3.「そこに、好きな人がいるんです」
「どうしてそんな重要なことを忘れてたのよ」
当時のことを説明すると、
魔女とは夏頃に出会ったことは覚えていたものの、それが『火の国まつり』の日だったことだけが記憶からすっぽり抜けていた。
「まぁ、思い出したからと言って、魔女と再会できるヒントにはならなさそうだけれど」
海付はそう言うと立ち上がり、帰る姿勢を見せた。僕も倣って再び腰を上げた。それぞれ市電と自転車で来ていたため、僕らはアーケード街の中心部で別れることとなった。
「何かあったら、また連絡するよ」
「あんまりしつこいのは嫌いだからね?」
海付は念を押して踵を返し、余韻も感じぬ足取りで市電駅の方へと去っていった。振り向くことなんてないのに、僕はその背中をしばらく眺めていた。
四年前の火の国まつりでのことを話したが、手紙のことまでは話せなかった。知られたくない内容だったからだ。
しかしそれが懸念すべき材料であることには気付いている。魔女が仕向けたのか、たまたま見つけたのか分からないが、手紙が何かしらの原因を招いたのは間違いない。
海付さんにもそういう『原因』があるはずだったが、それを聞き出すには自分からカードをきる必要がある。正直、手紙について話すのは躊躇われた。
魔女との出会いを思い出したことで得られた情報は、それくらいのものだ。進展というよりは、謎がひとつ増えただけのような気がした。
海付さんが人混みに紛れて見えなくなったころ、ようやく僕も踵を返して愛車を停めた駐輪場へ向かうことにした。
考え事は無くならない。魔女のことで頭を埋めつくしている。
故に、振り返った先にそれが近付いていたことに、右足を一歩踏み出す前から気付くことができなかった。
「わっ、つ!」
「ほわっ、と!」
なぜだか英語で「なに?」と叫んだ後、その声に気付き顔を上げた相手も発音の違う「なに?」を放つ。
双方、避けようと体と乗っているものの軌道を変えようとするが間に合わず、足をひっかけた僕は彼に覆い被さるように倒れ、しかし乗っていた車椅子が思いもよらぬ方向へ曲がったせいで手をつく場所を見失い、僕一人だけが硬いコンクリートに転んだ。
肩と腰骨をぶつけたせいで激痛が走り、あー、やー、と間抜けな悲鳴を上げてしまう。
そんな中でもなんとか車椅子の状況を確認。横転していないことに安堵し、心置き無く自分の痛みに集中した。
「すみません! 大丈夫ですか!?」
車椅子の上から声が飛んでくる。ハツラツとした滑舌の良い喋り方。動揺を見せながらに謝罪言葉の一言一言を丁寧に述べ、それだけで許せてしまえそうな姿勢が窺える。
「あぁ、はい……だ、いじょうぶ、です」
僕は痛みに目をしかめながら、頭上の彼に視線を向けた。そのときすでに彼は僕から視線を外し、なぜだか側の通りかかった通行人の一人に声をかけていた。
「すみません、その方を介抱していただけませんか? わたしのよそ見のせいでぶつかり、横転させてしまって。この体では手伝うこともままならないのです」
明確な説明だった。事態に気づいた通行人の年配女性は快く引き受け、僕の側へ駆け寄ってくれる。
すでに立ち上がりかけていた体を支えてもらい、怪我や容態を訪ねてもくれた。痛みはあったが大した怪我はなさそうだったので、僕は女性に柔らかく断りと礼を述べて事態を収めた。
車椅子の男も女性に誠意ある謝礼を述べると、女性はまるで優越感に浸るような笑顔で去っていった。面倒ごとに巻き込まれたという意識は皆無に見えた。
「本当にすみませんでした。お怪我はなかったでしょうか?」
すっかり立ち上がった僕に、男は紳士的に話しかけてくる。銀縁の眼鏡をかけた聡明な顔に程よい罪悪感を浮き上がらせて、目力のある瞳でこちらを見上げてきていた。
倒れたとは言え、自業自得な部分も大いにあった。そうでなくても男の表情を見れば、責める判断はまず浮上してこなかった。
「あ、ほんと大丈夫ですよ。こっちこそ、ぶつかってすみません。周りが見えてなくて」
非を認めることに、彼相手では何も抵抗がなかった。
「いえ、わたしの方こそよそ見をしていました。本当に、どうお詫びをしたらいいか」
「そんな、大袈裟ですから。車椅子が倒れなかっただけ、よかったですよ」
本当にそう思う。
こんなに謙虚な人間を傷付けずに済んだのだから、被害は最小限に抑えられた。自分が軽傷を負う分、どうってことない。
「そう言っていただけると、救われます。ですが差し支えなければ病院へ行ってください。軽傷でも油断すると大きな病気にかかる恐れもあります。もちろん医療費はわたしが負担させていただきますので。あと、お召し物が汚れていればその分のクリーニング代、もしくは弁償させていただきます。よろしければご連絡先を教えていただけませんか? 携帯番号か、何かSNSをやっているのならそちらのアカウントでも構いませんので」
僕は面食らっていた。その発言力にタジタジになった。ええ、いやいや、と手を振って拒んで見せても男に引く気配はなかった。
細身な体格に見合わない力のこもった姿勢と、銀縁眼鏡の奥から見据えるギラギラとした瞳と、引き締めた表情には何の揺らぎも無いように見えた。
しっかりし過ぎている。男はまだ若いようにも見えた。歳は行っても二十歳くらいで、僕よりそこまで離れていない気がした。僕と同じく童顔なのかもしれなかったが、幼いというよりは若々しい印象が強かった。
歳があまり変わらないのに、その積極的な謝罪への姿勢は大人も顔負けだろう。僕の生涯でここまでしっかりした人は見たことが無かった。
