9.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第5週―

 竜舎にある塔の一階部分は食材などを入れておく倉庫と調理場になっているが、わざわざ最上階の部屋まで調理したものを持っていくのは面倒なので、その場に置いた小さなテーブルを食卓にしている。


 それはランスベルが初めてここに来た時からずっとそうだった。最初は実家の食卓と比べてしまって〝小さすぎる〟と感じたものだが、やがてパーヴェルと二人で食事をする分には十分だと思うようになった。


 パーヴェルが逝って一人になると、今度は大きすぎるように感じたものが、今はその印象も薄れてしまった。


 テーブルの大きさも部屋の広さも変わらないのに、小さく感じたり、大きく感じたり、おかしなものだ――と、ランスベルはそのテーブルで紅茶を飲みながら、ふと思った。


 ブラウスクニースの葬儀が済めば、ランスベルは旅立たねばならない。葬儀まではあと三日で、旅の準備も竜舎の片付けもほとんど終わっている。警戒していた襲撃もない。それで思わず気が緩み、感傷的になってしまったのだろう。


(こうしてゆっくり紅茶を飲むことも、なくなってしまうだろうな……)


 そんな事を考えていた瞬間だった。突然、ドラゴンの咆哮が頭の中に響き、驚いたランスベルは椅子を倒して立ち上がった。手にしていたカップをテーブルの上に落としてしまい、こぼれた紅茶が広がっていく。


 これが城にかけられていた竜語魔法による警告なのだと理解して、ランスベルは駆け出した。一度きりの咆哮でも、そこには多くの情報が含まれている。敵の数は一人で、竜舎の手前六五フィートくらいの距離にいる。遠くから近寄ってきたのではない。突然に現れたのだ。その方法までは分からない。


『ブラウスクニース、我に力を!』


 階段を二段飛びに駆け上がりながら竜語魔法を使う。〈竜珠ドラゴンオーブ〉から力が流れ込み、魔法の発動と同時に時間が間延びして身体が軽くなり力がみなぎる。ランスベルは跳躍し、螺旋階段の壁を蹴って一気に最上階まで跳び上がった。


 部屋に駆け込み、竜剣ドラゴンソードを掴むと、窓から出で竜舎の赤い屋根の上に飛び降りる。もし部屋の中に誰かいたとしても、一陣の風が吹きぬけたようにしか感じなかっただろう。


 屋根の上を走りながら、竜舎に向かって来る黒いローブをまとった敵の姿を視認した。五感も強化されているので、今のランスベルには月明かりでも十分である。大扉の前に飛び降りて、敵の進路をふさぐと、その魔術師は立ち止まった。


 一呼吸の間、両者は対峙したまま動きを止める。


 魔術師は目元を覆面で隠していたが、深く被ったローブの奥にある目からも、露出した口元からも、その意図を読み取ることはできなかった。


 対するランスベルは迷っている。先制攻撃してよいものなのか、もしかすると話し合えるのか――敵と対峙するという経験は初めてなのだ。パーヴェルの教えが頭を過ぎる。


 〝話したければ話せばいいが、それは相手を叩きのめしてからにしろ〟


 魔術師がほとんど口を動かさないようにして、小さく呪文を唱え始めた。それに気付いても、ランスベルはぴくりと腕を動かしただけで先制攻撃できなかった。魔術師が両手を広げてランスベルに向け、火炎の奔流を放射する。火炎は竜舎の大扉に直撃し、扉を黒く焦がした。破片が火の粉のように舞う。しかし、その火炎が発生する前に、ランスベルはすでに避けていた。


 魔術師が魔術を使う時には、必ず事象が発生する範囲に魔力場が形成される。ランスベルの強化された感覚は魔力場をはっきりと視認できるので、魔術師の掌から前方に向けて形成された円錐状の魔力場が見えていた。だから炎を避けたというより、魔力場を避けたというほうが正しい。


