幻痛

N2

第1話


 ーー俺は、何をしている?


 クッションに押し付けた有希の身体が、柔らかくうごめく。その白く肉の薄い身体から、微かな震えが届く。


 ーー俺は……?


 享一が深く挿入るたび、小さな悲鳴があがる。その声が、肌の白さが、泣き濡れた横顔が、享一の理性を溶かす。細い腰骨を掴む腕は、もう享一のものではなかった。

 享一の身体は有希を貪り続ける。その甘い、ぬくもりを。

 有希の悲鳴が、むせび泣きに変わる。享一は腕を伸ばして自分の方へ顔を向けさせ、流れる涙を舌先で拭い取る。

 二人の汗と吐息が溶け込んだ空気が、全身にからみついていた。熱く、濃い霧のように。狂気をかき立てる霧が。


「有希、有希、有希、有希ーー」


「あーー」


 ーー有希の細い体を抱き締め、享一は静かに果てた。


「好きだ……お前が、お前が……」


 涙を溢れさせた瞳が、享一を見つめた。


「きょういち、さん・・・」


 ーーその時、ドアが開いた。


「享一ーー」


 ドアの向こうで、線の細い優人の身体がよろめく。澄んだ瞳に、悲しみが満ちてゆく。


「信じていた……俺はお前を、信じていたのに……」


「優人ーー」


 静かに、背を向けた。


「待て、待ってくれ、優人、優人ッ!」


 ドアがかたり、と閉じる。


「優人ーッ!」


 ーー目が醒めた。


「ああ……」


 瀬原享一は、ホテルのベッドの上に身体を起こした。

 あの夢のせいで、したたり落ちるほどに汗をかいている。 あの、最後の夜の夢。享一が一人の少女を自分のものにした、そして一人の親友を裏切った、あの夜の夢。


「優人…… 有希……」


 五年ぶりに日本に戻って来た日から、毎夜訪れている夢だった。

 そしてこの夢を見た後には、必ず……。


「くっ」


 幻痛がやって来た。

 あるはずのない、インド洋で失った左手の肘から先が、鈍い痛みに包まれてゆく。手当ての仕様のない、何とも切ない痛みだった。海の底から、鮫に喰いちぎられた左手が呼んでいるのか。それとも、これも罰なのだろうか。


 あの夜の。


 享一はガウンを羽織り、ベッドを出た。ボストンバッグを探り、バ-ボンのポケット瓶と一通の手紙を取りだす。


「待っていてくれ、すぐに行く。俺の力のすべてを、これからお前たちに届けに行く」


 幾度も読み返した手紙をまた広げながら、享一は静かにつぶやいた。


『助けてくれ、享一。

 帰って来てくれ。

 悪魔に逢った。

 このままでは俺は、魂を売ってしまう。』



         *



「ここを建て替える前のことを聞かれましてもねえ……」


「いえ、直接住んでいた者のことでなくても……その頃の、管理人をしていたおばさんの行き先だけでも分かりませんか? この手紙の差出人住所と日付で見ると、おととしの2月までーーここが建て替えられる間際までは、住み続けていたはずなんです」


 2年。

 そう、あの手紙は享一の手元に届くまでに、2年近くアラブのどこかをさまよっていたのである。

 生真面目で繊細な優人に、あの、到底まともとは言えないない手紙を書かせたものは何なのか? そして、それからの優人に一体何が起きているのか……。


「さっきも言ったでしょう? 私は最近雇われて、このマンションに通っているだけなんですから」


 その若い無愛想な管理人からは、やはり何の情報も得られなかった。


 白く無機質なマンションが、青林荘と呼ばれる木造モルタル二階建の安アパートだったころ、享一と優人は共同生活を始めた。早くに両親を亡くしたという境遇が同じせいもあってか妙にうまの合った二人が、生活費を少しでも切り詰めようとしたのだった。


『あの頃……』


 たった五年で変わり果てた町並を駅まで歩きながら、享一は記憶を一つづつ呼び戻していった。


『優人の可愛がっていた野良猫がいた公園だな……そう、この公園のベンチ……確か三つ目の……綺麗になったものだ……有希が寝ているのを見付けた時は、腐りかけた木のベンチだったが……』


