第十七話 決別 3
俺の願いは少しだけ聞き届けられた。爪の先に、確かな手応え。
歌姫を見ると、胸元から肩口にかけて裂傷が生まれており、苦しげに押さえている。
俺は地面に倒れ込むように着地し、いやこれ着地っていうのか? 崩れ落ちてないか? まあいいや。
崩れ落ちた姿勢から、右腕を支えに立ち上がる。
「……“歌姫”っ!」
眼前にいる尽影を見据え、口を開く。
「……俺の爪は、お前に届く。たとえお前が逃げようと、奏でようと、俺の爪はお前の命を必ず奪う」
「……それはどうかしら」
「……何だ?」
尽影は、その顔に加藤の顔を浮かべていた。
「これ、なんだと思う?」
「……スマートフォン……?」
歌姫が手にもつは、一台のスマートフォン。見覚えがあるそれは、加藤のものだ。
「それが、どうして」
「どうしてだと思う?」
『サトコ、こんな時間になにやってるの?』
田中の声がした。俺は身が凍る。
歌姫が、俺に画面を向ける。
そこには、田中の顔があった。つまり、ビデオ通話だ。
『……山瀬? ……血? っていうか、なに、その腕……』
「……田中……これは……」
どうするべきか、と迷う。
田中は一般市民で、この影の戦いには何ら関与していない。誤魔化すべきだろうか、と考える。
しかし、これはきっと歌姫の策だ。歌姫は、こうすることで、俺の迷いを生じさせようとしているのだろうか。
ここまで、追い詰めた。ここで逃げられてたまるか、という思いがある。
同時に。
田中に、このような世界を見せるわけにはいかない。ましてや、俺がこの爪で“親友”を殺すところなど。
スマートフォンを掲げた加藤は、冷笑を浮かべていた。
その笑みには、何の人間的な色もない。ただ生存のための計算と、嗜虐の快楽に染まっていた。
そこに、加藤の面影はない。あるのは、尋常の埒外にいる尽影の顔。
使命感で戦っているわけではない。
けれど、御厨の報いは、そして加藤の報いは、雪いで貰う必要がある。必ず。
『いや、二人ともなにやってるの? なんかの撮影? こんな時間だよ? 早く帰ってきなってば』
田中は状況を把握しきれていない様子で、混乱している。いつもの軽口も、上滑りしていた。
加藤が冷笑を浮かべたまま、話す。
「真理、実はね、山瀬君は人間じゃなかったの」
『はい?』
「山瀬君の腕を見ればわかるでしょう? あれは作り物なんかじゃなくて本物。ほら――」
加藤は自身の胸元についた傷を田中に見せる。
『……さ、サトコ、それ……大丈夫なの? いや、それもだけど……血の色……!』
「ええ、この薄暗闇でもわかるぐらい、黒いでしょう?」
『どうして……?』
「答えは簡単。私も人間じゃないから」
『……どういうこと? ねえっ、どういうこと⁉ ねえ、ちょっと⁉ これなんかの冗談だよね⁉』
「いいえ、冗談じゃないの。山瀬君は今、私を殺そうとしている。私が人間じゃないから。私が誰かに害を為すものだから」
「……それは違う。俺はただ、お前の行為に応報するだけだよ」
「その人はそんなに大事な人だったの?」
「……いや、わからない。ただの、同僚だ。けれど、恩義はある」
「それは私も同じじゃない? あのときの言葉、まだ返事もらってないんだけど」
「……そうだな」
俺と加藤のやりとりの間、田中は混乱した様子のまま俺たちに様々な問いかけを、呼びかけを、投げかけていた。
『二人とも! ねえちょっと落ち着きなよ!』
「……だって、山瀬君」
「…………なあ加藤、スマートフォンを切ってくれ」
「嫌よ」
「頼むから」
「絶対に嫌。……あのときの答えを聞かせてくれたら、考えるかもしれないわ」
加藤はそう言って笑った。
「教えてよ。私が覚えた、感情という名の記憶に対する、あなたの答えを」
「………………………………ああ、わかったよ」
俺は加藤を見据え、ゆっくりと口を開く。
加藤との様々な思い出が脳裏に浮かぶ。その温もりは、俺の心を躊躇させる。
けれど、立ち止まっている場合ではないのだ。俺は、こいつを狩らねばならない。
過去に付随する一切の温もりを切り捨て、そして過去の一点を強く思い出し、返すべき言葉を、返す。
「……ありがとう。悪いが、君と付き合うことはできない。君の……彼女の気持ちに、答えることはできない」
「あら、そう……それは残念だわ」
加藤は嘆息し、首を横に振る。その後、スマートフォンをポケットにしまった。
「ここであなたにイエスと言ってもらえれば、人間もどきになってしまった私にも、感情とか人間とか、そんなものがわかったのかしらね」
加藤は諦念を孕んだ笑みを浮かべる。
「……そうだな。そうかもしれない。……悪いが、俺は生まれついての人間なので、それはわからないよ。ただ、そうあるばかりと願うことしかできない」
「優柔不断な山瀬君らしい物言いね」
加藤は、シニカルな微笑みを浮かべた。
「そうか? 自覚していなかったけど、そうかもしれないな……なあ加藤」
「何?」
「一時期だけど、俺は間違いなくお前に惹かれていたよ」
「あら、それは光栄ね」
「あんな言葉をかけてもらったのも、人生で初めてだった」
