2.「今から君は、好きという言葉を言えなくなったから」

 親からもらった小遣い千円をすでに使い切った頃には、胃もだいぶ膨れていた。焼きそば、はしまき、かき氷、りんご飴。これで千二百円。自分の財布から小銭二枚を手出ししたときにはさすがに使い過ぎた罪悪感を覚えた。

 屋台の食べ物は高い。スーパーや駄菓子、果てはコンビニよりも割高になっている事実は、中学生だって分かる簡単な引き算だ。それなのに買ってしまうのだから、祭りには財布のひもを緩める魔法がかかっているみたいだった。


 蚊に刺されたふくらはぎをかきながら、僕は賑わう屋台から離れた石垣に背を凭れて立っていた。幅の広い階段を、何十人もの人たちが上り下りしている。城内の広間に軒を連ねる屋台を皆が目指している。僕がさっきまでいた場所だ。

 時折り、太鼓や笛の音が聴こえてきた。遠くの方では毎年聴く「おてもやんサンバ」の音楽が流れていて、すぐ側の道路を踊り子たちが踊っている。ここからでは見えないけど、移動する度にそれは目に映っていた。人だかりの間を踊る何千人もの踊り子たちの姿は、心を妙に浮き上がらせた。


 親から買ってもらった型落ちのスマホを立ち上げ、メッセージアプリを開く。幸四郎こうしろうを含む数人のグループトークには、今からこっちに向かうという旨のメッセージが一人から入っている。

 

 一緒に祭りに来た友達と、僕ははぐれていた。正確に言おう。はぐれたのは幸四郎で、奴を探しに歩き回っていたら結果的に僕以外の友達が合流できてしまったという形だ。

 アプリでそれぞれの状況確認ができた為、人込みから離れたこの場所に集合ということになった。一人ぼっちの僕への配慮というやつだ。蚊のかゆみに耐え、じんわりとかく汗を拭いながら、五分ほど待っていた。


「へいへい、そこのボーイ。一人でなにしてんの、彼女待ち? それとも振られたあと?」


 石垣を背に、右手側の人の波ばかりを眺めていた。左手側から唐突にそんな声が聞こえてきて、僕は首を百八十度回す。そこにいたのは幸四郎たちではなく、見知らぬレインコートの女(?)だった。


「お姉さんが慰めてあげようか。いけないこと、しちゃう?」


 自称お姉さんの色仕掛けにこんなにも心躍らなかったことに自分でも驚く。身長差のあまりない彼女が身を屈めて無い胸を強調しても、それはまるで尿意を我慢している同年代の子供にしか見えなかった。トイレなら道路を挟んだ駐車場にありますよ、と言ってあげようか悩んだ。


「なあに、まさか照れてる? 本気にしちゃってる? いけないことってこれだよ、じゃじゃん! 線香花火。ここ火気厳禁なのにー」


 女の距離感はかなり近い。僕が少しでも肩を張ればぶつかりそうな位置に立っている。

 深くかぶったピンク色のベレー帽は、夜と橙色の街灯のせいで最初その色だとは気付かなかった。それを言うならレインコートの色が同色であることも今さら気付く。と言うか、雨なんて降っていないし降る予報もなかったのにレインコートを着ていることがまずおかしい。


 両手に線香花火の束を持って小躍りする女の頭からつま先までをまじまじと見詰める。帽子のせいで顔はよく見えなかったが、声や帽子からはみ出た髪の長さから彼女が正真正銘の異性であることは窺えた。

 自分の中で疑問が一つ解消されると、次なる疑問が浮上する。そもそもの話、相手の性別や服装の前に懸念すべき点があるのだ。


「ちょちょーい、そろそろ反応してくれませんかね。無視はよくないよ、学校の道徳で学ばなかった? お姉さん傷つくよー、傷心すると根に持つタイプだよ」


 僕は一度、人の行き交う道を眺め、そこからゆっくり辺りを見渡しながら再び女へ振り返る。僕以外の人間が近くにいないかを確かめた。道から逸れたこの石垣の側に立っていたのは、僕と女だけだった。

 