 5年前、その腐りかけたベンチに寝ていた少女は、雨に濡れた小犬のような目をしていた。

 元は白かっただろうTシャツに、膝の抜けたジーンズ。透き通った肌も薄汚れ、享一と優人には、有希が少年に見えたのだった。


 何をしている、と享一が尋ね、

 何も、と有希が応えた。

 家は無いのか、と優人が尋ね、

 帰るところはない、と有希が応えた。

 二人は少し顔を見合わせ、それから優人が言った。一緒に来い、と。

 あの時、二人とも、有希に自分の姿を見たのだった。享一と、優人と、互いに出会う前の一人ぼっちの自分の姿を。


 ギア、ギャアーー


 濁ったカラスの叫び声で、享一は我に帰った。

 急ごう。

 早く優人と会わなくては。

 あの手紙は、優人が日本からーーいや、有希と優人から逃げていった享一に対して、初めて出してくれたものなのだ。そして優人は、助けを求めているのだ。

 足をはやめながら、しかし享一は思い出が溢れてゆくのを抑えることができなかった。

 あの頃。

 三人で暮らした、あの頃ーー。



         *



「これが……」


 享一はその屋敷の門構えに、絶句した。

 重い皮のボストンを下げる腕に、力がこもった。


「城門だぞ、これは……」


 まさに堂々たる門構えの、意外に簡単な表札には早瀬、とある。

 確かに、早瀬有希の父親の屋敷だった。

 あまりに簡単に見つかったことで、享一は少し戸惑っていた。興信所も使って二週間がかりで思いつく限りの手がかりを尋ねたが、優人の行方はまるで分からなかったのだから。それが、有希の場合は……。


「千代田区の、隼町に家がある? 確かですか?」


 何かあきれたように、興信所の人間は言ったのだった。


「え、ええ」


「彼女の名前をもう一度、正確に」


「早瀬、有希ですが……」


 電話が一本かけられ、一時間もしないうちに一枚のファックスが届いた。


「簡単ですよ。今時、そんなところにどれだけの人間が住んでいると思っているんですか? 名前だけでも分かれば……ほら、早瀬という苗字は一軒だけ……うん? まさか!」


「何か?」


「あなた……えらい人間と知り合いですな……隼町の屋敷に住んでいる早瀬といえば、あの早瀬直義じゃあないですか。北綺電鉄の、会長ですよ!」


         *



「ーー早瀬、直義か」


 巨大な門の前で、享一はつぶやいた。

 新聞やテレビで、何度か目にした事のある名前だった。興信所の男によれば、二年前に事故で半身不随になって以来、政治・経済の表舞台からは姿を消しているという。

 五年前に家を飛び出した有希が戻っている保証は何もなかったが、これは唯一の手掛かりだった。

 享一はインタホンを押した。


「どちら様でしょう」


 同時に、かすかなモーター音が聞こえた。見上げると、門の蔭に備えられた監視カメラがこちらに向きを変えようとしている。


「……どちら様です?」


 老人の声が、繰り返した。


「あ、はい、有希……早瀬有希さんの友人で、瀬川と申します。 あの……」


「瀬川ーー?」


 享一をズームアップするかのように、監視カメラの先端が伸びる。インタホンの声が、考え込むように途切れた。


「……ああ、あの頃、有希様をお世話いただいた……確か、大学の史跡調査隊とご一緒に、中東の方へ渡られたと聞いておりますが?」


「え、ええ」


「……残念ですが、有希様にご用でしたら、こちらに来られても仕方ございません。めったに顔をお出しにはなりませんので……有希様は、もう自由になられたのですから……」


「どこにいるんです? 彼女は今、どこに?」


「……存じ上げません。 ……お引き取りください。もし、有希様がこちらに来られることがあれば、あなた様のことはお伝えしておきましょう。 ……お引き取りください。ここは、全てを失った哀れな廃人と、それを慕う老人達が暮らす場所なのです。どうか、お引き取りください……」


「待って、待ってください、私は!」


 だが、インタホンは、もう何も答えなかった。


「ここもか……」


 享一は、小さく息を吐いた。

 ようやく探しだした手掛かりが、目の前でぶつりと途切れる。

 この二週間、繰り返したことだった。


「やり直しか……」


 つぶやき、駅へ向かおうと振り向いた、

 その時。


 いた。


 享一の手からバッグが滑り落ち、重い音をたてる。口が、何か言葉を探すように数回ひくついた。

 目の前の十字路に立っているのはーー。


 あれはーー。


「享一さんッ!」


 赤いパンプスを履いた足が、こちらに駆けてくる。ああ、昔のままだ。十九才に成長した、昔のままのーー。


「有希……」


「享一さん!」


 有希が、自分を丸ごと投げ付けるように、ぶつかって来た。


「享一さん、享一さん、享一さん……」


 むしゃぶりつく有希の声が、涙声になってゆく。


「有希!」


 享一は、ありったけの想いをこめ、その華奢な身体を抱き締めた。




         *



 相原優人と早瀬有希の表札がかかったマンションは、都心の一等地にあった。部屋の中にも、かなり贅沢な調度品が揃っている。優人は、何か金になる事業でも始めたのだろうか。しかし、そんな元手は……いや、それともこれは、有希の……。


