2.ランスベル ―盟約暦1006年、秋、第1週―
ランスベルは扉を閉め、そこに背中を預けた。
目の前にはブラウスクニースの亡骸が横たわっている。大きなドラゴンの骨と、自らを焼き尽くした後の灰の山が。
またじわりと涙が溢れてきた。声が出ないように口をぐいと引き締め、腕で乱暴に目を拭う。背中越しに、扉の向こうで立ち尽くすマイラの気配を感じた。たぶん泣いていたことに気付かれただろう。それでも、彼女に泣き声を聞かせるわけにはいかない。
(僕は一七歳の大人で、竜騎士なんだから)
マイラはしばらく扉の前に留まっていた。その間、彼女の存在がランスベルを再び深い悲しみへと沈んでいかないよう繋ぎ止めてくれた。
やがてマイラは扉の前から去り、その頃にはランスベルも自分のすべき事をしなければと考えられるようになっていた。
ブラウスクニースの死は覚悟していたはずだ、と自分に言い聞かせる。〈盟約〉にはまだ最後の誓約が残っているのだ。
(最後の竜騎士として特別な役目を担うことになると最初から言われていたじゃないか)
その意味を十分に理解した上での選択では無かったけれど、選択したのは自分なのだ。
『わしの死後、すぐに〈
ブラウスクニースの言葉を思い出し、ランスベルは灰の中、心臓の位置を探した。灰をゆっくりかき分けると、拳大の大きさの球体が見つかる。球体の表面はとても滑らかで透明だが、内部は夜空のように黒い。そして、赤や青や金の、色とりどりの光が明滅している。
〈
ランスベルは〈
その箱はブラウスクニースに言われるまま、ランスベル自身で作ったものだ。全体は主に鉛板で出来ているが、手に入りにくい隕鉄やいくつかの高価な宝石も使われている。材料を集めるためにランスベルは何度かファランティアを旅する事になった。
うっすらと埃を被ったその箱の上には、腰に下げる小さな皮袋がある。こちらは王都の職人に作ってもらったもので、水牛の皮を幾重にも組み合わせた丈夫なものだ。
ランスベルはまず〈
『閉じよ』
ブラウスクニースから力を借りた時と似た感覚があって、竜語魔法は発動した。力は〈
竜語はドラゴンの言語であり、言葉そのものが魔法である。竜騎士は限定された範囲内で竜語を使う事が許されている。一般的に竜語魔法と呼ばれているものだが、その力の根源はドラゴンだ。だから通常はドラゴン自身が竜語を発するか、ドラゴンの力を借りなければ何も起こらない。
皮袋が竜語魔法の力で封印されたことを確認して、ふぅ、と安堵のため息をつく。人間一人で竜語魔法を使ったのはランスベルがこの世界で初めてのはずだ。
『わしがいなくとも〈
ブラウスクニースの言葉を思い出し、あれはこういう事だったのかと実感する。
次は箱を下に運ばなければならないが、とても一人で持ち上げられる重さではなかったので、ランスベルはもう一度竜語魔法を使う事にした。〈
『大地の戒めより解き放たれよ』
今度も竜語魔法は問題なく発動し、重いはずの箱がふわりと浮き上がった。力加減を間違えてランスベルの頭より上に浮かんでしまいそうになったので、慌てて掴む。
まるで羽毛のように軽くなった箱を持って、ランスベルは螺旋階段を下りた。ブラウスクニースの亡骸の近くまで運び、床に置いて竜語魔法を解除してから、蓋を開ける。それからブラウスクニースの遺灰に両手を差し入れると、ゆっくりすくい上げて箱に入れた。同じように丁寧にすくっては、箱に移すのを繰り返す。
ランスベルは黙々と、この作業を続けた。やがて空気が湿り気を帯び、竜舎の屋根を雨が叩き始めた。その雨音が、ランスベルに全てが始まった日の事を思い出させる。
それは一〇年前、ランスベル・オーダム七歳の誕生日の出来事であった。
ランスベルが部屋の窓から自宅の玄関を見ると、雨の中、フードを目深に被った黒い