 であるならば、女は僕に話しかけている。いやそんなこととっくに気付いている。助け舟を求め、微々たる可能性にかけて自分以外の人間を探したに過ぎなかった。

 どうやら、対処するのは僕以外にいなさそうだ。


「あの、本気で無視だけはやめて? 何か言ってよー、あとか、いとかさ」

「あ」


 反応に困った僕は、とりあえず女の言う通りに声を出してみる。

 女はオーバーリアクションにエビ反りに背を曲げた。まるでテレビでよく見る芸人のリアクションだった。


「君おもしろいなー。本気で言うか普通、何だこれ、あっははは」


 勝手に振っておいて、勝手に手を叩いて笑う。

 僕はだんだん、彼女とのやり取りに疲労感を覚えてきた。厳密にはまったくやり取ってはいないのだけど、まあ細かいことは気にしない。

 とにかく早々に、怪しげな女の許から去る方法を考え始めていた。


「あの……僕に何か用ですか」


 単刀直入に訊くことが一番の近道だと思った。無視して逃げ去るよりは道徳的だろう。何気に彼女の言葉を気にしていた。


「何だよぉ、早く話を切り上げようとしちゃって。もちっとお姉さんとの出会いと会話を楽しみなさいよ」


 魂胆は筒抜けだった。頬を膨らます女のぶりっ子を前に、しかし僕も態度を変える気にはなれない。知らない他人に冷たくすることは後ろめたいと思える性格ではあったが、如何せん彼女は例外だった。

 女の話し方や、態度や、距離の縮め方はあまりにも自分とペースが合わない。マラソンで足の速い奴と無理矢理ペアを組まされた感じだ。歩幅の合わない奴と一緒に走れば、どちらかがストレスを感じるのは当たり前のことだ。


「頑固だねぇ。そんな性格だと本当に振られるよ」

「彼女とか、いませんから」

「ありゃ、冷たーい」

「あの、僕友達と待ち合わせしてるんで。用があるんなら早く言ってくれませんか」

 