「コーヒー、何も入れなかったよね」


 向かいのソファに腰を下ろしながら、有希が尋ねた。


「ああ、ありがとう」


 有希は真っすぐに享一を見つめている。3年前と、同じように。


『許してくれるのか、有希・・・』


 言葉には出来なかったが、享一はその想いを何度も何度も繰り返していた。


「……優人は、いないんだね?」


「う……ん……今日はたぶん、戻らないと思う」


 有希は視線を落とし、黙り込んだ。


「どうしたんだ? ずっと気になっていたんだが……優人の事になると、なぜ黙ってしまうんだ?」


「優人さんは……」


 うつむいた有希の瞳が、じわりと濡れていく。


「……変わってしまったの。 三年前、享一さんが行ってしまったすぐ後に、私はあの家に連れ戻されて……それが、父の事故が起きた時、優人さんがすぐに迎えに来てくれて。……嬉しかった。本当に嬉しかった。これからずっと、ずっと、あの人について行こうと、そう思って……でも、そのときにはもう、優人さんは、前の優人さんじゃなかったの……」


「どうしたんだ? なぜ、そんなに哀しい顔を……う、痛ッ」


 突然、幻痛が走った。


「どうしたの?」


 有希が、慌てて立ち上がる。


「い……や……大丈夫。幻痛だ……」


「ゲンツウ?」


「この……」


 痛みに顔をしかめながら、享一は左の義手をさすった。


「……なくした腕が、痛むように感じるんだ。あるはずのない、幻の痛み……だから、幻痛さ」


「何か……薬を……」


「いや、いいよ。痛んでいるところが本当はありはしないんだから、気休めにしかならないしね」


「あ」


「大丈夫。もう、だいぶ慣れたから。……そう、懐かしいくらいさ。この痛みは左腕の、想い出のようなものだからね」


 そう言って、享一は笑ってみせた。

 有希も、堅い笑みを返した。


「それで……有希、あいつが、どう変わってしまったんだ?」


 有希は少しの間、黙っていた。そしてつい、と立ち上がるとベランダに近付き、シグナル・レッドのカーテンを引いた。


「これを……見て」


 二重のサッシを隔てたベランダには、小さなダンボール箱が一つ置かれているだけだった。下側が、嫌な色に濡れていた。箱から目をそむけるようにして、有希はサッシに手をかけた。

 二枚目のサッシが開くと、冷たい風と共に微かな腐臭が届いた。


「中を……」


 戸惑いながら享一は近付き、右手を伸ばして箱を開けた。

 酸っぱい匂いが、鼻をついた

 鼻と口を手でふさいで、覗き込む。何か白っぽい物が、入っていた。そしてその表面が、わらわら、わらわら、と、うごめいている。それが何なのかに気付き、享一は背中に何か嫌なものが通り抜けて行くのを感じた。


 うじ、だった。

 何かの小さな死骸に数えきれない程のうじが湧き出し、それらが重なり合うようにして腐肉をすすっていた。


「う……」

 享一は吐き気をおぼえ、あとずさった。


「ハモン、なの」


 サッシを閉めながら、有希は言った。


「何だって?」


「覚えてるでしょう? 優人さんがあの頃、公園で飼っていた……あれからずっと一緒だったのに、何日か前に、優人さんが……」


「……あいつが?」


 享一はガラス越しに、その小さな箱を見つめた。


「……もうずっと前から、ハモンは優人さんに近付かなくなっていたの。優人さんも、ハモンを見ると追い立てたり、蹴飛ばしたり……そしてあの時、置いてあった靴をひっかいたと言ってハモンを捕まえると……」


 有希は嫌なことを思い出したかのように、身体を震わせた。


「……爪を一本一本、ペンチで抜いていったの。それが済むと、今度は足を全部折って……私は、恐くて止めることも出来なかった。あの時の優人さんの顔……新しいおもちゃで遊ぶ、子供のような……。最後には、ハモンの首をねじりながら、楽しそうに笑って、そして、そしてね、ハモンが動かなくなってしまうと、今度は涙を流し始めたの……」


