3.「あなたに呪いをかけられて異性を好きになれなくなった」
ムカムカしているのは、生理前のせいだと思いたい。アプリでは三日後から始まる予定だし、私の生理周期はほとんどズレないのだ。だから、多分そのせいに決まってる。
でも、どうしてだか胸がざわざわとして、前頭葉から眉間にかけて筋肉が凝縮するような感覚がしていた。苛立ちが込み上げていた。
ため息が自然と出る。さっきからこれの繰り返し。命のことを考えて、いらいらして、息を吐く。こんなことをしている自分が嫌になる。
気にしていないなんて、嘘ばっかりだ。
席の埋まった路面電車の後部、運よく座れた窓際で外ばかりを眺めていた。夕陽が西の空に広がりつつあるが、時刻はまだ六時過ぎで、日の入りまでは一時間以上もある。茜色には青と白が交じり、まるで昼間の太陽と夜の月が押し相撲をしているみたい。
エアコンの効いた涼しい車内と比べ、外は暑く梅雨の名残のように湿度が高い。今はやっと引いた汗も、この電車を降りればまたふき出してくるに違いない。それを思うと、さらに億劫な気持ちになる。
窓に、そろそろ切りたいと思う前髪越しに額を当てがって、ずっとオレンジ色の街中を見詰めていた。流れ行く景色を前にしながら、思考は遠くにあった。
歩く人は半袖が多く、タンクトップの若者や背中を大胆に露出した見た目四十の女性も見えた。足取りが重そうなサラリーマンも、必死に自転車を漕ぐ小学生たちも、今の私にとっては長い影を伸ばすビルや白字の消えかけた道路となんら変わりはない景色の一つだった。
最中、ピンク色のレインコートを見つけたとき、動かなかった視線が一気にそれに吸い寄せられた。
過ぎる景色を見逃しまい、と首を回して窓に張り付く勢いでその一点を見詰めた。
路面電車は左に曲がり、
急く気持ちのまま、着くや否や私は飛び降りるようにその駅で降車した。ジメジメとした湿度にかまけている暇はなかった。
白川と道路の間には幅の広い歩道が設けられ、綺麗に舗装されている。赤レンガが敷き詰められた地面を蹴って、夕陽に煌めく川面を横目に小走りした。
途中で歩道を下り、大きな交差点で赤信号に足止めされる。足踏みしながら『カッコー』を鳴らす信号機を急かしていると、目的の人物は突如現れた。同じ横断歩道の端と端に私たちは立った。
一分、私はピンク色のレインコートを見詰めた。頭には同色のベレー帽をかぶっていた。梅雨真っただ中ならまだ分かる格好は、七月の頭ではもう暑苦しさの塊だ。膝から露出する細い生足が唯一の救いのようだ。
履いたスニーカーは、ローカットのコンバースに見えた。
歩行者用信号が青に変わる。彼女は何食わぬ様子でてくてくと私の方へ歩いてくる。一緒になって横断歩道を渡る他の人たちと見比べても、その恰好はかなり目立つ。
何より、顔につけたそのお面に周りの人も注目していた。赤い頬がトレンドマークの黒いクマ。この県のご当地ゆるキャラのお面。奇抜さが際立っている。
同一人物だろうか。
一瞬だけ不安になったけれど、こんな格好をする人物がこの世に二人いるとは考え難く、そうであると決め付けた。
横断歩道の手前に立っていた私の脇を、ピンク色のベレー帽が素通りしようとした。私より少し背の低いその頭に、迷わず声をかける。
「待ちなさいよ、魔女」
前に
魔女は隣で足を止めて、私へと首を回した。
「おや、こんなところで奇遇だね。ん? 魔女ってもしかしてうちのこと?」
声はお面のせいでくぐもっている。女の声であることは分かっても、それが四年前に聞いた声なのかは定かではない。が、彼女の口ぶりからして同一人物で間違いはなさそうだった。
「その呼び方、なんか禍々しくない? やだなー、毒リンゴとか食べさせそうじゃん」
文句を垂れる魔女の態度は気さくだ。四年前ぶりの再会とは思えないほど、勝手に私に距離を詰めてくる。あまり居心地のいいものではない。
それに、口ぶりが気に入らなかった。毒りんごを食べさそう、って、私にヘンテコな呪いをかけておいて、似たようなことをしている自覚がないのだろうか。
「だったら魔法少女の方がいいよ。可愛いお洋服着て、口触りの良い呪文でキラキラ、みんなの夢を叶えるの」
レインコートの裾をつまんで広げたかと思えば、杖を持ったふりをしてそれを小刻みに振って見せる。片足で器用にくるりと回って、私の鼻先に指を差した。
私はそれを、虫を払うかのように手で退ける。
「くだらないわ。魔女のくせに」
「あー、また魔女って言った。いじけちゃうよ? プンプン」
口で言ってもお面の下の顔なんて見えっこない。黒いクマが私をジッと見詰めて薄ら笑いを浮かべているだけだ。
どっちにしろ、見えていても相手にはしていない。私は嫌悪感をおもむろに露出させて、魔女を睨む。『カッコー』が鳴り止み、歩行者信号が赤に変わった。
「ちょっと付き合ってもらうわよ。こっちきて」
「なになになーに? もしかして愛の告白かしら? いやん」
戯言を無視して、私は高台となっている歩道への階段を上る。横目で魔女がついて来ていることを確認しながら、向かった先はすぐ目の前に広がる河川敷。
道路とは反対側に設けられた階段から下りられるようになっており、整備された芝生は誰でも使える広い公園となっていて、サッカーや草野球をする小学生や、ドローンを飛ばす人もいた。
その端のベンチに腰掛ける。魔女も倣って私の隣にペタン、と座る。行動の一つ一つが騒がしく、ウザイ。少しだけお尻をずらして、彼女との距離を離した。
