4.「好きなことに好きって言えないなんて、私より重症よ」
やっと雨が降った気がする。
起きると、カーテンの隙間から漏れる陽の光は昨日よりも濁っていて、室内も暗い。耳をすませば雨が窓を叩く音が微かに聞こえる。寝ぼけ眼にカーテンを少し開くと、昨日までの青空はそこにはなかった。
ジメジメとした蒸し暑さがあって、枕元の扇風機のスイッチを入れる。同じ空気でも人工的な風に当たると心地よかった。汗が引っ込んだタイミングでベッドから起き上がり、洗面所に向かった。
リビングには既に父が食後のコーヒーを飲んでいて、新聞を脇に今年からハマり出したキャンプ関連の雑誌を読んでいた。キッチンでは母が三人分のお弁当を包んでいるところで、私の方を見ずに「おはよっ」と挨拶してくる。部屋からの足音で起きてきたことを察知したらしい。それに気付いた父も、雑誌から目を背けることなく「おはよー」と挨拶をした。私は粘っこい口を懸命に開けて、どうにか返事を返した。
そのタイミングで、隣の部屋から足音が聞こえてくる。ダンダンと遠慮のない踏み方は中学一年になった弟の悪い癖だ。あいつに洗面所を先に占拠されるのも嫌なので、足早にリビングを後にした。
起きてから家を出るまでが、いつも同じことの繰り返しだった。
朝ごはんが出てくるタイミングも、父が私たちよりも先に会社に出勤していく時間も、弟が五分で朝食を済ませて身支度を始めるのも、それと入れ替わりに母が私の隣にやっと腰を落ち着けてコーヒーを啜るのも。全部同じで、それが
それは引っ越して間もないこのマンションの一室でも同じことだ。環境が変わろうと、家族の在り方や生活は変わらない。父と母は今も仲良く、私と弟はどうか知らないけれど、それでも絶対に崩れない家族の輪が形成されている。だから、身も心も安らぐ。
学校は嫌いじゃない。クラスメイトとは仲良くやれているし、身の丈に合った高校を選んだから授業にも追いつけている。休み時間は
でもやはり、外の世界は窮屈に思える。理由は言わずもがな、魔女にかけられたこの『呪い』のせいだ。誰とも恋愛ができない。たったそれだけの要素が、私を生き辛くしている。
そんな生活に慣れてきたと思っていたのに、最近また窮屈さが戻ったみたい。原因はきっと、彼らに会ったから。
同じ境遇の人間を見つけて、私の心はざわついた。あまつさえ、命は元の体に戻ると意気込んでいる。それに私を巻き込もうとする。なんて迷惑な話だろう。私はせっかく、今の生き方を見つけつつあったのに。
だから、学校は嫌いじゃないけれど、居づらい場所にはなっていた。
そんなこと言っても行かない以外の選択肢はないから、今日も私はいつものように、母と朝の情報番組を眺めながら女の会話をして、弟ののんびりとした準備が終わる頃に身支度を始めて、変わらない時間に家を出た。
傘の下は蒸し暑かった。バスに乗る弟と別れ、家の前を走る路面電車の最寄り駅へ着くとすぐに傘を畳んだ。汗ばむ首筋に風を送るべく、伸びた後ろ髪をパタパタと仰ぐ。そろそろ美容室に行ってばっさり切るのも有りかもしれない。こんな髪で夏を乗り越えることが無謀に思えた。
「
路面駅の狭いホームの中、線の細い透き通った声が側に聞こえた。声だけで判断できて、迷うことなくホームの出入り口へ首を傾ける。隣に立つ梨子は、ニヘ、と子供のような笑みを浮かべていた。
「おはよ、梨子」
その屈託ない笑みに釣られ、微笑を浮かべる。梨子の存在は安心感をもたらしてくれる。
「蒸し暑いね。雨でも気温下がんないもん」
小さな手で傘を畳みながら、表情に出して言う。少し不器用な仕草にも、ハニカム笑顔にも癒される。
「蒸し風呂よね。サウナみたい。血行良くなりそー」
「そんなに暑かったら死んじゃうよ」
他愛ない会話。私は梨子の前でなら冗談が言えた。それほど心を許す存在だった。彼女のおかげで、電車を待つ時間も退屈ではなくなる。
五分はあっという間に過ぎて、路面電車がきた。交通系ICカードを機械にかざして乗車する。十五分ほどで、高校前の駅へ到着した。
「って感じで、部長の腹踊りが始まったの。そしたら吉里さんが、四つん這いで館内中を走り回ってね」
車内にいるときから始まった梨子の話に、私はうんうん頷きながら降車し、学校へと歩く。傘と雨音が邪魔をするから、梨子の小さな声に懸命に耳を傾ける。
昨日の部活での話らしいけれど、正直内容はあまり頭に入ってこない。腹踊り? 四つん這い? 梨子が演劇部で一体何を教わっているのか少し心配になる。