オーダム家はホワイトハーバーの町でも有数の商家なので、そうした人物が訪ねてくるのは珍しい事ではない。ただ普通は自宅のほうではなく、隣接した商店のほうを訪ねるものだが。
その人物は老人とは思えぬ身体つきをしていて、背筋はピンと伸びていた。なぜ老人と知っているかと言えば、男が家を訪ねてくる時はなぜか常にランスベルが窓から外を見ている時で、しかもその事を知っているかのように、帰り際ランスベルの部屋の窓を見上げるからだ。深い皺の刻まれたその顔を見れば、ランスベルの父よりずっと年上の老人であると一目で分かる。
その日はいつもと違い、男は門前払いされずに家へ招き入れられた。
自分を訪ねて来ているのはランスベルもなんとなく感じ取っていたので、緊張して待っていると、母の足音が階段を上がって来た。予想通りランスベルを呼びに来た母と共に一階に下りて応接室に入ると、テーブルを挟んで向かい合うように置かれた豪華な
父のホルストは客向けの笑顔を顔に貼り付け、背筋を伸ばして胸を張り、緊張感を漂わせていた。つまり老人は身内や親しい人間ではない。
対する老人は、自然体であった。雨に濡れた
父と老人、向かい合う両者の体格差は歴然であり、小さな父が大きな老人に張り合っているかのように見えて滑稽であった。
もちろんランスベルはそんな事を顔に出したりしない。考えや感情を表情に出すことで良い結果になったことがないからだ。大抵は悪い事が起こる。
母のクレーラは、まるで父の付属品のようにその隣へ腰を下ろした。ランスベルは両親と男、両者の間に立ち尽くす。
「ランスベル、こちらの方は――」と、父が紹介しようとするのを老人は手で遮って立ち上がった。
ランスベルは不安になった。父はそのような態度を好まない。案の定、老人がランスベルのほうへ身体を向けると、その背後で拗ねたような顔をしていた。母がそっと手を添えてなだめる。
両親のそんな様子は、大きな老人がランスベルの前に屈みこんだ事で見えなくなった。
「はじめまして、ランスベル君。私は金竜騎士のパーヴェルという者だ」
竜騎士の存在を知らないファランティア人はいない。王土と人間の守護者。生きている伝説のような存在である。歴代の竜騎士たちの冒険譚は本にもなっていて、ランスベルもたくさん読んでいた。
「は、はじめまして。ランスベルです……」
非日常的な出来事に対処する術を知らず、ただ呆然とパーヴェルを見つめ返す。
「金竜ブラウスクニースが君を選んだ。だから私が迎えに来た。ブラウスクニースは他に候補者を選んでいない。君が来ると確信しているらしい。それでも私は、君の意思を確認したいと思っている」
パーヴェルの実直な物言いは、これが冗談ではないかと疑う余地を残さなかった。そして彼は、ランスベルを〝オーダム家の末のお坊ちゃん〟として扱わない初めての大人であった。
ランスベルは頭の位置をずらして、パーヴェルの向こうにいる両親の顔色を覗う。父は明らかに気に入らない様子だ。母はいつもどおり心配そうにしているが、夫と息子のどちらを心配しているのかは分からない。
ランスベルの視線に気付いたパーヴェルは、「君の部屋に行こうか。二人で話さなければならない」と言って立ち上がった。そしてホルストの承諾を得ようともせずに「案内してくれるね」とランスベルに向かって言う。
ランスベルは目で父の判断を仰いだが、ホルストは完全に頭に来ているようで、その気持ちを代弁するなら〝俺を無視するつもりなら勝手にしろ〟というところだろう。
「後でお茶をお持ちしますね」と、クレーラが言った。ランスベルはそこに許可の意を汲み取った。
「僕の部屋は二階にあります」
そう言って先導すると、パーヴェルは幅広の長剣を手にしてランスベルに従ったが、応接室を出る前に振り向いて言った。
「奥方、お気持ちはうれしいのですが、お茶は結構です。私が良いと言うまで彼の部屋には誰も近づけないでください」
