので、当然、彼女に向けられた言葉だ。


「ええ、もちろんです、ブラン陛下」

 アリッサはローブを正し、ブランに対して北方式の礼をした。


「おお、これは。てっきり帝国式かと思いました」


 そう言ってブランは、アルガン帝国での臣下の礼を真似てみせた。左手を横に伸ばし、右手を胸にあて、右足を下げて腰を曲げる。正しくは、手足が逆だが。


「私のような庶民にそのような物言いは必要ございません。恐縮してしまいます」


「いや、あなたの佇まい、どこぞの王侯貴族のそれと感じます」


 アリッサはどきりとした。慌てて「宮廷仕えをしていたものですから」と言って誤魔化し、ブランの表情を探る。


 ブランはアリッサの様子に気付いた素振りはなく、がははと笑いながら隣まで来ると、自然に酒杯を差し出した。


「金竜ブラウスクニース様が心安らかに旅立たれますように」


 アリッサも「心安らかに旅立たれますように」と言って酒杯を合わせる。


 酒に口を付けてから目を上げると、ブランは真剣な眼差しでアリッサを見つめていた。


「あなたを見かけた時、女神が地上に降臨されたのかと思いました」


「そんな……畏れ多いことを」


 アリッサは目を伏して視線を逸らした。ブランはぐいと酒を飲み干し、アリッサを見つめながら続ける。


「謙遜されるな。その燃えるような赤い髪が特に良い」


 ブランの狙いが分からずアリッサは戸惑った。北方の四王の一人が、酒場で女を口説くような真似をするなどあり得ない。それも、葬儀の後の夜会で。


「帝国では、赤毛は悪魔と通じた証だとよく言われました」


 アリッサは話題を変えようと言ったが、それは本当にある迷信だった。


「悪魔ねぇ……北方では、赤は炎と血の色、共に生命の象徴です。赤毛の女と一緒になれるのは幸運なことなんですがね」


 ブランは手を叩き、現れた給仕に酒を持ってくるよう命じてから、「実際のところ、どうなんです?」と気軽に問うた。


「赤毛については迷信ですよ。ただ、悪魔は確かに存在します。皆さんが思っているようなものではないのですけれど……」


「ふむ」と、ブランは顎鬚を掻いて言った。


「北方の伝承に出てくる悪魔は、戦いに赴く戦士の心に弱さを吹き込んだり、不名誉な戦いへと駆り立てたり……というような事をするのですが、どんな姿形なのか、はっきりと語られておらんのです。俺の祖父が言うには、見る者の心を映しているからだとか」


「大変賢明な方でいらしたのですね。それは真実を語っておられます」


 ブランは、にっと笑った。


「アリッサ殿にそう言わしめるとは、さすがは俺のじい様だ。俺は親父よりも、じいさんのほうが好きでね。色んな事を教わりました」


 ブランが嬉しそうに言うので、アリッサもつられて微笑みを返す。


「ん、こりゃ残念だ。アリッサ殿は結婚しておるんですなあ」と、ブランはアリッサの指を見て言った。


 エルシア大陸では既婚者は指輪を小指に付ける習慣がある。それを見つけられたのだ。ブランには外見に似合わぬ目敏さがあるらしい。


「あなたのような美人をモノにした野郎を見てみたいもんです」


 アリッサは、そっと指輪に触れて答えた。

「彼はたぶん……亡くなりました」


 ブランは〝しまった〟という顔をして、大きな掌で自分の頭をバシンと叩いた。


「こいつぁ失礼した。よく気配りに欠けると言われるもんで、気をつけてるつもりなんですが、駄目ですな」


「ああ、いえ、もう昔のことですし……もしかしたらどこかで生きている可能性も……」


 そうは言いながらも、アリッサはもう夫が生きている可能性をほとんど信じていなかった。五年に満たなかった夫婦生活、出産、夫と息子との別れ――それらの悲しみは今やアリッサの心の一部である。


「ブラン陛下、お代わりをお持ちしましたよ」


 背後からの声に二人が振り向くと、奇妙な輪郭をした男の影が立っていた。アルガン帝国では葬儀の時に、肩から腰まで覆う短いマントを着ける。そのため、四角い上半身から棒のように足が二本出ている形になる。頭に乗せた丸い形の帽子はテッサニアの上流階級の人々が好むものだ。


