3.アリッサ ―盟約暦1006年、秋、第1週―
なんてことなの――と、アリッサは惨状を眺めて思った。
初秋のまだ暖かい時期にも関わらず、アリッサの息は白く、彼女が座り込んでいる地面は氷のように冷たい。背中にかかる赤毛も霜がついたように重く垂れ下がっていた。薄手のローブは寒さを防いでくれないが、震えている理由は寒さだけではない。
立ち上がれないほど疲れ果てていたし、目の前の惨状を引き起こしたのは自分だという事実に打ちのめされていた。普段なら実際の年齢より一〇歳は若く見えるが、今は歳相応に、四〇代半ばに見える。
ファステンの町は王都ドラゴンストーンから徒歩で半日もかからない場所にある。断絶した王家の一つロフォーテン家が領有していた穀倉地帯の中心的な集落で、現在は王領となっていた。
町の北にはロフォーテン家の別邸が残されており、アルガン帝国の魔術師狩りを逃れて亡命した魔術師たちは当初、そこに逗留するよう指示されていた。王都の近くで、何か起こっても被害の少ない場所として適当だったのだろう。
長い逃亡生活で疲弊していた魔術師たちにとって、屋敷は十分すぎるほど快適で、先代のテイアラン四八世王の措置には感謝したものだ。
今、その屋敷は二階の一部がえぐられたように無くなり、その縁は炭化していた。屋敷の前にへたり込んでいるアリッサの周囲には、焼け焦げた破片が散らばっていて、爆発があったことを示している。屋敷の一部は焼け焦げているが、火はすでに消えていて延焼の心配はない。
問題なのは、屋敷が氷の中に閉じ込められていることだ。
屋敷を包んでいる氷からは、のたうつ蛇のようにも見える氷の触手が無数に伸びていて、いくつかの触手は地面に接触して氷柱のようになっている。暴走した魔術が周囲の熱を奪ってしまったので、真冬のように寒く、冷気が霧のように辺りを覆っていた。
魔術が作り出した、この驚異の光景を町の住民たちは遠巻きに見ている。本当は彼らの助けが必要なのだが、生まれてからずっと魔法とは無縁だったファランティア人には仕方の無いことだ。
事情を説明しなければいけない、ということはアリッサにも分かっているが、今はまだ無理だった。アリッサの視線の先では、見習い魔術師だったジョナサンが、慎重に呪文を唱えながら屋敷の入口付近の氷を溶かしている。ジョナサンの足元は氷の溶けた水でぬかるんでいて、頭上からもポタポタと水が垂れているため、全身びっしょりと濡れていた。
今もこの屋敷に住んでいる魔術師は、アリッサとジョナサンを含めて五人だけだ。ラリーが生きている可能性はほぼ無いが、ドンドンとジョゼにはまだ望みがある。ジョゼは治癒の魔術を習得した白魔術師だし、ドンドンは世界に九人しかいない〈選ばれし者〉の一人なのだ。
アリッサはじっとジョナサンの作業を見つめながら、心の中で二人の無事を祈っていた。氷が十分に薄くなったのだろう、ジョナサンの作業は魔術を使わない段階に移行して、ハンマーを使って氷を砕いている。
しばらくして、ジョナサンが振り向いて声を上げた。
「開きそうです、アリッサ!」
アリッサは気力を振り絞ってなんとか立ち上がると、屋敷の入口まで行き、扉に手をかける。
開かれた扉の向こうで、こちらに手を伸ばしながら、恨めしそうに命を失った目でこちらを見ている二人の姿があったらどうしよう――アリッサは不幸な想像を頭から締め出し、扉を開いた。
扉の内側からは、暖かい空気が漏れてくる。
(中の空気は魔法の影響を受けていない!)