「……人生で初めて告白されたのに、上手く受け流すなんて、案外山瀬君って器用なのね」
「……そうかもしれない。まあ、それはさておき、だ」
俺はそう言って、一度息を吸う。呼吸を整え、目の前の存在を見据える。
「俺はお前の綺麗な歌声に、その柔らかい笑みに、優しげな雰囲気に、きっと惹かれていた。そして今、お前と戦い、それらの記憶はこの戦いの記憶に上書きされつつある」
「……それで?」
加藤は微笑む。
「……その記憶が血に染まり、腐り果てる前に。一片の清らかなものが存在する今のうちに」
俺は右腕を掲げ、爪を開く。五つの黒い半月が、夜を切り裂く。
「頼むから、死んでくれ」
願うような言葉と共に、俺は爪を振り下ろした。
加藤の胸元に、爪が突き立つ。
「…………くふっ」
加藤は喀血し、黒の上に黒が散る。
「……まだ、浅い、浅い。浅い、浅い浅い、浅い」
加藤の両手が俺の爪を掴む。何をするのか、と刹那、俺が思うと。
加藤が俺の爪を掴み、自身の胸元に深く押し込んだ。
「浅い。狩るのでしょう? 殺すのでしょう? 死なせるのでしょう? 私もあなたも、今は命を刈り取る獣。何を迷っているの?」
加藤が、狩られる側の者が、まるで獲物を見据えた猛獣のような目つきを俺に向け、笑う。俺はその瞳に、少し圧されている自分を自覚していた。
「刈り取るだけじゃ足りない。全て、喰らい尽くしてくれないと」
さらに、深く爪が突き刺さる。血液を、俺の腕はむさぼりつくすように吸っていた。
加藤の血を吸う度に、俺の中に感情や記憶が流れ込んでくる。
俺と初めてカラオケに行った日のこと。尽影に喰われたときの恐怖。尽影になったあとの記憶。初めて食べた人間の味。そして御厨の味。
そして――。
歌姫の中に、加藤の感情はそっくりそのまま残っていた。
「……やめろ」
「やめない。もう、手遅れだから」
「……やめてくれ」
目の前の怪物は、醜悪な笑みを浮かべながら俺に告げる。
「絶対に、やめない。私が好きな貴方は、あの子が好きな貴方は――」
感情が流れ込んでいる。今この瞬間生まれた感情が、俺の中に流れ込んでいる。
それは恐怖、怒り、絶望。何よりも大きい、悲しみ。
今、歌姫の中に、加藤は存在していた。
「私とあの子を狩り、殺し、喰らい尽くして……、それでも尚、生きていくのよ」
「――ッ、やめろっ!」
加藤は俺の行為を許すことなく、ただやめてくれと切望している。それはわかっている。
涙を流している加藤が、鮮明に浮かんだ。
そしてその像が俺の脳裏に焼き付いた瞬間、俺の中で何かの線が切れる。
それは、人間らしさとか、そんなものだったのかもしれない。
殺す。ただ、そう思った。生きるために、殺すのだ。
「……すまない」
俺は加藤に詫びる。これからする行為が、どういうものか理解しているからだ。
俺はこれから、加藤を踏みにじり、この尽影を狩る。そして、生きていく。
これはもう、やめることはできない。
やめれば、俺の戦う理由が立ちゆかなくなる。
相手の中に人間の感情が残っているとわかっているから止める? そんなことをしたら、今までの俺は何だったんだ?
たった今、俺が歩いている夜の道は、影一つない漆黒である。
それどころか、その漆黒は底無しで、沈めば沈むほど、身動きが取れなくなるようなものだ。
どうして俺だったのだ。あの日の水無川に、そんな問いをしたくなる。
尽影の中に、元となった人間がいるのならば。俺たちが今まで狩ってきた相手は、一体何なのだろうか。
怪物なのだろうか。
怪物と化した人間なのだろうか。
どちらだろうか。
惑うも、立ち止まることは許されない。
俺は目の前にいる怪物を見る。怪物は、その最期をもって俺に傷を残そうとしていた。
「……なあ加藤」
ぽつり、と言葉を漏らす。怪物は、ただ黙って俺の言葉を聞いている。
「俺はさ、嬉しかったよ。田中と、加藤と、遊べたのが。……俺は、そういうこと、今まで出来なかったから」
理由はわかっている。平たく言えば、“家庭の事情”と俺の性格だ。
「俺に好意を向けてくれたのもありがたかった。……尽影に喰われたあとだけど、俺に伝えてくれた言葉も好意も初めてのものだった。……新鮮だったよ。世界が揺らいだ」
もう、どうすることもできない。この戦いの果ては決まっている。ならば、終わりまでの道程をどうするかということに、腐心するしかない。
「あの日の言葉、もう一度返事をさせてもらう。……ありがとう、すまない。勝手な願いかもしれないが……、それでも、ずっと友達で居て欲しい」
俺がそういうと、目の前にいる一人の女の子が、ふわりと微笑んだような気がした。
それは俺が何度も見た微笑みで、思わず、俺の視界が歪む。
けれど、俺の信念は歪ませることはない。
ただ、狩る。
深く、深く、爪が突き立つ。
そして――。
目の前にあったものが崩れて、足元には黒い池が広がった。
影と紅のアウローラ 眼精疲労 @cebada5959
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