 ガラスにもたれかかるようにして、有希は続けた。


「悲しんでいたんじゃないの。笑いながら、楽しそうに輝く瞳から、ただ涙を流していたの。そして自分が涙を流しているのに気付くと、もっと楽しそうに……楽しそうに……ハモンの死体を、もてあそんで……」


 有希の、大きな黒目がちの瞳は、おびえの色で満ちていた。


「恐いの、優人さんが。こうやってハモンの死体をとっておいて、帰るたびに覗いてみては涙を流すの。楽しそうに、笑いながら。

ーー恐い。何か普通でなくなってしまった、優人さんが恐い。でも……でも私はもう、あの人から離れられない……」


 享一は右手を伸ばし、有希の手を握った。それは冷たく、かすかに震えていた。


「……しばらく、ここを離れるんだ」


「でも……」


「そうするんだ。……いいね」


 享一は強く言った。言いながら、口の中に苦いものが溜まってゆくような気分を感じていた。

 あの夜。

 あの夜から、享一は一度も優人に会うことなく青林荘を出て、そのまま中東に発った。いや、逃げ出したのだ。史跡調査隊の助手という、格好のよい名目を使って。

 あの夜から、優人はどこに行き、何をしていたのか。その細やかな心は、どうなってしまったのか……。


「享一さん?」


「あ、ああ……ともかく、俺が優人に会う。ここで待っていれば、そのうちに戻ってくるだろう?」


「来週くらいには……たぶん、お金を取りに……でも……」


「言う通りにするんだ」


 有希の肩を掴んで、含めるように享一は言った。


「俺は宿から荷物を取って、明日の朝にはもう一度ここに来るから。そう、とりあえず二人で、精神科医の所へ言って、相談してみよう。いいね」


「でも……」


「頼む、俺は……そのために帰ってきたんだから。何かをさせてくれ。お前たち、二人の為に……」


 有希は濡れた瞳で享一を見つめ、それからこくりとうなずいた。



         *



 知人を通じて医者の手筈を整えるのに意外な時間がかかり、再び有希を訪れた時には、既に翌日の夜になっていた。インタホンに名を告げると有希の返事はなく、いきなりドアが開いた。

 開いたドアの向こうに、一人の男が立っていた。

 その男が誰か、最初、享一には分からなかった。身にまとった深紅のガウンと同じ目の色をしたその男は、目と口元だけで虚ろに笑った。


「久しぶりだな」


 声まで変わっていた。


「……優人?」


 享一はそうつぶやきながらも、信じることができなかった。


 三年。


 決して短い時間ではない。だが、僅か三年なのだ。ーー僅か三年で、人はこれほど変われるものなのだろうか? 目の前の男の、この冷たさ、卑しさは何なのだ? あの、あやうい迄に優しげな面差しは、どこに行ってしまったのだ?

 そしてその変貌は、享一自身がもたらしたものかも知れないのだ……。


「何をぼーっとしてるんだ? まあ、上がれよ」


「あっ、ああ」


 優人の言葉に、享一は慌てて中に入った。玄関の隅に、赤いパンプスが並べられていた。


「……有希は?」


 享一は、優人の背中に尋ねた。


「ああ、急な用事が出来たらしくてな。昨日の夜から家に戻った……何か、あいつに用があるのか?」


「い、いや……」


 享一は少し安心した。思いがけず優人が戻ったので、有希は適当な口実をつけてここを離れたのだろうか。しかし……。


「ちょうど一杯やってたところだ。付き合うな?」


 キッチンに入って行く優人に目をやりながら、享一はソファに腰を下ろした。何か、昨日と部屋の様子が違うように感じられる……そう、そう言えば、カーペットが新しい物に変わっている。カーテンもだ。ディープ・パープルが部屋を覆っていた。


「水割りでいいだろう?」


 優人が、グラスと水差しを運んできた。


「有希に聞いたよ。大変だったな」


 享一の左手に目をやりながら、優人は腰を下ろした。


「なに、大したことはないさ……」


 二人は途切れ途切れに会話を続けた。享一は水割りを舐め、優人はオンザロックをあおりながら。手紙のことは、どちらも口にしなかった。互いに探りつつ、相手の内には踏み込まない、にじり寄るような会話だった。