「後藤さんがウミウシの鳴き真似をしたところで終わったの。部長は、わたしの高所恐怖症のキリンをすごく褒めてくれたんだ」
「へぇ、高所恐怖症のキリン、ね」
首が長い動物なのに高所恐怖症とは、さぞ生き辛い生活を強いられていることだろう。歩くだけで毎回目眩を起こしてそうだ。ああ、なんだか私みたいだ。
それは演劇の訓練らしく、自らが設定した生き物の真似を自分の感性で表現するのだと言う。感受性や表現力を鍛える練習だと梨子は言うが、傍から見れば奇妙な連中の集まりだろう。本人は楽しいと言っているから、余計なことは言わないようにした。
「ねえ、結も演劇部に入らない?」
「え」
急な勧誘だと思った。話をどう転がせばそこに行き着くのか理解できず、予想もしていなかっただけに反応という反応が出来なかった。唐突すぎて、傘を少し上げて梨子の顔を覗き見る。彼女は視線を低くして淡々と歩き続けていた。
微笑を浮かべる、いつも自信無さげな唇がキュッと閉ざされている。
「急にどうしたの」
理由を知りたくて、促すべく訊ねる。梨子は横顔を向けたまま、「うん」と頷いて見せた。
「別にさ、演劇部じゃなくてもいいけど。結も部活やればいいのにな、って思って」
「唐突ね。どうして?」
「楽しいよ、夢中になれるものがあると」
「まるで、私が楽しんでないみたいじゃない」
「違う?」
苦笑を浮かべていた私の顔を、梨子が不意にマジマジと見つめてきた。自然と歩みが遅くなると、彼女も歩幅を合わせてくれる。その瞬間、私の胸がザワついた。バツの悪い感じがした。
傘で顔を隠すこともできたけど、私はそれをしなかった。なぜなら、梨子の目が自信に満ち溢れていたから。いつもは弱々しくて消極的なのに、時おり、こういった表情をするときがあるから彼女は油断ならない。
よく、周りの人は私たち二人のことを姉妹みたいだと言う。私が姉で、梨子が妹。とくに理由のないクラスメイトの気ままな発言だから、不快に思うことも無いけれど、一つだけ言えるのは皆間違っているということ。
梨子のことをあまり分かっていないのだ。皆の見立てはまるで反対で、実は私の方が梨子に引っ張ってもらっていることの方が多い。
命たちと関わりを持ったのだって梨子が取り成したからだし、今だってこうした突拍子も無い提案をしてきている。この学校にきて以来、私の心は梨子に影響されるところが多かった。
「昨日、何かあったでしょ」
おまけに、彼女は勘が鋭い。
勧誘の話が本題に入るためのきっかけなのだと気付き、私は降参とばかりにため息を落とす。同時に正面に向き直って歩むペースを戻した。
「私、そんなに顔に出るタイプ?」
「悩んでるとき、たいてい口数減って聞き側に回ってるよ。自覚なし?」
初めて気付いた。思わず口元を触ってしまう。確かに思えば、今朝から梨子の話ばかり聞いていて、自ら発信していなかったかもしれない。
私の仕草を横目で見ていたらしい梨子が「ずぼし」と一言落とした。
「いつものやつ?」
私たちの間では、魔女の呪いをそういう風に言っている。うっかりで周りの人に公言したくないというのもあるし、あまり口に出すのも気分が下がって嫌になるから。
「そんなところ。昨日、浅久野くんとワックに行ったのよ」
「え、二人で?」
「うん。三十分くらい」
「意外……結が男子と二人で出かけるなんて」
「彼はそこらの連中とは違うでしょ? だからよ。他意はないわ」
魔女に呪いをかけられ、互いに窮屈な生活を強いられている。同じ境遇だからこそ、他の男みたいにただ邪険に扱うことをしなかった。
でもそれだけ。特別好意を抱いているわけではないし、何なら彼は苦手なタイプだ。二人きりのワックだって、彼からの誘いが無ければ行ってなかったのだし。
大袈裟に驚かれるのは、あまりいい気分ではない。
「何話したの?」
訊かれて、答えるまでに間が開いてしまった。
「お互いのことについて、かしら」
「似てるようで違うもんね。浅久野くんと結は」
「断然、彼の方が生きにくそうよね」
「どうして?」
「だって好きって言えないのよ? どんなことに対しても。普通にそんなの無理じゃない。好きなことに好きって言えないなんて、私より重症よ」
まるで昨日の延長戦のように、命への思いを梨子に訴える。可哀想なのはどっちか。その答えを彼女に委ねた。本人がいない分、私の求める回答が出てくれると期待した。
「確かに大変そう。うっかり言えないし」
「でしょ! なのにあいつ、私の方が重症とか言うのよ。偉そうに、どの口が言うかって話よ」
