桜吹雪がつなぐもの

みみハムこころ

桜吹雪がつなぐもの

 どこまでも強く差し込む西日と、強風に煽られて舞う桜。子供用の遊具が山と配されており、そこはどうやら公園のようだ。まるで吹雪のように舞う桜の中に、私はいた。なぜか体の主たる感覚はない。少しのくせ毛のような髪の毛がほんの少しだけ視界をふさいでいる。ふと周りを見ると、一人の少女がどこか遠くを見るように佇んでいる。そばには子供用と思しき三輪車が放置されている。一際大きく太い桜の下だ。後ろ姿しか見えないが、やけに悲痛そうだ。何かあったのだろうか。

「どうしたの? 」

私は思わず声をかけたが、その一音目に彼女は反応した。まるで何か幽霊でも見たように驚いた。それでいてとても嬉しそうな顔。十歳前後にしか見えない彼女がそんな顔をできるのは少し不思議だったが、何よりその顔に私は強く引き付けられた。どこかで見たことのある懐かしい顔。ハッとしたが、なぜだか言葉を発することはできない。そのあどけなさに強く胸を締めつけられた。


「及川! お前はいつもいつも! 」

忌々しい声が、趣ある風景を冷徹にも遮る。


 寝室に差し込む薄明かりで、私は目を覚ました。やはり頭の中には鋭くもどす黒いものが残る。うざったらしい、思い出したくもない記憶を頭を降って払う。布団の中で迎えた何回目かの水曜日。どうやら夢だったようだ。その夢は、なぜか私の胸に幾ばくかの切なさと郷愁を与えていった。外には弥生末の陽光が満ちている。遠くから聞こえるオフィス街の喧騒。刹那、スマホが震えた。内容は家計簿アプリのもので、ここ一ヶ月の支出の内訳の連絡だった。まどろみの残る頭でスマホを確認する。最近はほとんどが通信量や電気料金で占められているようだ。幾日かぶりに財布の中身を確認すると、残りは二千円弱。このままでは今月の水道料金、光熱費すら払えないかもしれない。幸い、仕事をしていたときの名残で預金は多少あるはずだ。お金をおろしに行かないと。私は重い腰を上げ、着替えと薄化粧を施して久方ぶりに家を出た。 


 暖かい日差しと五分咲きの桜。見た目だけ切り取れば爽やかな朝の一ページだが、マンションから外に出た一瞬に、私は現実を思い知らされた。歩道を行き交う黒い山。皆スーツを着ていて、サラリーマンだと思われる。黒の波が私に襲いかかり、飲み込もうとする。引き波に飲み込まれそうになり、私は思わず小さくよろめく。みんなして私を連れ戻そうとするのか。同じことの繰り返しで、不条理ばかりがまかり通る労働の日々へと。私はあの職場へ戻る気はさらさらなかった。あんなところへ戻るくらいなら死んだほうがマシだ。意を決して私はその波に潜り込み、進んでいく。人にもみくちゃにされそうになりながらもなんとか耐える。このマンションが駅からオフィス街へ進む道の途中にあるせいか、人々はやはり一様に私とは反対方向に進んでいく。春先にも関わらず会社員たちは汗かきなようで、時折鼻をつく汗の匂いが少し気持ち悪い。やっぱりあそこには戻りたくない。少なくとも今は。時間を空ければなんとか扱いも変わるかと思ったが、今戻ったところできっと何も変わってはいまい。会社の誰からもメールやらが来ないことがそれを証明している。みんな私がいなくなってせいせいとしているのかもしれない。自分の考えにまた少し嫌気が差した。ともあれ、今は進むしかない。ゆっくりと、でも確実に私は前に進んでいく。


 歩くうち、遠くから霞むように銀行の文字が見えて来た。やっと辿り着ける。私は人の波の中で最後の力を振り絞り、その明るい方へと歩いていった。気持ち悪さも相まって半ば這うようにたどり着いた。急場を凌げればいい。でも、そんなに長くし続けるわけにも行かない。引き出すのは一万円くらいでいいか。そう思って額を打ち込んだ。大きなため息が思わず漏れる。いつまでも続けていくわけには行かないとはいえ、これでしばらくは大丈夫だろう。