アリッサの胸に希望の火が灯る。
屋敷の玄関内は球状に氷と冷気の進入を防いでいた。そこに薄緑色のローブに身を包んだ丸いものがうずくまっている。その背中は上下に揺れていた。
ドンドンの姿を見つけて、アリッサはほっと胸を撫で下ろす。その丸い背中に優しく触れて、「ドンドン」と呼びかけた。
ドンドンは少し顔を上げ、黒いクセ毛の間から小さな目でアリッサを見た。その目は涙に濡れて赤くなっている。
「ドンドン、無事で良かった……ジョゼは?」
「火事だって言って、僕を助けに来てくれて、一緒にここまで来たのに……いないんだ……どこにも」
ぐすっと団子鼻を鳴らして、ドンドンが呟く。
「たぶん、〝なくしちゃった〟んだと思う……」
その言葉の意味するところを理解して、アリッサは胸の引き裂かれる思いだった。ドンドンの丸くて柔らかい背中を抱きしめて語りかける。
「ごめんなさい。私のせいよ……でも今は、まず力を制御しなくてはいけないの。前に教えたこと覚えてる?」
ドンドンは「うん」と頷いた。
「やってみましょう。精神を集中して、魔力場を制御しなくては。できる?」
「やってみる……」
アリッサもまた精神を集中して、〈
魔術師になった者が最初に学ぶ呪文で、アリッサほどの魔術師であれば呪文の詠唱も不要なものだが、今は何が起こるか分からない。まるで初めて呪文を唱えるように意識を集中する。
〈選ばれし者〉であるドンドンの魔力場は特殊で、形がはっきりしない。しかし徐々に安定して、範囲が狭まっていくように感じる。
普通の魔術師であれば、魔術を行使するときだけ意識すればよいことをドンドンは寝ている間でさえ意識しなければならない。それがどれほどの精神的負担なのか、魔術師であれば想像に難くない。
それだけでなく、この少年は自分の力が何を引き起こすか理解できる年齢になってしまった。
(いっそ、ファランティアに連れて来なければ良かったのかもしれない)
アリッサは初めてそう思った。
この一二年間、ドンドンは普通の人と同じように生活してきた。一生背負わなければいけないと思っていた重荷をせっかく捨てられたのに、忘れた頃にまた担げというのは残酷な事だ。
ドンドンが自分の魔力を抑え込む事に成功したので、アリッサは立ち上がった。ふらついた所をジョナサンが支えてくれる。
「ありがとう、ジョナサン。ドンドンと一緒にいてあげて。私は皆に警告をしなければ」
そう言ってジョナサンの腕から離れて一人で立つ。ジョナサンは心配そうな顔で言った。
「そんな状態で、一人にできませんよ」
「大丈夫、すぐそこで簡単な儀式をするだけ。何かあったらここからでも分かるから」
アリッサは無理に微笑んだ。
ジョナサンは、アリッサとドンドンを交互に見やってから頷く。
屋敷から出たアリッサは、そこら中に散らばっている破片のうち、湿っていない炭化したものを拾い上げた。ローブの懐からペンダントを取り出すと、首の後ろで紐を解いて外し、地面に置く。
そしてペンダントを中心に、炭で
これを使うときが来てしまったのね――と、アリッサは悲しく思った。
亡命した魔術師たちがファステンに留め置かれたのは一年間だけで、彼らが無害だと分かると自由な移動を許された。ファランティアでは〈盟約〉によって魔法がほとんど効果を発揮しないことは良く知られている。
一年間も様子を見たのは、世界でも有数の魔術師として知られるアリッサと、〈選ばれし者〉であるドンドンがいたからだ。
結局、問題は無かったので、自由になった魔術師たちは一人また一人とファステンを離れ、それぞれの生活を始めた。
ファステンを離れる魔術師たちに、アリッサは自分の
(それなのに、私自身がこんな事をしてしまうなんて……)
アリッサは悔しさに唇を噛んだ。今朝起こった出来事は、〈盟約〉の力が完全に消失した事が原因としか思えない。きっとブラウスクニースか〈盟約〉に何かあったのだろう。
(でも、これは私の責任だわ)
アリッサは自分を責めた。
ドンドンに普通の生活を経験させてしまった事。
〈盟約〉の力が消失する際に、反動現象のようなものが起こる可能性に考えが及ばなかった事。
皆をファランティアに連れて来た事。
そのために最愛の夫と息子を犠牲にした事。
選択の余地は無かったと言っても、全ては自分で選択した事なのだ。
(だから今はこの儀式に集中しなければ)
アリッサは
呪文を唱え、魔術に集中する。魔力場の固定は
アリッサは急いで〈
『みんな、魔術を使わないで。魔力通路を開くと大変なことが――』
突然、ペンダントが振動した。あっ、と思った時にはもう遅く、ペンダントは小さな破裂音を立ててバラバラに砕け散った。慌てたせいか、消耗のためか、魔力の制御を仕損じてしまった。必要以上の魔力が流れ込み、
遠巻きに様子を見ていたファステンの住民たちが、またざわつき始めた。何か起こるのではないかと不安なのだろう。
(魔術に触れたことのない彼らに、説明しなくては)
しかしアリッサは、自分が倒れたことにも気付いていなかった。
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