 いい加減、うんざりだった。緊張しながらも、責めるように言った。

 途端、女の表情が少し締まったように見えた。睨まれた、かもしれない。怒りたいのは僕の方だと、できることなら言い返したかった。言わなかったけれど。


「おいおい、何生き急いだようなこと言ってるのさ。中学生の分際で生意気言うんじゃありません」


 ピシっ、とデコピンを食らわされる。突然のことに回避できず、まっすぐ受け止めてしまった。痛くはないが、気持ちはモヤモヤした。

 女の口ぶりは怒気とおどけが入り混じっているようだった。彼女の喜怒哀楽を把握するのは難しかった。


「まあでも、時間ないのは確かだね。うちこの後遠出しないといけないし。はぁ、飛行機めんどー。魔法の絨毯とか無いかな、歌いながら行くのに。ほーるにゅーわーるど」


 下手くそな歌を、額を摩りながら聴いていた。下手なことは言うまいと思った。会話を切り上げる一番の近道が、彼女のペースに合わせることだと気付いたからだった。


「さて、ここで問題です」

「え?」


 しかし話は遠回りする。僕は怪訝な顔をつくる。


「君に好きな人はいますか?」

「それ、質問なんじゃ」

「ノンノン、問題だよ。答えよー」


 知らない人相手にあまり自分のプライバシーを答えたくはなかったが、言わないとこの会話も終われないと思い、渋々付き合う。


「いませんけど」

「ぶっぶー。残念、不正解」


 女は唇を突き出し、胸の前で腕をクロスする。ムカつく。


「え、いやちょっと」

「第二問!」

「えぇ」


 自分事を正直に答えたのに勝手に不正解にされ、あまつさえこっちの声に耳を傾けない姿勢に面食らった。

 指を二本立てる彼女を、僕は不満げに見詰めた。


「君を好きな人はいますか?」


 つい、間をつくってしまう。女に悟られないよう、わざと面倒くさそうな表情を浮かべて見せた。


「知りませんよ、そんなこと」


 いい加減に答える。


「知らないわけないでしょ、クソガキ」


 唐突な口の悪さに、怒りよりも先に戸惑いを覚えた。

 口許は笑っているのに、それ以外の顔のパーツは笑っていなかった。常に浮かべた笑みの中に違う感情があることに僕は次第に気付きだしていた。


「ほら、早く答えて。イエスorノー」


 or、の部分だけやたらと発音が良かった。

 不本意ではあったが、答えるべく頭を回す。不意に現れる女の一面を警戒している自分がいた。未だに緊張が解けることはなかった。


「いたかも、しれませんね」

「はーん、なるほどねぇ、ふーん」


 正解とかじゃないのかよ。心の中でつっこむが表情には出さないようにした。


「ラストクエスチョン!」


 三つ目の指を立てて宣言する彼女。

 未だに要領を得ないまま、ついに最後の質問らしい。


「君に好きな人ができたら、もしくは君のことを好きな人がいたら、その気持ちを受け止める覚悟はありますか?」


 僕は、また間をつくった。すぐには答えられない質問だった。

 質問には一貫性があるように思えた。それらは全て恋愛に関する内容のものばかりで、質問自体はそう難しくはない。

 けれど三問目に関しては、一見単純そうに思えて、実際のところ中学生の僕には難しい質問のような気がした。


「……質問の意味がよく分からないんですけど」


 素直に答えた。誤魔化したわけではなく、本当にそう思ったのだ。

 だが、女の表情からまた笑みが半分消えたことで、自分が失言をしたのだと悟った。


「おいおい、分からないわけないじゃん。自分が何したかくらい覚えてるでしょ?」


 口許は笑っているのに、目は笑っていない。

 まるで見透かしたような言い方だ。彼女は僕以上に僕のことを知っているみたいだった。僕よりも知っているなんて、そんなことあるわけないと思った。


「もしかして、知らないフリしてんの? よくないなぁ、さっきも言ったけど、無視するのは道徳的にいけないことだよ」


 女が、不意に手を掲げる。その先に摘ままれた白い手紙封筒が視界に入った途端、僕は女が何を言っているのか、何を聞きたかったのかを八割くらいは理解した。

 思考の視点が合ったようだった。


「んで、お姉さん根に持つタイプなんだ。終業式の朝、君はこれを読んでどうしたんだっけ?」


 僕は答えることができなかった。夏休みの前日、下駄箱に入っていたその手紙を読んだ自分がどうしたのか、たった二週間前のことを覚えていないわけがない。


「んじゃ、もう一回だけ訊くね?」


 僕によって遮られていた街灯の薄明りが、女の顔を照らした。初めてよく見えた彼女の顔は、正直言って可愛かった。

 表情全体に笑みが戻っているが、もうその笑顔を本物だとは思えなかった。


「君に好きな人ができたら、もしくは君のことを好きな人がいたら、その気持ちを受け止める覚悟はありますか?」


 まったく同じセリフだったのに、さっきよりも強調的に聞こえた。

 僕は思考を回して答えを探った。選択肢に黙秘はなかった。イエスorノー。二択を何度も繰り返し考え、選ぶ。


 手紙の真実を知っている彼女には、嘘は見抜かれると思ったから、ただ正直に答えた。


「……多分、無いと思います」

「残念、不正解」


 意外過ぎる回答に、面食らった。


「でも合格」


 不正解なのに、合格? 自分が何に受かったのかなんて分かるわけがなかった。

 三つの質問をことごとく外したのに、そんなことってあるのだろうか。それに答えはどれも僕の予想の反対だった。

 好きな人がいるかに対して、正解は「いる」。僕のことを好きな人はいるかに対して、正解は「?」。最後の質問に対して、正解は「ある」。

 僕のとは真逆の答え。もしかして嘘をついているのは女の方なのではないかと思った。


「君はうちの期待通りの人間だったよ」


 言いながら、女が顔を近づけてくる。鼻と鼻がぶつかりそうな距離。呼吸をすれば吐息がかかりそうで、息を止める。止める寸前、息を吸ったことで彼女から甘い香りがした。


「そんな君に、罰とチャンスを与えよう」


 女の吐息がかかった。

 かと思った矢先、彼女の小さな両手が、僕の頬を支えるようにして優しく包み。


 唇と唇が重なった。


 柔らかな感触に、甘い味を覚えた。

 頭が真っ白になって、何も考えられなくなった。

 時間が止まったようで、でもその時間は一瞬で過ぎ去ったようにも思えた。


 気が付けば、女は僕から手と口を離し、一歩後ろへ下がっていた。


「今、君に魔法をかけた」


 潤った唇を舐めながら、女は言う。橙色の外灯が、奇抜な格好の彼女を照らしている。


「罰とチャンスだよ。今から君は、好きという言葉を言えなくなったから。言ったら死ぬから、あしからず」


 軽い口調だ。嘘みたいな言葉だ。僕は信じる気がなかった。口に残った感触で、それどころではなかった。


「じゃ、また」


 ピン、と伸ばした右手を上げて、まるで明日にでも会うかのようなさよならの挨拶。それと同時に、後ろから声がした。


まことー!」


 幸四郎の声だと分かって、一瞬だけ振り向き、でもやはり女のことが気になって顔を戻す。

 そこにはもう、彼女の姿はどこにも無かった。


 一通の白い手紙だけが、足元の石垣に立てかけられていた。

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