6.「浅久野くんって、もの好きよね」
かれこれ十分、ここにいる。
旧校舎、開放された外階段の一番上。三階建ての校舎からもう一つ上に登った、屋上への鉄柵扉が閉められた手前の空間。ここに来る生徒は誰もいない。教師でさえも、立ち入ることのない場所。
雨が降っている。降水確率八十パーセント、一時間に一ミリの雨。コンクリートの屋根はあるけれど、尚更こんなところに居座る人はいなかった。私を除いて。
肌に飛んでくる雨粒の欠片を感じながら、雨音や、生徒が階段を駆け上がる気配に耳を傾ける。そうして頭の中を空っぽにする作業に没頭する。コンクリートの硬い階段は冷たくて、お尻が痛くなる。それでも立ち上がる気にはなれず、膝に肘を立てて、頬杖をつくようにして自然の音に意識を拡散させた。
鼻からため息が漏れた。もう何度目かも分からない、深いため息。自分が何をやっているのか次第に分からなくなってくる。何のために、夏服の袖を濡らしながらこんな場所に居座っているのか。どうして私が孤独になっているのか。
そうよ。なんで私が打ちひしがれなきゃいけないのよ。これじゃまるで、私が悪いことをした人みたいじゃないの。おかしいわ、間違っているのはあいつらなのに。
ああ、また振り出しに戻った。頭の中を空っぽにしたいのに、どうしても彼の顔が出てきてしまう。図書室での言葉を思い出してしまう。人気のない場所を選んだのは間違いだったかもしれない。せめてもう少し強く雨が降ってくれればいいのに。こんな音では、自分の意識は逸らせない。
外を眺めてもう一度、雨音に集中する。少し湿度が高く、けれど気温はだいぶ下がって肌寒さがある。制服の袖や裾が濡れたせいもあるのかもしれない。このままだったら風邪を引くかしら。それもいいかもしれない。しばらく学校を休んだ方が、何かと上手くいくような気がする。
「そんな所にいたら、風邪引くよ」
足下から声がした。声だけで誰が来たか分かる。
また、振り出しに戻ってしまう。
「……ストーカーが特技なのかしら?」
私は命を一瞥して言う。視線を濡れ続ける校舎の壁や植木にばかり向けた。
「これでもけっこう探し回った方だよ。皆で手分けしてさ」
階段を上がってくる気配。私の皮肉に動じない口調。
思わず身を引き締めて、表情を硬くする。長い髪を利用して、前髪で器用に目許を隠す。
「僕が
声が一段と近くなった。気配も直ぐ側に感じた。気付かれないよう、視線を足元に下げると命の上履きが見えた。私より二段低い階段に立っている。裾が雨の雫で少し濡れている。
「何しに来たの」
どこかで聞いたようなセリフを、そのまま口にする。考えるのは面倒だった。いや、考える余裕が今の私には無かった。命が現れたことで動悸がした。胸がざわついた。
「
また、あの子は余計なことを。
頭上に落ちてくる言葉は、脈を速くする。
「……ごめん」
胸が、ざわつく。でも今回のざわつきは、これまで彼に感じていたものとは少し違う。
謝られるなんて、夢にも思っていなかった。私はどう反応すればいいのか分からなくなって、唇を引っ込めた。さっきよりも若干、首の角度を緩めながら。
「海付さんのこと、まったく分かってなかった。僕はてっきり、君がただ諦めているだけだと思ってたんだ。元の体に戻る方法なんて無いって、鼻から決めつけてるだけだって。浅はかな考えだった」
「……元の体に、戻りたくないわけじゃないわ」
ふて腐れた子供みたいだ。
自分がやっていることに自覚はあっても、素直に命と対面する勇気はない。ここまで貫いた姿勢や意思が邪魔をしているみたいだった。一言で言えば、プライドが壁になっている。分かっているけれど、理解と改善は一緒にできるものではない。
「私にだって、いろいろあるの」
だから、こんな言い方しかできない。
「うん。気付くべきだったのに、気付けなかった。僕はもっと君を見てあげるべきだった」
「自惚れないで。べつに、あなたに全てを察してほしいわけじゃないわ。期待もしてない」
「そうだよね。ごめん、言い方を間違えたよ」
間ができる。命は言葉を頭の中でまとめているみたいだった。私は黙ってそれを待った。
「押し付けるべきじゃなかった、って言えばいいかな。僕は自分のことばかりで、君の気持ちをあまり考えていなかったと思うから」
頬杖を解いて、命を見やる。その言葉を聞いて、今は敵意が消失した気がした。きっと、彼の理解を受け止められたからだと思う。
視線が交わると、顎を引いたのは命の方だった。頭の癖毛は雨のせいかもっと酷く捻じれていて、湿っぽい。童顔の表情はバツ悪そうに歪み、私を見る目には控えめさがある。図書室で見た自信満々の彼とは雰囲気が違っていた。何だか調子が狂った。
「あなたの気持ちは分かってるつもり。元の体に戻れるなら、そうするべきよ。でも、私とあなたは似た境遇のようで、少し違うわ」
スカートから覗く、手で囲んだ自分の膝を眺めて言う。引け目を感じている様子の命はいつもの彼らしくなくて、私もつい口調をやわらげる。
「不幸のベクトルが真逆なの。あなたの不幸はあなた自身に向くけれど、私の不幸は他人に向くのよ。自分が傷つかないからって、それは必ずしも喜べることじゃない。仮に私の呪いが解けても、過去に傷つけた人がそのままなら、私は今の体のままの方が救われるのよ」