 先制攻撃を許したことで反撃する大義名分を得たランスベルは、相手が次の行動に移る前に、地面を蹴って距離を詰めた。姿勢を低くして相手の懐に飛び込む。驚きに目を見開く魔術師の胸を、鞘に収めたままの剣で殴りつける。


 だが、その感触は人間の身体を殴ったというものではなかった。魔法の障壁を叩いた時の、馴染みの感触だ。パーヴェルと剣術の訓練をする時は真剣を使っていたが、お互いの身体を傷つけないように竜語魔法の障壁で覆っていた。ランスベルがパーヴェルから一本取れるのは三〇回に一回程度だったが、その時の感触によく似ている。


 魔術師は後方に跳ね飛ばされて仰向けに倒れたが、すぐに上体を起こした。今の攻撃でローブと、その下に身に着けていたなめし革の胴衣ソフトレザージャーキンが裂け、浅黒い肌が見える。肌までは傷ついていない。


 ランスベルが殴りつけた部位に集中していた魔力場が、全身に拡散していく。どういう魔術なのかランスベルの知識にはないが、呪文を唱える時間はなかったはずなので、事前に準備して維持する種類の防御魔術だろう。そうであるならば、この魔術師は同時に二つの魔力場を作れるという事になる。それは並以上の魔術師だということだ。


 竜剣ドラゴンソードは竜語魔法で鍛えられた魔法の剣なので、魔術の障壁なら切り裂ける。ランスベルは鞘を払って剣を抜き放った。もし最初からそうしていれば、今の一撃で殺していただろう。


 〝殺すつもりで剣を振るってことよ〟

 アリッサの言葉が脳裏に蘇る。


 魔術師に向かって踏み出したランスベルの足元に小さな魔力場が発生した。横に迂回しようとするが、魔術師は壁を作るように魔力場を横に伸ばしてランスベルの接近を阻止しようとしている。ランスベルには魔力場が見えるが、そこでどんな事象が起こるかまでは分からない。


 竜語魔法で防御して飛び込み、斬る――パーヴェルなら、いや竜騎士なら、そうするとランスベルには分かっている。殺すつもりで剣を振るうべきだと分かっている。だが、ランスベルの迷いは彼に消極的な行動を取らせた。魔力場を回り込もうと横に移動を続けるランスベルの目の前に、鍛冶場の建屋が迫ってきた。


 そして最初の炎の時よりも数倍広く円錐状に魔力場が発生して、鍛冶場もろともランスベルを範囲内に捉える。それこそ魔術師の狙いだったに違いない。ランスベルに魔力場が見えていると気付き、素早いランスベルを追い込んで広範囲の魔術で仕留めるつもりだったのだ。


 ランスベルは跳躍し、鍛冶場の屋根を踏み台にしてもう一度跳ぼうとしたが間に合わなかった。閃光で周囲が真っ白になるのと、『竜の盾』と竜語魔法を口にするのは、ほぼ同時だった。


 轟音が鳴り響き、魔術師が撃ち出した雷によってランスベルは鍛冶場ごと吹き飛ばされる。轟音と閃光は一瞬だったが威力は絶大で、地面はえぐれて焼け焦げ、つんとした臭いが周囲を満たす。


 魔術師は倒壊した鍛冶場を横目に再び竜舎に向かおうとして、びくりと身を震わせ立ち止まった。瓦礫の中から立ち上がるランスベルを目にしたからか。


 竜語魔法による防御のおかげでランスベル自身は無傷だが、〈竜珠ドラゴンオーブ〉から防御のために力が使われたのを感じる。雷の閃光と轟音による眩暈でふらついていた。


 魔術師は迷う事無く次の呪文を唱え始め、もう一度、広範囲に円錐状の魔力場が形成される。ランスベルは瓦礫を蹴散らし、魔力場を気にせずまっすぐ魔術師に向かって駆け出した。しかし魔術師の呪文のほうが早かった。