二人は二階に上がってランスベルの部屋に入った。パーヴェルは扉を閉めて『声よ、留まれ』とランスベルの知らない言葉で呟いた。
ランスベルは驚いた。それは本当に聞いたことのない言葉だったにも関わらず、意味を理解できたのだ。魔法の言葉だ、とランスベルは興奮した。
そんなランスベルの視線に気がついて、パーヴェルは説明した。
「竜語魔法を使ったのだ。この部屋の会話を盗み聞きされないようにね」
パーヴェルは南側の壁を見ながらそう説明した。その壁の向こうはランスベルの兄ガスアドの部屋で、この時間は部屋にいるはずだ。
「どうぞ」と、ランスベルは椅子を勧めたがパーヴェルは座らなかった。部屋の中をざっと見て周り、ランスベルがいつも外を眺めていた窓際に立つ。
「これが君の窓か……ブラウスクニースは、この窓から君を見つけたと言っていた」
「空を飛んでいる時に、ですか?」
パーヴェルは「いや」と首を横に振った。
「残念だが、ブラウスクニースはもう飛べない」と、真剣な眼差しで言う。
「えっ?」
驚くランスベルに、パーヴェルは窓の隣に背を預けて腕を組み、質問した。
「ランスベル、君は自分を殺せるか?」
「それは……他人を助けるために自分が犠牲になれるかという意味でしょうか?」
本で読んだ竜騎士たちは、他人を助けるために自ら死地に飛び込むことが多い。そういう意図の質問だとランスベルは思ったが、違っていたようだ。パーヴェルは質問には答えずに言った。
「竜騎士になるという事は、ランスベル・オーダムとしての人生を捨てるという事に他ならない。これまでの過去も、あり得る未来も捨てることになる。竜騎士は人間社会の外に身を置かねばならない。だからランスベル・オーダムという人間は消えて、ランスベルという竜騎士だけが残る」
ランスベルにとって、世界はこの家が中心だった。
そしてこの家は父のホルストが君臨する王国であり、王国の後継者は兄のガスアドと決まっていた。二人は暴虐な支配者で、ランスベルは彼らに見つからないように、息を殺して気配を消して、自分を守る以外になかった。
ランスベルが唯一自由になれるのは、本の中の世界、想像の世界だけだ。そしていつか大人になったら、あの窓の外に広がる世界を自由に歩けるんだと夢想して過ごした。
自分を殺すことこそ、ランスベル・オーダムの処世術だった。だから、「できる、と思います」と答えた。
パーヴェルはしばし沈黙した後に「そうか……」と呟いてから続ける。
「この家にいれば、君はいくつかの可能性を試し、未来を選べる。世界にはそんな機会を与えられない人間もたくさんいる。その機会を捨てるということが、いかなる犠牲なのか分かっていない。もう一度よく考えてみて欲しい」
ランスベルはパーヴェルに言われたとおり、自分の未来を想像してみた。そして気が付いた。
「でも、竜騎士になるという未来を選択できる人は、この世界に僕一人なんですよね?」
『やられたな、パーヴェル』
どこからか楽しげな声が響いて、ランスベルは驚き、びくりと肩を震わせた。パーヴェルは肩をすくめる。
「今の声はブラウスクニースだよ。私を経由して君にも話しかけたのだ。こんな事はめったにしないのだが」
パーヴェルは窓際を離れると、ベッドに腰掛けているランスベルの隣に座った。
「話してみて分かったが、ブラウスクニースが君を気に入ったのも頷ける。君が最後の竜騎士に選ばれたのも分かるような気がするよ」
「最後の、というのはどういう意味なんですか? さっきも、もう飛べないって……」
パーヴェルは険しい顔つきになって答えた。
「残念だが、言葉通りの意味だよ。知ってのとおり、金竜ブラウスクニースがファランティアに残った最後のドラゴンだ。そして、おそらく君が最後の竜騎士になる。竜騎士になるために学ぶことはたくさんあり、訓練は辛い。逃げ出したくなるかもしれないが、君以外の竜騎士を育てている時間が私たちにはないから、私は君を逃がさない。それでもいいかい?」