「あの、これ、落とされましたよ。」

 私が帰ろうとした矢先、銀行の制服と声が私を遮った。私の前に立つ彼女は少し警戒するように口元に薄い笑みを浮かべている。

「あ、ありがとうございます。」

心持ち少し引いてしまったが、そんなことを表情に出すわけには行かない。私は素直に落とし物を受け取る。それは、一枚の写真だった。銀行で口座を作ったときからずっと通帳に入れていたのを覚えている。いつの間にか落としてしまったようだ。私は思わず写真を拾い上げ、まじまじと見つめてしまう。少し黄ばんだ写真の右。なんとも言えぬ微笑をたたえているのが青春時代の私だ。どちらも制服姿でおそらく高校だろうか。学校帰りに撮ったものらしかった。しかし、隣に写る男子のことを、私は全く思い出せなかった。裏面を見ると、「A・O/K・T」の文字。おそらくイニシャルだろうか。胸がきゅっと締まってくる。今は覚えていないとはいえ、過去には仲が良かったはずだというのに。所詮一期一会の学校生活。よほどのことがないとほとんどの人のことはすぐ忘れてしまうのだろう。多少の思い出はあったかもしれないが、写真の男子もそうして忘れられてしまった一人なのだろう。仕方ない事なのかもしれないが、罪悪感を禁じ得ない。何とか名前だけでも思い出そうと記憶を振り絞る。

「あの、お客様…………?」

かなりの時間見続けてしまったようで、声をかけられた。顔を上げると先程の銀行員が心配そうな顔で見つめている。

「あぁ、いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございました。」

すこし声が上ずってしまった気がする。会釈をし、まだ少し心配そうな彼女を尻目に私は銀行から走り出た。気味の悪い胸騒ぎを抱えながら。オフィス街を吹き抜けるやけに熱い風が、冷房で冷えた体を鋭く現実に引き戻していく。私は何となく先程の預金通帳を取り出した。写真の中で笑う彼、「K・T」君のことは、やっぱり思い出せない。


 目的は果たしたのだから帰らないと。私は足を早める。三月とは言え午後の日差しはやはり強く、いつの間にか汗が滴っていく。久しぶりの外出は思いの外体に堪えているようだ。暑さで頭まで疲れてきているのか、いつしか見たことのない道を歩いていた。周りに広がる街路樹と景色が、少しずつ郊外に出ていくことを思わせてる。次第に近づいて見える景色には、高い建物はなくなってきている。遠くに大きな桜の木が見えてきた。太く太く、大きな桜の木だ。そこから落ちていく桜吹雪はどこまでも降っていくかと思えた。

「あっ…………。」

私は思い出した。町外れの公園、大きく太い桜の木、舞い散る桜吹雪。紛れもなくこれは夢の中で見た公園だった。頭の中が一瞬衝撃でめちゃくちゃになる。私はそこに足を向けるしか無かった。まだ日は高いはずなのに、やけに穏やかな空気が公園の周りを包んでいる。

「目名(めな)森林公園」

初めて見たその名前は、変に私の気持ちを暖めた。看板の前にいるのもそこそこに、私は少し浮つきながらも中へと入っていく。生まれてこの方、夢で見たところに現実で行ったことなどない。誰もいない公園に、草を踏み抜いて歩く私の足音だけが響いていく。


 入ってすぐ、桜に囲まれた小路が私を迎えた。思いの外大きな公園のようで、道はかなり奥まで続いているようだ。整備されてはいる、でもやはり荒土のままの道を踏みしめて、私は歩いた。両端には顔にぶつかろうかと思うほど満開に咲き誇った桜が広がっている。思わず、その一つに手を伸ばした。しかし、花粉症のことを忘れてしまっていたようで、思わずくしゃみしてしまった。音はすぐに風で運ばれていく。風は少しずつ強くなっているようだ。道をずんずん進んでいくと、急に目の前が一気に広がった。まず目の前に飛び込んできたのは大きな大きなあの桜の木だった。道の端からはだいぶ近く見えたが、思ったより遠かったらしい。その木の周りには、やはり満開の桜と広場がある。そしてブランコや滑り台といった子供用の遊具も広がっている。広場の大きさも子供がキャッチボールをしたり三輪車を漕いだりするにはちょうどよいもので、子供のための造りを思わせた。


 私は肩にかけていたカバンを置くと、そばにあったブランコに歩み寄り、飛び乗った。少し恥ずかしい気持ちはあったが、今のところ誰も来そうな気配はない。柔らかくも木の感触。別に問題はないだろうと私は漕ぎ始めた。ジーパンで来てよかったと少し安心した。桜吹雪が時折体にまで舞い降りてくる。私はそのふわりとした感覚がほんの少しだけ懐かしかった。それにしても、こんなふうにブランコに乗ったりしたのも何年ぶりだろうか。おそらくもう小学校低学年以来だと思う。あの頃は、良かったな。ふとそんな思いが頭の中に去来した。お金の心配とかを色々とする必要もなかったし、一緒に遊べる友達も、毎日喋れる人たちもいたし、何よりも毎日が楽しかった。いつから、どこから間違ってしまったんだろう。いつから明日が来るのを怖がるようになってしまったんだろう。