 ランスベルはもう一度『竜の盾』と竜語魔法を呟きながら身体の前面で剣に左腕を添えて防御の構えを取った。両足を踏ん張って、魔術師の攻撃に耐えるつもりだ。


 だが、魔術師の呪文は発動しなかった。魔術師は驚きに声を上げる。短い言葉だが、ファランティア語ではない。


 ランスベルは竜剣ドラゴンソードを腰の位置まで引き、目にも止まらぬ速さで一気に距離を詰めて剣を突き出した。魔術師が息を呑むのが分かる。剣先は正確に心臓の位置に向かっている。パーヴェルとの訓練で身体に染みついたその動きに無駄はなかった。


 〝殺すつもりで――〟

 再びランスベルの心の中に響く声。それはアリッサのものか、自身の心の声か。


 ランスベルの剣先は角度を変えて心臓を逸れ、魔術の防御障壁をものともせずに肩の肉を切り裂いた。刃は骨にまで達する。魔術師は痛みに悲鳴を上げた。


 倒れた魔術師は痛みにあえぎながら立ち上がり、肩の傷を押さえて血を撒き散らして逃げ出す。逃げる事に必死な魔術師は完全に無防備で、ランスベルは殺すなり捕らえるなり、どのようにもできた。


 しかし、ランスベルにはそれ以上何もできなかった。魔術師は、現れた場所に再び発生した魔力場に入ると、瞬きの間に魔力場と共に消える。


 ランスベルは両手で握った剣の柄からゆっくりと右手を離し、自分の手を見た。小刻みに震えていて、そこには魔術師の肩を切り裂いた不気味な感覚が残っている。少しの抵抗感のあと、プチッと柔らかい中身に刃が入る。それはナイフでソーセージを突き刺した感触によく似ていた。違うのはその後、硬い骨に刃が当たって食い込んでいく感触があったことだ。そして、相手のすさまじい苦痛の悲鳴。流れ出す真っ赤な血。その全てが嫌悪感を呼び起こし、気分が悪くなる。


 息を弾ませてアリッサが駆けて来た。魔術師が二度目の呪文に失敗した時、離れた場所で彼女が何かしていたのにランスベルは気付いていた。アリッサだけでなく、城の窓からも、城壁の上からも誰かの視線も感じる。


 魔術師の使った雷を放つ呪文は、地上で雷が発生したらそうなるだろうというほどの閃光と轟音を発したので、気が付かない者はいないだろう。雷鳴は城下まで聞こえたはずだ。すぐに他の人たちもやってくるに違いない。


「ランスベル! 大丈夫!?」と、駆けつけたアリッサが心配そうに言った。


「見た目ほどには怪我してません」


 ランスベルはぼろぼろになった自分の服を見つつ、そう答えた。それから竜剣ドラゴンソードの鞘を探して辺りを見回す。


 鍛冶場は半壊し、地面は黒く焼け焦げている。飛び散った破片のいくつかは燃えて、まだ白煙を上げていた。

 もし周囲に人がいたら何人犠牲になったか分からない。他人を巻き込まなくて良かったという安堵と同じくらい、恐怖も感じた。


 アリッサはランスベルの身体を見て、大きな怪我がないことを確かめると安堵のため息をつく。


「ごめんなさい。魔法の警告は受け取れたのだけど、敵が現れたということしか分からなくて。こうなる前に到着したかったのだけど……」


 ランスベルは首を左右に振った。


「いえ、最後にあの魔術師の呪文が失敗したのはアリッサさんが助けてくれたからですよね。ありがとうございました」


「実は賭けだったのよ。反呪文アンチ・スペルと言って、相手の魔力場を利用してそこに構築されている呪文と全く逆の事が起きる呪文を唱えると何も起こらないのだけど、それには相手の呪文をよく知っている必要がある。帝国の戦闘魔術師バトルメイジが使う〈雷撃ライトニング〉の呪文に賭けてみたのだけど、正解だったみたいね」


