2.「好きと言う機会はこの世界にありふれているわ」

 Lサイズのポテトが早々に半分ほど減ったところで、浅久野あさくのまことは指に着いた塩を丁寧に舐めとりながら、私たちのことについて話し出した。


「実際、どう考えてる?」


 そのざっくばらんな質問に、私はスムーズに答えられなかった。


「考えるって、どういうことを?」


 シェイクはずいぶん溶けている。

 カップを持つと周りの結露が手を濡らす。飲む度に、トレイ上のペーパーで拭うのがクセみたいになっている。


「今もそうだし、先のこととかさ。ずっとこのままってのも嫌でしょ」

「先のこと、ね。確かに、このヘンテコな体質が元に戻るのなら、それに越したことはないけれど」


 そこで私は気付かされた。思ったよりも、自分が先のことをあまり考えていなかったことに。

 思えば今を誤魔化すのに必死になりすぎていて、この先の明確な目的や計画があるわけでもない。ただ恋愛できない。べつにそれだけで自分が不幸だとは思わないけれど、不憫な体になってしまったものだと、それくらいの思考でしかいなかった。


 強いて言うなら、過去に不幸にした彼らへの罪悪感がいつまでも気持ちを濁している。

 もしかすると私は、ずっとその場で足踏みするような人生を送ってきたのかもしれないと思った。


「あなたは? どう考えてるのかしら」


 居心地の悪さから逃げたいが為に、訊き返す。

 自分のことよりも他人のことを考えた方が何十倍も気持ちが楽だ。


「僕は、この体を元に戻したいと思ってる。さすがに不便だし、この生活はいつまでも続けられるものじゃないから」


 命は差ほど悩むことなく、椅子の背もたれに深く体を預けながら、言った。


「恋愛できないことは、あなたにとって苦痛?」

「どうだろう。そういう気持ちをもう三年以上も持っていないからよく分からないけど、僕の場合、その言葉を言ったら呪いが発動するみたいだから、そういう点においては苦痛かもしれない」


 自分のことなのに、どこか他人事。でもその気持ちは理解できる。

 人は誰しも、無意識に他人の思考を共有しながら生きている、と思う。誰かが好きなら自分も好きになるし、逆も然り。誰かがとあることを言えば、自分も同じことを思い、発言する。

 事例があれば納得でき、無ければ首をひねる。そういうのが人間なのかもしれないと、ふと思うときがある。


 私たちの身に起こった現象は、私たちにしか分からないことだ。誰かの意見をヒントにできるものでもなければ、誰かに救ってもらえるものでもない。

 だからこんな体になっても、いまいち何が不便で、何が苦痛で、どうするのが一番の解決策になるのか、何もかも分からないことばかりだった。


「好き、と言ったら死んでしまうのよね」


 頷く命。


「それは、気持ちに関係なくなのかしら」

「そうだと思う。最初に死にかけたとき、幸四郎こうしろうとの会話の中でその単語を口にしただけだったから。『Like』も『Love』も関係なく、口にしたらアウトなんだよ」

「それは不便ね。私生活に支障をきたしていると思うわ」

「おかげで神経質な性格になってしまったよ。会話する度にいちいち頭で整理する必要があるからね」


 指でノックするかのようにこめかみ辺りを叩く。

 命は話すとき、少しだけジェスチャーが大きくなる気がする。きっと気のせいではなく、彼は意識的にそれをやっているのだと思う。

『好き』の単語を言わないようにして話すのは無意識にできることではない。神経を使って気を張って喋るということが必要になってくるのだから、少しでも会話のリズムを掴む為にそうやって身振り手振りをくわえた方が話しやすいのだろう。


 そんなことを毎日考えなければいけないのは、とても窮屈で疲れることだ。


「私なんかより、よっぽど重症に見えるわ」


 同じ境遇なのに、命の方が生きにくいように思えたのは、なんだか不思議な感覚だった。

 しかし命はそれに対して、小首を傾げた。口には微笑を浮かべていても、私を見るその目は笑っていなかった。


「どうかな。海付うみつきさんの方が、僕からすれば重症のようにみえるけど」


 私は同情されていた。それは、あまり嬉しいことではなかった。

 瞼を開いて、視線で理由を促した。命は間もなく説明してくれる。


「僕の場合、それを言えないだけで恋愛はできる。誰かに想いを寄せたり、付き合ったり、結婚したり。その為の仮定として、一つの手段がなくなっただけだ。それを言わないで気持ちを伝えられれば解決する。まあ、実際そんなに簡単な話じゃないけどね。でも、できないわけじゃない」


 確かに、そうかもしれなかった。

 できないわけではない。命の事情を理解してくれる人ならば、きっと上手く付き合っていける方法はある。

 しかし本人の言う通り、簡単な話でもない。「好き」と言わなければいい、と簡単に解決できる問題ではない。

 だって私だったら、言ってもらえなかったら物足りなくなる。最初はよくても、後からそれを求めるようになる。胸の中にぽっかりと穴が開いたまま、一生をその人と共にすることは不可能だ。言ってほしい、と心のどこかでは思うに違いない。