「暑いねー。夏だねー」
会話のタイミングを窺っていると、魔女は勝手に喋り出す。内容はスカスカでどうでもいいことばかりだ。
「そんな格好しているからでしょ」
お面に帽子にレインコート。何かの我慢大会かと思ってしまう。
脱げばいい、なんてそんな優しい言葉をかける気はない。熱中症で倒れればいいのに、そんな気も知らない魔女は「あはは」と呑気に笑っていた。面白くもなんともないのに。
「あなたの目的は、いったい何なの」
拉致が明かないと思って、単刀直入に訊く。魔女は肩を揺らしながら首を傾げる。きっとお面の下はヘラヘラと笑っているに違いない。
「目的?」
「しらばっくれないで」
「怖いなぁ。もっと穏やかにいこうよ、ゆいぴょん」
頭の血管が一本切れたのが、自分でも分かった。
舌打ちが漏れる。そのまま彼女を睨んだ。
「今度その呼び方したら、許さない」
「……あー、はいはい」
魔女は体を揺らすのを止めて、面倒くさそうに返事をする。態度は気に食わなかったが、これ以上責め立てると話が進まない気がして、私も怒りを引っ込める。本当は頬の一つでも引っ叩いてやりたいところだ。
「目的ね。そりゃ、あんたがこれからどう生きていくか見たいだけだよ」
「それだけ?」
あまりにも簡素な言葉に、私は表情をより険しくする。
魔女は退屈そうであっても、他人の気など知らない様子で説明を続けた。
「いや、他にもあるよ? 色々、細々とさ。それ全部含んだ理由が今の。うちはあんたの生き方を見たいのさ」
「そんなことで、私に変な呪いをかけたの?」
憤りを覚えるも、なんとか胸の内に引っ込める。冷静さを保つ。
「ふうん。呪いって解釈なんだ。ま、べつにそれでもいいけどね」
「何も違わないでしょ」
「否定はしてないじゃん」
鼻に付く態度で、足をブラブラと揺らしだす。こいつは、常に体のどこかを動かしてないと死ぬのだろうか。マグロか。
「でも浅はかだとは思うよ。あんたは自分の身に何が起こったのか、まだ半分も理解してない」
「あなたに呪いをかけられて異性を好きになれなくなった。恋した相手が不幸になる。分かっているつもりだけれど」
「つもり、なんだなぁ。つもりのくせに、自信満々なんだ。自信家だねあんたは」
「あなたは私を怒らせたいの?」
沸々と込み上がる怒りの感情。
とても平常心ではいられなくなる。心の中がざわざわとしだす。
「違うよ。あんたが勝手に怒ってるだけだ。うちは事実を言ってるだけ」
「だったら、もっとちゃんと説明しなさい。あなたは何者で、どうして私をこんな体にしたのかを。その義務があるはずよ」
「魔女に義務を求めるの?」
舌打ち。
思わず、手が伸びる。
理性が吹っ飛び、彼女の胸元へ、右手が向かう。
しかし寸でのところで、手は空中に留まる。
「心配しなくても、元の体には戻れるよ」
その言葉が、私の中に理性を戻した。
「それを訊きたかったんでしょ? さっさと訊けばいいじゃん。教えないけど」
理性がまた無くなり、今度こそ魔女の胸ぐらを掴んでいた。
「教えなさい」
至近距離で、私たちはお互いを見詰め合った。
睨む私に比べ、魔女は平然としていた。ゆるいお面の表情がムカつく。
「教えない。そこにたどり着くのが、あんたの役目だから」
「なに言って――」
次の瞬間、視界が逆さまになる。
一瞬、何が起こったのか分からなかった。気が付くと自分の体がベンチに仰向けに倒れていた。魔女は、そのすぐ側に立って私を見下ろしていた。夕焼け空がさっきよりも広がっているのが見えた。
「それがうちの目的だよ。その体になって、あんたがこの先どうするのか。それを見たいのさ。いいかい、あんたが決めるんだ。自分の人生を自分で決める。その選択しだいで、あんたの中にあるそれは毒にもなり、薬にもなるよ」
「私の、人生?」
体は不思議と起き上がらなかった。
動こうと思えば動けたはずなのに、倦怠感に襲われたように、何もかもが怠く感じた。このままだと日に焼けそうだと、関係ないことを考えた。
「うちはいつもあんたを見てる。あんたの選択を見守ってる。気まぐれでまた話す機会はあるかもね。何も教えないけど」
後ろ手を組んで、踊るように踵を返す魔女。ピンク色のレインコートがカサカサと音を立てた。
「あんまり頭で考えてちゃダメだよ~」
呑気な口調の捨て台詞を吐いて、魔女は私の許から去って行く。
「待ちなさい」と口をつくものの、声はあまりにも小さく、去り行く彼女の耳にはとうてい届かないものだった。たとえ届いたとしても、きっと待ってはくれないのだろうけれど。
倦怠感は抜けきらない。また会う機会があると言っていたのもあって、開き直ってそのままベンチに横たわった。仰向けのまま、目許を腕で隠して魔女の言葉を思い出す。
どれもこれもピンと来ないものばかりだったが、一つだけ、確かな収穫はあった。
元の体に戻れる。
つまり、呪いを解く方法があるということ。
魔女の言葉に嘘はないように思える。それは冷やかしでも面白くない冗談でもなく、彼女の口から出た唯一明確な真実。
そしてそこに、私はたどり着かなければいけないらしい。
魔女は私に、一体何を求めているのだろう。
汗が、ジワリと額に浮き出ていた。
それでも私は、長い間ベンチの上で魔女のことばかりを考えていた。
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