「あれ、どこに」
男が何かに気付いたように、辺りを見渡し始める。清潔感のある白シャツの胸ポケットや、ネイビー色のチノパンツのサイドポケット、車椅子と自分の尻の間、背中。周囲を見回し、むむ、んん、おかしいな、と独り言を呟いている。
失くし物だろうか。僕も一緒になって首を伸ばし周囲を探す。腰を落とすと、キャスターとフットサポートの間に裏返しになったスマホを見つけた。手帳型のケースは無造作に開かれている。車椅子の上からはちょうど死角になってしまっているのだろう。これが男の落とし物に違いなかった。
手を伸ばして拾い上げる。画面が割れていないかの確認のために裏返すと、覗き見るつもりは無かったがそこには地図アプリが表示されたままだった。拡大された地図アプリには赤いピンが刺され、その場所を僕は一目で把握する。
「あの、下にありましたよ」
「ああ。重ね重ねどうもすみません」
男は相変わらず丁寧な態度でスマホを受け取る。
「画面は割れていなかったみたいですが」
「いや、良かった。買ったばかりだったので、もし壊れていたらショックでした」
気さくな応対。浮かべた苦笑には人懐こそうな雰囲気が漂う。知らない他人なのに、会話が苦にならない。
「いや、しかし壊れたとしても自業自得ですね。『ながらスマホ』はよくありません。そうでした、連絡先を」
さっそくスマホを操作しだす男に、僕は何となく手を差し伸べたくなった。謝礼などとっくに済んでいる。病院代もクリーニング代も、ましてや弁償代も出させるつもりはこれっぽっちもなかった。
「あの、もしかして道に迷ってました?」
「ああ、はは、地図アプリを開いてましたから気付きますよね」
男は指を止めずに答える。連絡先を探すのに戸惑っている様子だ。地図アプリも目的地だけが表示されており、ナビが起動しているわけでもなかった。機械オンチだろうか。予想したが、わざわざ口には出さないようにした。
「実は東京からさっきこっちに着いたばかりで。初めてな場所なもので土地勘がまるでないんです。市電、でしたっけ。その乗り方もままならないのでバス移動をしたかったのですが、近くのターミナルがどこにあるのかも分からず、ただただ彷徨っていまして」
不甲斐ない、という風に表情を歪める男。スマホの操作はまだ止まらない。機械オンチに方向オンチ? 意外とどんくさい一面もあるのかもしれないと思うと、親しみやすさが込み上げた。
車椅子で旅行というのもなかなかハードなことだろう。付き添いの人はいないのだろうか。一人ならば、尚更放ってはおけない。
「そこ、〇〇高ですよね? 案内しましょうか。実は僕、そこの在学生なので」
男は一瞬だけ目を丸くすると。
「通りで、見たことのある制服だと思っていました。その校章も」
カッターシャツの胸に縫われた刺繍を指差し、気持ちいいほどに驚く男の顔には笑みが漏れている。テレビのIQクイズ番組でアハ体験をしたときのような表情だと思った。
「いやしかし、怪我をさせておいて、道案内までさせるわけには」
「もう痛みも引きましたし、遠慮しないでください」
若干の違和感はあっても、痛みはいつの間にか和らいでいた。
謙虚な男はこのままでは首を縦に振らないと思い、僕は半場無理矢理に彼の背後に回り込み、手押しハンドルに手をかける。
「ここ、市内で一番人が集まる場所なので。一人だと危ないと思いますし」
「確かに、また誰かにぶつかっては元も子のないかもしれませんね」
男は自分に皮肉を向けることでようやく納得してくれたらしく、背もたれに体重をかけて左側のブレーキを解除する。僕は少し動いた車椅子に少々戸惑いながら、介助用のブレーキに握力をかけてどうにか制御した。
「申し訳ありませんが、お言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
彼は謙虚でありながら、しっかりと引き際を弁えているように見えた。そういうところが接しやすい理由のひとつかもしれないと思える。何事も過剰はよくないことだと理解し、人に甘える礼儀を持っている。一貫して芯が強い人の行動だと思った。
僕は押し慣れない車椅子を、緊張しながらゆっくりと進めだした。駅が狭い市電よりも、広いターミナルから乗れるバスの方が利便性が良いと考え、そこに向かう。
海付が
ターミナルまでの道中、男は自分が機械オンチなのだということを告白してきた。
僕が思わず「やっぱり」と答えると、男は「バレていましたか」と笑った。実は方向オンチだったりもして。そう返そうか考えて、行き過ぎた言葉は飲み込んだ。
もし言っていたとしても、男は笑ってくれたに違いなかったけれど。
「うちの学校に、誰か知り合いでもいるんですか?」
代わりにそう訪ねる。わざわざ県外の高校へ行こうとする男の事情を気にならないわけが無い。
まさか学校マニアというやつかもしれない。撮り鉄なんかが注目される世の中だ、全国の学校写真を集めている人がいたっておかしくないと思う。
「知り合いと言いますか」
男は道の先を見つめていた。ここからではつむじしか見えず、表情は窺えない。頼りになるのは声色だけだが、その声すら今もハキハキとしていて心情を読み取るのは難しそうだった。
「そこに、好きな人がいるんです」
しかし、心情は声ではなく言葉のままに受け取れるものだった。
男はそう答えるのに、まるで迷いも躊躇いもなかった。
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