「好き」にはそれだけの力がある。恋愛において必要不可欠な要素が欠落していては、上手く付き合えても、長くは続かない気がした。


 だから私は頷いた。命が意外にも女心を理解していることに、驚きを隠しつつ。


「それが海付さんの場合は、恋愛自体が禁止されてるようなものだよ。恋をすることを禁じられて、しかもその相手が不幸になる。自分じゃどうしようもないことばかりだ。それに、僕は言わなければ平気なところを、海付さんは気持ちに左右されてしまう。心を騙すなんて、簡単にできることじゃないでしょ」

「それは、あなたも同じじゃない。日常会話の邪魔になってる。好きと言う機会はこの世界にありふれているわ」


 見透かしたような言い方も、私の方が重症だと決めつける態度も、気に食わなくて反発した。

 しかしそれだけでは、命は折れてくれなかった。


「君は日常事態を脅かされているよ。恋愛だって世界にありふれているし、それはもはや人生の一部だ。偽って誤魔化せるものじゃない」

「私は今までそれをやってきたわ」

「無理をしてね。君は本当は恋愛をしたいはずだろ。でもできない。だって不幸にしてしまうから」


 極力、態度に出さないように、平然を装う。


「別に、興味ないわ。だからあなたほど不便じゃない」

「だったらどうして、の忠告を無視して恋愛をしたんだ?」


 私は言葉を詰まらせる。

 言い返したいのに、何も思いつかなくなる。


「興味ないなら、それまで通りでいれば良かった。なのにわざわざ人に恋をして、あまつさえその人を不幸にしたんだろ。君が自分の異変に気付いたのは、そこからだ」

「知ったようなこと言わないでよ、あなたに同情されるいわれはないわ」

「そう? じゃあ僕の名前をいつまでも呼ばないのも、僕に興味がないから?」


 どうにか絞り出した返し文句は、命の前では無力に消える。

 不意を突かれた言葉に、私は表情を固めた。できることなら、今すぐここから去りたかった。


「海付さんは、本当はもっと温かい人だと思う。そんな気がする」


 責め立てるようだった声色が、少し穏やかなものになる。まるで私との距離感をはかっているみたいに。

 言い返したい気持ちをグッと堪えて、言葉の続きを待った。


「誰かと一緒にいたり、だれかに恋したり、そういう人間らしいのが、本当の君なんじゃないのかな。そんな体になったから、誰も傷つけたくないから、そうやってわざと壁を作ろうとしてるんだ。赤星あかほしさんに事情を説明したのも、幸四郎こうしろうに強く当たるのも、僕とこうして話してくれるのも、そして名前を呼ばないのも全て、海付さんのそういう隠れた部分があるからなんじゃないかって思う」


 分かったような口調。

 半分は合っているかもしれないけれど、半分は間違っている気もする。正直、自分がどんな人間なのか私自身も分かっていない。

 口を次ぐ言葉が、頭を巡る思考が、胸に抱く思いが、どれも私のもののようで、はたまた自分のものではないようにも思えた。


「見透かされてる感じは気に入らないわね」


 これだけは、心からの本音だ。


「君は、君が思っているよりも自分を隠すのがあまり上手くないよ」


 まるで挑発みたいに言ってくる。

 乗るか乗らないか考えて、私は後者を選択する。


「あなたって、けっこう言うタイプなのかしら」

「これでもセーブしてるつもりだよ」


 ため息を一つ落とす。ザワついた心を隠すよう為にそんな行動を取った。

 

「もっとセーブした方がいいわよ。憶測で喋りすぎだから」


 口では何とでも言えた。だから最後まで私はその態度を貫いた。

 同じ境遇、たった一人の理解者。それが命なのかもしれなかったが、私はまだ彼に全てを許しているわけではない。梨子りこほどの信頼を寄せているわけではないから、たとえ図星でも首を縦には振れなかった。


 だから、今日はこれ以上、一緒にいたくないと思った。


「そろそろ帰るわ。お母さんに買い物頼まれてるし」


 返事も聞かずに立ち上がる。べつに、命に許してもらわなければ帰れないというわけでもないのだし。

 言い訳がましく口をついた理由は、嘘というわけでもなかった。


「僕ら、もっと互いを知るべきじゃないかな?」


 椅子を戻して、踵を返したタイミングで、命が言う。

 テーブルについたまま私を見上げる瞳は、真っすぐで、透明感がある。日焼けのない童顔が、憎たらしさを引き立てている気がした。


「この呪いを戻す方法を、真剣に考えたいんだ」


 補足とばかりに続けた命の言葉は、あまり私に響かなかった。


「そんなの、あるのかしらね」


 捨て台詞とばかりに吐いて、私はさっさと店を出た。もう、命の方を振り返ることはしなかった。

 アーケード街を抜けると、外はまだ陽が高く、西の空に夕焼けが広がっていた。街中で見える神秘的な景色に、今は感動を覚える余裕がなかった。


 命の言葉は頭の中を反芻していた。いろんなものが混ざり合って、憤りさえ覚えていた。

 元の体に戻れるのなら、戻りたいと思う。けれど彼はよくても、私はそれでは救われない。元の体に戻ったって、これまでの事実は覆らない。


 私が助かることを、私自身が許せないのだから。

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