「あー、なるほどねー」
「何よ、その顔」
梨子のパッとしない苦笑顔を、噛みつく勢いで睨んだ。それは私の求めた反応とは程遠く、そしてあまり気持ちの良いものではない。共感してもらいたかっただけだが、真面目で正直な梨子はただ私を気持ちよくさせてはくれなかった。
道行く高校生の数が急に増えた。どれも私たちと同じ制服を着ている。
ふと正面を見ればもう校門の目の前で、学生たちは眠そうな顔を浮かべながら使命感に駆られた足取りで門の中へと吸い込まれていた。傘のせいで人口密度がいつもよりも多い気がした。
「浅久野くんに、同情されたんでしょ」
図星。つい、黙ってしまう。梨子は私を一瞥するだけで、それ以上の詮索をしてこなかった。きっと彼女の中で答えを決めつけていて、それは当たっていることだ。
「結、嫌いだもんね。無暗に同情されたり悲観されるの」
隣の学生に傘の縁を当て合いながら校門を抜け、昇降口へ向かう。人が一気に増え、梨子の言葉も聞き取りにくくなる。
「何だか嫌じゃない。そういう風に思われると、まるで他人とは違うって言われてる気がして、ムカつくの」
フフ、と鼻で笑う梨子。私の意見をどう受け取ったのかは分からない。
「結は素直じゃないんだよねー」
「は? ちょっと、何よそれ」
「結らしいなと思って。強い子だね」
「わけ分かんないわよ。あ、こら、無視!」
心なしか歩みを速める梨子に急いで追いつき、説明を要求する。でも彼女は笑うばかりで私の質問に答えようとはしなかった。何度訊いても、同じように笑って誤魔化された。先に折れたのは私の方で、「なによ」と呟いて唇を尖らせた。
昇降口を抜けて校舎内へ入ると、雨からの解放感に少しばかり肩が軽くなった。盗難防止の為に教室まで持ち込めるよう、傘用の細長いビニール袋が設置されており、それに濡れた傘を入れ込みながら階段を上がる。廊下がずいぶん濡れているのは、雨水のせいだ。カッパを着る生徒はほとんどいないから、持ち込む傘の仕業に違いない。
カッパ。それで私は思い出し、隣の梨子へ口を開く。すでに無視された不満は消化されていた。
「そういえば、昨日魔女に会ったわ」
「え、ほんと?」
梨子は目を丸くして驚く。あの日以降、魔女という呼び名は私たちの中で浸透している。いま気づいたけれど、頭のお団子ヘアは、湿気のせいかいつもより円が崩れていた。
「何か話したの?」
「話したわ。気になることを言ってた」
「何て?」
「元の体に戻れる、って」
「マジかよ!?」
驚愕の声の主が梨子ではないことに、すぐに気付いた。低く声量のある反応は後方から聞こえてきて、梨子がびっくりして階段から足を踏み外しそうになっていた。危ない。
私も少し驚いたけれど、それを隠して振り返る。階段途中、数段下に立っているはずなのに、その男子生徒の頭は私たちの目線とあまり変わらない位置にある。
ツーブロックヘアに、ゲジ眉、高身長で、聞き覚えのある声を足せば、自ずと誰がいるかなんて予想がついた。
「びっくりさせないで下さいよ、緒方くん」
梨子が責めるように名を呼ぶ。緒方幸四郎はアホみたいに歯を見せて笑いながら、「わりぃ」と謝った。
「ちょうど二人の姿が見えたからよ、追いかけちまったんだ。そしたら、気になる話してたから声かけるタイミング失っちまってな。で、本当なのかそれ?」
私は答えることを放棄して頭を抱えた。
本来ならば隠しておくはずだったことを、よりによってこんな近しい人間に聞かれてしまったことは失態だ。校内で無闇に魔女の話をしたことを悔いる。
緒方幸四郎が聞く分にはまだ良かった。しかし嫌でも情報は彼から命の耳に入るだろう。そうすれば昨日のワックのときみたいに、私を巻き込もうとするに違いない。
勝手に一人でやってくれればいいのに。
「結、本当に魔女がそう言ったの?」
無視した緒方を気遣って、梨子が訊いてくる。彼女相手に同じ態度ではいられず、私はバツの悪い表情を作りながらも、浅く頷いた。
「言ったわ。方法は教えてくれなかったけれど」
「そりゃ、命に教えてやらねえと!」
緒方は私たちを追い越し、二段飛ばしで階段を上がっていく。踊り場から折り返すタイミングで「ありがとよ」といわれの無い礼を言われて、複雑な心境になった。
また昼休みに来るのかしら。
そう思うと、母が作ってくれたお弁当があまり楽しみではなくってしまった。
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