 アリッサの言葉は、今の魔術師が帝国の魔術師だという事を暗に語っている。


「……殺せなかったのね」


 アリッサは、安堵したような、困っているような、微妙な表情でそう言った。ランスベルはなんと答えるべきか分からず、とりあえず「はい」としか言えなかった。


 アリッサは屈んで地面に残る血痕を調べながら、「逃がすべきではなかった。殺すべきだった」と冷たく言い放つ。


「敵はドラゴンを失った竜騎士に大した力はないと思っていたはずよ。私もそう考えていたもの。でもあなたが何らかの〝力〟を持っていると知られてしまった。もしかすると、ドラゴンの遺灰よりもずっと強いかもしれない〝何か〟に強い興味を持つはず。そして次はあなたをそういう相手として準備してくる」


 それは言われずとも分かることだった。アリッサは戦いの痕跡を調べながら、魔術師が消えた場所まで歩いていく。ランスベルの〝力〟については追及しない。


 その間、ランスベルはただ立ち尽くした。アリッサの言うことはもっともで、反論の余地はない。だが、人間の命を奪わなくて良かったという気持ちは大きかった。しかし次は今回のように手加減できる状況ではないだろう。


 その時、自分は相手を殺すつもりで剣を振るえるのか――ランスベルには分からなかった。


 竜舎の焼け焦げた大扉の前に竜剣ドラゴンソードの鞘を見つけて、それを拾い上げる。剣を納めると同時に、竜語魔法も解除した。身体の重さが戻ってくる。


「ランスベル」と、アリッサに呼ばれて振り向くと、彼女は魔術で出したらしい明かりの下に立って地面を指差している。そこは魔術師が突然現れて、消えた場所だ。


「敵はここに現れて、消えたので間違いない?」


「間違いありません」


「あなたに傷を負わされて慌てていたのね、焦点具フォーカスを回収し忘れている」


 アリッサが指差す地面には、コインのようなものが落ちていた。彼女はそれを拾い上げ、手のひらに乗せて見つめながら言う。


「これで敵の事がもっと良く分かるはずだけど……こんな長距離を、それも〈魔術師の門ウィザード・ゲート〉があるわけでもない場所に転移テレポートさせるなんて普通の魔術師には無理だわ。考えたくないけど、たぶん敵方には〈選ばれし者〉がいる」


 〈選ばれし者〉についてブラウスクニースが話していたのをランスベルは思い出した。魔術師というよりも〝魔術的に作用する特殊能力の持ち主〟で、その能力は魔術の限界を超えたものだと言っていた。


「聞いたことがあります。でも詳しくは――」


 アリッサは自分の唇に指を当て、「しっ」とランスベルの言葉を遮った。


「話の続きは後にしましょう。ここまで大事になってしまうと、説明しないわけにはいかない。だけど、襲撃者が帝国の魔術師ということは伏せておいたほうがいいと思う。確実な証拠があるわけではないのだし」


 アリッサが言うように、すでに城内の人々の注目を集めすぎている。肩を怒らせたステンタールが近衛騎士を引き連れて向かってくるのも見えた。〈王の騎士〉の姿を見てアリッサは、コインをさっと手の中に隠す。


 ランスベルとしても、ドラゴンの遺灰の件は竜騎士である自分の問題だと考えていたので、他人や、ましてや国を巻き込むつもりはない。ファランティア王国とアルガン帝国は敵対しているわけではないのだ。


「そのつもりです」と答えながら、ランスベルは〈竜珠ドラゴンオーブ〉を入れた腰の皮袋に触れた。


(パーヴェル、ブラウスクニース……怖いよ)


 ランスベルは再び震え始めた指先で、〈竜珠ドラゴンオーブ〉をぎゅっと掴んだ。その姿を、アリッサは心配そうに見ていた。

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