 テッサニアの帽子を、アルガン帝国の衣装に合わせるような人物は、ここには一人しかいない。


「皇帝陛下の名代に、給仕の役をさせてしまうとは申し訳ない」


 ブランはそう言って、エリオから酒杯を受け取った。エリオは肩をすくめる。


「正直、その肩書きは私には重過ぎます。できれば単にエリオと呼んでいただきたいものです」


 エリオはそう言いながら、優雅に帝国式の礼をした。


「そりゃあ、ありがたい。正直に言うと、俺もエリオ殿をなんと呼ぶべきかと困っていたのでな」


 ブランはニヤリとして、酒杯の中身を一気に飲み干した。


「おっと、余計なことを申し上げる前に大切な事をお伝えしておくべきでした、ブラン陛下。テイアラン陛下が、それを飲んだら戻ってきてくれとおっしゃっておりました」


「むう」とブランは唸って、空になった酒杯とアリッサを交互に見た。


 そして諦めたように酒杯を手すりの上に置き、「仕方ねえ。では、アリッサ殿、またの機会に」と言って、のしのしと迎賓館の中に戻って行った。


 ブランの大きな後姿を見送ってから、エリオは後ろ手に持っていた自分の酒杯を取り出す。

「ご一緒させていただけますか、アリッサ殿」と言い、答えを待たずにアリッサの隣で手すりに肘を預けた。


「今のお話、本当ですか?」


 アリッサが問うと、エリオは心外という顔をして答える。

「嘘なんて申しませんよ。ブラン陛下に嘘なんてついたら、舌か、どちらかの指を切り落とされてしまいます」


 北方では、詐欺罪などへの処罰として、それが一般的であるとアリッサも知っている。


「きちんとお話させていただくのは初めてですわね、閣下。宮廷魔術師のアリッサと申します」


 アリッサは頭を下げた。ファランティアに宮廷魔術師という役職はないが、アリッサはそう名乗るようにと言われていた。いずれ正式なものになる予定だ。


「閣下はよしてください。実際、アルガン帝国属領テッサニア執政官補佐役助役という、よく分からない官職なのです。自分も含めて誰も、何をする役職なのか分かってないのですよ。どういう立場だと思います?」


「そうですね、第三位の権力者というふうに思えますけれど……」


 エリオは「ははっ」と笑った。


「執政官補佐は六人います。その助役はもっとたくさんいますし、助役の中でも暗黙の上下関係はあるのですよ」


「それは……難しいお立場ですね」


「でしょう?」

 笑顔でそう言って、エリオは口に付けた酒杯を傾けた。


 アリッサがファランティア王国に亡命した時、テッサはエルシア海沿岸にある都市国家の一つに過ぎなかった。七年前に、テッサは一気に他の都市国家を併合してテッサニア連合王国を作ったが、この動きはアルガン帝国の支援を受けてのものだと言われている。現にテッサニア連合王国は建国してわずか一〇日後には帝国属領となった。執政官補佐が六人いる、というのは、テッサ以外の六つの都市国家元首を執政官補佐に任じたからだろう。


「それでは失礼して、エリオ様、とお呼びしてもよろしいですか?」

 エリオが敬称に不快感を示さないか確認してからアリッサは続けた。

「実はアルガン帝国内に魔術師団がある、という噂を聞いた事、ございません?」


 エリオは少し驚いたような顔をしてから、答えた。


「帝国は人間に魔法は必要ない、というより罪悪であるとして根絶を掲げています。アリッサ殿はよくご存知だと思いますが……いや、失礼」


 アリッサは気にしてないというつもりで、軽く微笑んだ。エリオは続ける。


「ですから、あり得ません――と、お答えしたいところですが、実は噂程度なら聞いたことがあります」


 最後の部分は囁くように言う。周囲には誰もいないが、用心しているのだろう。そしてそのまま付け足す。

「もしかして、アリッサ殿は帝国の魔術師を見た事があるのですか?」


 探りを入れたつもりのアリッサだったが、いつの間にかエリオに決定的な質問をされていることに驚いた。見た事があると正直に言うべきか、嘘をつくか。沈黙していては、それが答えになってしまう。


「わたし――」と、アリッサが口を開いた瞬間、さっとエリオが顔を上げて振り向いた。突然の素早い動きにアリッサもつられて振り向き、そして迎賓館の中から、金属鎧の出す騒々しい音が近付いてくるのに気付く。


 エリオがちらりとテラスの下を見たので、アリッサも下を見る。飛び降りられる高さだ。目の前は果樹園で、隠れる場所も多い。アリッサは直感的に、エリオが飛び降りるつもりだと感じてその手を素早く掴んだ。エリオは驚いてアリッサを見つめる。その表情は演技ではないとアリッサは思ったが、一瞬にして、冷静な表情に戻った。


「お放しください。飛び降りたりしません」


 そう言うエリオの瞳は、嘘をついているようには見えなかった。

 しかしアリッサはエリオを信じられなかった。


 テラスの入口に、二名の近衛騎士が姿を現す。完全武装である。

 その後ろにいるステンタールは、迎賓館にいた時の服装のまま、腰に下げた長剣の柄を握っている。その目がエリオから、二人の手に移った。そして疑惑の目でアリッサを一瞥する。


「お楽しみのところ申し訳ないが、エリオ・テッサヴィーレ。我々と来ていただく」


 エリオは冷静な態度を崩さず、アリッサの手から自分の手を抜き取って、聞き返した。


「それは構いませんが、何かあったのですか?」


「白々しい真似は止めろ、帝国の密偵め。それとも陛下の暗殺でも狙っていたか」


 ステンタールは吐き捨てるように言い、二人の騎士に合図を送った。

 騎士たちはテラスにある小さな丸テーブルを蹴散らし、エリオの腕を両側から掴んで連行していく。エリオは抵抗しなかった。


「どういう嫌疑なのですか?」と、アリッサはステンタールに尋ねたが、一瞥されただけで何も答えてくれない。


 テラスから通路に戻り、階段を下りて夜会の会場まで戻ると、そこにいる人々は静まり返っていた。全員が連行されていくエリオを見送っている。


 アリッサは訳を知っていそうな人物がいないかと見回して、モーリッツの背中を見つけ、駆け寄って尋ねた。


「モーリッツ伯、これは一体?」


 振り向いたモーリッツは普段より早口に、しかし無感情に答えた。


「奇襲です、アリッサ殿。帝国軍がサウスキープを攻撃したのです。戦争ですよ」




〈次章へ続く〉

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