「一体、どこで間違ったんだろうなぁ。」

言葉が一つ、思わず心からこぼれ出た。そうしたら、もう歯止めなんて無かった。後から後から感情が溢れて、その場で涙に変わってこぼれていく。どこで間違った。どうすればいい。どうしようもない。考えてもしかたないかもしれないが、考えずにはいられなかった。意思とは関係なく一定のリズムを刻み続けるブランコに、私は少し気持ち悪くなってきた。顔があげられない。暗澹とした気持ちの中、私は半ばやけになってブランコを漕いだ。心地よかった風は、いつしか寒いそれに変わっていた。心なしか、遠くから草を踏みしめる音が聞こえてくる。


「あれ……、及川(おいかわ)さん!? 」

何週間ぶりかに聞く隣の同僚の声は、やけに懐かしく、そして厳しく私の胸に響いてきた。犬のリードを持った彼は、飼い犬など半ば置き去りにするかのようにこちらへ駆け寄ってきた。ふと、名前を呼ぼうとしたが、覚えていないことに気づく。

「やっぱりそうだ。久しぶりだね。」

近づいてきた彼はあっけらかんとしていた。目を隠すほどの前髪のくせも相変わらずだ。彼は以前と同じ口調で話しかけてくる。それが少し痛くて、私は下を向いたまま答える。

「久しぶり…………。」

無論、声も下に下に落ちていく。彼が他の上司とだとは言わないし、違うのは分かっている。でも、どうしてもあの会社の人達と話すと思うと嫌になってしまう。

「私、近々転職しようと思うんだ。」

私は半分本心で、半分嘘をつぶやく。確かにその気持ちはあるが、本当はまだどうするべきか決まっていないのは確かだ。最低でもあそこに戻りたくないことだけは。私は幼少期よろしく弾みをつけると、一気にブランコを飛び降りた。少し怖さはあったが、気分を変えるためにも勇気を出した。狙いは違わず私は彼のすぐ目の前に着地する。彼はとても寂しそうな顔でこっちを見つめていた。それはそうかもしれない。仮にも一年ほど、同じ部署の隣の机で働いた仲間なのだから。

「そうなんだ…………。」

か細い声が、日も傾き始めた公園に響き、風にさらわれた。彼は、滔々と話し始める。

「あのさ、今ちょうど会えたから言っとくよ。俺は、やっぱり及川さんには残っててほしい。何度助けられたかわかんないしさ。そりゃ、それなりの理由で辞めちゃうのならそれはそれでしょうがないよ。だけどさ、あの人に怒られたくらいで辞めちゃうのは……。」

気持ちはありがたい。すごく、すごくありがたいし、お金のためにはこの会社に残ったほうがいいことだって分かってる。でも、やっぱりこの会社にはいたくない。しかも、彼は私の今回の件を「くらいで」と言い切ってしまった。どうしても私はそこに得心はいかなかった。

「だって、及川さんは何も悪くないじゃない。むしろ、あの上司、菊田(きくだ)さんに問題があったんじゃないかっていうくらいで。」

「いや、違うよ。あのね、私に問題が無かったから、理不尽だったからこそ問題なのよ。私に問題がないからこそ、こんな理不尽な職場にはもういたくないかなって。例えお給料の問題はあるにしても、働きづらい職場にはいたくないのよ。あなた、えっと、」

「あ、俺は鷹山(たかやま)だよ。」

鷹山。少し懐かしさすら感じるその名前を噛みしめる。ついこの間まで一緒に仕事をしていた仲間の名前すら忘れてしまうのは罪悪感はあったが、その気持ちすら飲み込んで私は続ける。彼に、鷹山にわかってもらわないと、中々納得するわけには行かなかった。

「あ、ありがとう。鷹山くんには隣の席ですごく色々と助けてもらったけどさ、隣の席だし同じ部署だし、きっと私がいると迷惑になるから。そういう意味も含めてこの職場にはもういられないかなって。」

「いやいや、何言ってるのさ! 俺のこととかは考えなくていいでしょ。これはあくまで及川さん個人の問題なんだから。周りのことなんて考えなくていいんだよ…………。多分。」

「だとしても! 多少の理不尽なら我慢できるよ。でも、こんな度を過ぎた理不尽がまかり通る会社なら、私はいたくない!! 」

「それは、わがまま過ぎるんじゃないの。だって、誰しも理不尽なことだってあるし、理不尽をすべて取り除くことはできないよ。理不尽に耐えられないっていう理由だけで仕事を辞めちゃったら、何も出来なくなっちゃうんじゃないの…………。」

「え? 」

 胸をふとつかれた。確かにそうかもしれない。思わず声が出た。考えたことも無かった。すべての理不尽を取り除くことはできない。ある程度の不条理はどこにでもあるものだ。私は耐えきれなかっただけなのだ。それだけだったはずなのだ。いつの間にか、すべての道理が通った世界を求めてしまっていたのだろうか。