ランスベルは頷いた。パーヴェルの灰色の瞳に、僅かに悲しげな光が瞬いたような気がした。
「いずれ話すことになるが、最後の竜騎士には特別な役目がある。その重責を君に背負わせることになってしまって、すまないと思う。だが残された時間を君のために、できる限りの事をすると誓う」
パーヴェルは立ち上がって手を差し出し、ランスベルはその手を掴んだ。
パーヴェルの手には、無数の皺と細かい傷が区別できないほどたくさん走っていたが、その見た目に反してなめし皮のように滑らかだった。ランスベルはその手に助けられたこともあったし、傷つけられたこともあった。頼りにしたこともあったし、憎んだこともあった。その手の感触はパーヴェルの思い出とともに、今でも思い出すことができる。
パーヴェルは三年前、ランスベルに看取られて逝った。
「ブラウスクニースを頼む」と、最後にパーヴェルは言った。
思い出に浸りながら長い時間をかけて、ドラゴンの遺灰を全て箱に納め終えた。残していないかと周囲を調べてから蓋を閉める。
ドラゴンの遺灰はその力の残滓である。本来の力とは比べ物にならない程度とはいえ、それを利用できる者には強大な力の源になる。灰に残された力が最も強い期間は死後三〇日だ。それまでに触媒として利用されるか加工されるかしなければ、急速に力は失われて消える。
『閉じよ』
ランスベルは竜語魔法で箱を封印した。竜語魔法以外で封印を破る事はできないはずだが絶対とは言えない。だから少なくとも三〇日間は灰を守らなければならない。
〈盟約〉の時、ファランティアにやってきたドラゴンは一二体いて、そのうち九体はファランティアで死に、その墓もある。ブラウスクニース以外のドラゴンが死んだ時は〈盟約の守護〉という強力な竜語魔法がファランティアの地を覆っていたので、ドラゴンの遺灰を利用できるような魔法使いでもほとんど力は発揮できなかったし、他のドラゴンと竜騎士によって遺灰も守られていた。
しかし最後のドラゴン、ブラウスクニースが死んだ瞬間にファランティアを覆っていた〈盟約の守護〉は消えた。つまりファランティアの歴史上初めて、ドラゴンの遺灰はもっとも危険な状況にある。
ランスベルは竜舎の奥へと歩き、そこにある埃まみれの大きな布を取り外した。下には大きな台車がある。台車には幅六フィート半、奥行き一三フィートほどの大きな棺が載せてあった。ブラウスクニースが用意させたものだ。
「準備がいいのも考えものだが」と、パーヴェルは言っていた。
『大地の戒めより解き放たれよ』
竜語魔法を使い、ドラゴンの遺灰を封印した箱を抱えると台車に飛び乗る。棺の中心に箱を置き、それから遺骨を一つずつ、箱を隠すように納めていく。
全ての遺骨を納め終え、棺を閉めようとして、ランスベルは思い付きで小さな牙を手に取った。
「ごめん、ブラウスクニース。最後まで一緒にいて」
涙を堪えて独り言を囁き、牙をベルトに挟みこむ。
日暮れを告げる鐘楼の鐘の音が聞こえた。外は雨で、空は分厚い雲に覆われていても、そのおかげで日暮れ時だと分かる。
テイアラン王に報告するのは明日だとマイラに伝えたのは、単に悲しみに暮れる時間が欲しいという事ではなく、これらの作業を終えるのに時間が必要だったからだ。
心身ともに疲れて塔に戻ると、一階のテーブルに
パンを手に取って二つに割り、塊の一つを直接噛み切って食べる。行儀が悪くても気にしない。
ここには僕一人しかいないんだから――そんな風に考えても、涙はもうあふれてこなかった。
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