果たして、ここまで説明する必要はあるのか。私の考えを訴えて何になるのか。納得してもらおうとも、理解してほしいとも思ってはいないのだ。ただ、そっとしておいてほしい。それだけの願いだ。
それなのに、喋ってしまう。命には、つい話してしまう。
「だから、私のことは放っておいて」
自分で言ったくせに、その言葉はなんだか苦くて、気持ちをモヤモヤとさせた。唇が震えている気がして、彼からそれを隠した。
離れることを望んでいたはずなのに、言ったあとの心はまったくスッキリしていなかった。
「ごめん、それは無理だ」
だから、なのかもしれない。
そんな完全拒否をされても、苛立ちが浮上しなかったのは。
「え?」
聞き返す。ちゃんと聞こえていたけれど。
「無理だよ、放っておくなんて。勘違いしてるようだけど、僕は謝りはしたけど、諦めるなんて一言も言ってないよ」
「何言ってるのよ。私の話、聞いてたでしょ。元の体に戻るつもりは無いの」
「うん、聞いたよ」
「だったら」
「だったらさ」
命が、私を遮って同じ言葉を被せた。弱々しい私の声は、たった一言で簡単に消し去られてしまった。
彼は相変わらず、身振り手振りを大きくして先を続けた。
「まずは、海付さんを先に救うから」
「……意味分からないわ」
本当に意味が分からなかった。私を救うとは、つまり、何をどうするつもりなのか。
「僕らが、海付さんを救うんだ。君の過去から、君を救うんだよ」
「私の過去から……?」
きっと今の私はアホ面をしている。命の言っていることがまだ理解できていない。
「そう。だって海付さん、さっき言ってたよね。元の体に戻りたくないわけじゃないって。それってつまりさ、戻りたいってことなんだよね」
当たり前のことなのに、どうしてだかその言葉は心を揺さぶった。気付いていなかった自分にも、少し驚いた。
「戻りたいなら、戻らなきゃ。そんな人を放って自分だけ呪いを解こうなんて、僕はしたくない。救われるなら、皆で救われないと」
「私が救われても、私が傷付けた人は救われないわ」
「いいや、君が救われるときは、きっとその人たちも同じように救われる」
「どうして分かるの」
「勘だよ」
「勘、って」
ふと、自分が笑っていることに気付いた。すごく馬鹿馬鹿しい理由だったからだと思う。予想できなかった答えに、自然とそんな反応をしていた。
釣られるように、命の顔にも笑みが浮かんでいた。
「あなた、楽観的すぎなんじゃないの?」
「そうかもしれないなぁ。僕、決めたことはやり遂げないと気が済まない人間なんだよ」
「説得力も何もあったもんじゃないわね」
「でも、信じてよ」
本当、説得力とか根拠とか理屈とか、そういうものとはかけ離れている。命の言葉はてきとうだし、相変わらず押し付けがましい。人を説得するのに、勘なんて言葉を使う人を私は初めて見た。
初めて見たからこそ、これまでに感じたことのない気持ちが浮上した。それを言葉で説明するのは、今の私には少し難し過ぎる。
「……無責任は嫌いよ?」
私たちは、互いを真っ直ぐ見つめ合う。上から、下から交わる視線に、嘘偽りは一切ない。少なくとも、私には。
「決めたことはやり遂げないと気が済まない自分に、誓うよ」
その言葉で、命にも嘘偽りが無いのだと確信できた。
ため息が落ちる。このため息は、体の力を抜くために吐いたもの。それと、少しの照れ隠し。
「寒くなってきたわ。中に入りましょう」
立ち上がって、命を促す。
彼はどこか物足りなさそうな表情を浮かべていたけれど、従って体を反転させる。私は気付いていながらも、敢えてそれを伏せた。
とりあえず、という形で落ち着けたかった。過度な期待はしたくない。信用が無いわけではないけれど、命が私を救ってくれるなんて、そんな言葉に全てを委ねようとは考えていない。
ただ、彼を完全に拒否することはやめてあげよう、とは思う。もしかすると、万が一にも、本当に救ってくれる日があるかもしれないし。だから、「とりあえず」だった。魔女や呪いのことに協力だけはしてあげよう、とその程度の着地点に自らを止めた。
きっと私は、放って欲しかったわけではない。私は気づいて欲しかっただけなのだ。自分のことを、身近な誰かに気づいて欲しかった。今までのは拒否ではなく、訴えだった。
そんなワガママに応えてくれたのだし、少しくらいのお礼はしてあげても良い気がした。先に階段を下りていく腑に落ちていない様子の彼の背中に、そのつもりで声をかける。
「浅久野くんって、もの好きよね」
命は足を止め、すぐさまこっちを振り向く。目を丸くしている。驚いた表情は、一瞬でほころび笑みに変わる。皮肉が混じってしまったことに、気づく素振りもない。
「名前、やっと言ってくれた」
「大袈裟よ」
ジロジロと眺める彼の横を追い越して先に階段を下りたのは、顔を見られずに済むからだ。
気恥ずかしくなったなんて、口が裂けても言えなかった。
「名前を言うくらい、どうってことないわ」
そう言ってすぐ、まるで昨日のことを引きずっているみたいだと思って、私はしばらく口を閉ざした。
背中で命が笑っている気がして、階段を下りる足は自然と早くなった。
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