「幻痛があるんだって?」


 優人がそう尋ねたのは、享一が三杯目の水割りに口をつけた時だった。疲れのせいか、今日は妙にまわりが早い。


「うん? ああ、何かのひょうしになあ。痛み出すんだよ」


 享一はもつれる舌で答えた。


「甘い痛みなんだろう。無くしてしまった物の、面影を見るような……」


「……そ、そうだな」


「よく分かるさ、そういう痛みの、いとおしさは……。それに、そのことを聞いて、やっと謎が解けた」


「あ? 何?」


 享一は聞き返した。頭が少し、ぼう、としている。優人は目を細めて、享一の顔を覗き込んだ。


「まわって来たな?」


「ああ、変だな、今日は随分……」


 享一は危なげにグラスを置き、のろのろと姿勢を変えた。その足元で、シャリ、と小さな音がした。


「うん?」


 優人がテーブルの下を覗き込み、銀色の何かをつまみ上げた。細い銀の鎖が付いた腕時計だった。それは、遥子の細い手首に巻かれていたものだった。


「あいつのだな……。一緒にしておくか」


 つぶやいて、優人は立ち上がった。


「ついでだから、ちょっと面白いものを見せてやるよ」


 ベランダに向かいながら、優人は言った。ぼやけた享一の頭に、昨日の白い塊が浮かんだ。


「い、いや、いいよ。そいつは……」


「なぁに……」


 優人は楽しげに笑った。


「そうじゃあないんだ」


 カーテンを引いた。


 二つの箱が、並んでいた。


 小さな箱と、もう一つ、大きな箱が。


「 ひ 」


 それが何であるか理解した享一が、悲鳴をあげた。立ち上がろうとする体をもつれる手足が邪魔し、享一は床に崩れ落ちた。


「慌てるなよ。怪我をするぞ」


 笑って、優人はサッシを開けた。床の上でもがきながら、享一は腐臭をかいだ。手足がまるで、言うことを聞かなかった。

 腕時計を放り込んだ箱の中を覗いて、優人は涙を流し始めた。楽しそうな笑みを浮かべて。


「ど……どうして……」


 享一の声に、優人は振り向いた。


「どうして? 面白いからさ。幻痛がね。……まあいい、説明してやろう。時間はいくらでもあるからな」


 ベランダにあった何かを手に下げて、優人は戻って来た。近付くと、享一の目にもそれが何であるかが分かった。大振の、植木用のナタだった。


「あの手紙は届いたんだろう? 今ごろになって。だったら分からないか?


 ……そうさ。俺は本当の悪魔に会ったんだ。そして、魂を売ったのさ。そうやって手に入れたのが有希だっていうのは、今から考えると、全く勿体ないことをしたものだがね。……魂を売るっていうのが、どういうことか分かるか? 別に何ということもないさ。ただな、その、何というかーー要するに『人の心』ってものが無くなる訳だ。


 ……もちろん、別に気にはならなかったさ。引っ掛かったのは、この間、あのネコをくびり殺したときだ。有希が話さなかったか? その時、俺の目に涙が溢れてきたんだ。おまけに、何かこう、胸の辺りが変に苦しいような、痛いような気分になってな。こっちは面白くて仕方がないっていうのに。


 どういうことか分かるか? ーー幻痛だよ。無くなった心が、痛んでいるのさ。たかが腕一本でも起きる幻痛が、心を無くして起きないはずもないだろう? お前の幻痛の話を有希から聞いて、それに気が付いたんだよ。だから試してみた。魂を売ってまで欲しいと思った相手を切り刻んだ時、一体どうなるかをな。 ーー思ったとおりだったよ。俺は一晩、泣き明かしたんだ。楽しくな。そう、楽しいんだ。この流れる涙と痛みを味わうのがな。お前なら、分かるだろう?」


 享一は必死で首を振った。


「違う……違うんだ……目を覚ませ……そんな物が……悪魔なんぞが、この世にいる訳がない。お前は……夢を……悪い夢を見ただけなんだ……」


 優人は、ナタを享一の肩口に当てた。


「それがどうした? 俺があいつと会ったのがこの世でだろうと、それとも俺自身の心の中でだろうと、何の違いがあるんだ? ーー特に、お前にとってはな」


 優人の腕に、力がこもった。享一の肩が熱く燃え、カーペットの上に赤が広がってゆく。そして、無くした左手が鈍く、しかし確かに痛み始めていた。


 幻痛。


 その痛みのまがまがしさを享一はようやく、しかしはっきりと感じていた。


「・・・楽しませてもらうよ。ゆっくりとね。あれほど裏切られても憎むことの出来なかった程の親友を切り刻む時には、心はどんな風に痛むのかな?」


 涙の溢れた目で、優人は楽しげに笑い始めた。









 

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幻痛 N2 @nnaoki38

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