「いや、だからさ、まったく理不尽がない世界なんてありえないわけじゃん。どんな世界だって、多少はあるもんだし、それくらいは我慢していかないとって思う。そりゃあの人はやりすぎだよ。あれがひどすぎたから、あんまりストレス耐性がない及川さんは疲れて、こうやって辞めちゃったのかもしれない。考えてみて。生まれてからすごく大きなストレス感じたことってある? 失礼な話だけど、今回のことで、及川さんもしかしたらでストレス慣れしてないのかもなって思ってさ。」


私は、言われたとおりに過去のことを思い出していく。幼稚園、小学校、中学校、高校、そして、今まで。苦労したこと、辛かったことはあれど、ここまでひどいと思ったことはなかったような気がする。驚きのあまり硬直する。私の表情に気づいたのか、彼は言葉を継ぐ。今までの弱々しい彼とは似ても似つかない、優しさをたたえた笑みがそこにあった。私の胸が、何故か傷んだ。ここまでの優しさを向けてもらうのも初めてかもしれない。


「そうでしょ? だから、ここの会社のままで少しずつでも慣れていけたらなって。もちろん、今の部署のままだと菊田さんがいるから無理。だから、理由を正直に話して移らせてもらったほうがいいよ。それで、新しい所で、少しずつそういうことにも慣れていく。どうかな? 部署が違ったって、多少連絡とかならつけられるだろうし。なんかあったらどんどん聞くよ。」

改めて気づいた。この人はこんな私にでもどこまでもどこまでも優しい。私は鼻の奥が少し痛くなってきた。

「ありがとう。やっぱり、なんとかもう少し、ここで頑張ってみるね。なんかあったときは、申し訳ないけど、またよろしくね。」

「うん。」

一万円も下ろす必要はなかったのかもな。私はふとそんなことを考えた。


 世界が夕闇に沈みつつある時間、片割れ時だ。いつしかこんな時間になってしまっていた。

「それじゃ、俺はこんな感じで。明日以降、またよろしくね。ごめんな、太郎、待たせちゃって。」

彼はそう言って飼い犬の名前を呼んだ。どうやらもともと散歩中だったらしく、太郎は歓喜の鳴き声を上げて飼い主に飛びついた。突如、私は写真のことを思い出した。私の名前は及川(おいかわ)愛華(あいか)で、イニシャルは「A・O」になる。あの人は、名前は…………。

「あのさ、鷹山君! フルネーム教えてもらってもいい? 」

そう言って私は元同僚に声を掛けた。

「俺? 俺は、鷹山(たかやま)喬太(きょうた)って言うけど…? それがどうかしたの? 」

たかやま、きょうた。イニシャルは「K・T」。もしかしたら。私は考えるよりも早く走り出していた。いつの間にか、帰ろうとする鷹山を塞ぐ形になってしまっている。正面からの陽光に目を細めつつ、私は彼に更に問いかける。彼はぽかんとした、少し間抜けな表情で私を見返している。

「じゃあさ、高校はどこだった? 」

「え、上田第一高校だけど…………それがどうかしたの? 」

そうだ。あの制服は確かに上田一高のものだし、私もそこだった。本当に星がよく見える高校だったとなぁと今でも思う。少し訝しむ彼を、まずは落ち着かせることにした。

「いや、ちょっと気になったことがあってさ。じゃあ、この写真、覚えてる? 」

「え? どれ? 」

私は写真を掲げてみせたが、夕暮れの弱まる陽光のもとではよく見えなかったらしい。私達は、街灯の灯るベンチに場所を移した。

 

「これさ。右の女の子が上田一高時代の私。それで、この左の男子が誰なのかずっと気になっててさ。忘れた自分も情けないんだけど。イニシャルが『K・T』で鷹島くんと同じなのよ。もしかしたらこの男子は君かなって思って。」

完全に日も落ちきった町はずれで、一組の男女が静かに言葉を交わし合っている。ふと、男の方が声を上げた。

「これ、多分俺だよ。ほら、あれでしょ? 駅前のプリクラでノリで撮ったやつ!! いやー、ほんとに何してたんだか。」

「え……本当に鷹島君だったの!? 」

「うん。懐かしいな!!」

胸のしこりがなぜだか取れたような気がした。また胸の奥が少し軋む。何も言えずにいると、彼は急に饒舌になって喋りだした。大して応えられる言葉を持たないので黙っていることにしよう。少しもどかしい気持ちを抱えつつ、私は区切りがつくのを待った。とにかく、長かった。

「とりあえず、私と鷹島君が高校のときに仲良かったんだってのは思い出せた。ありがとう!! 」

「こっちこそありがとうね!! じゃ、また明日!! 」

「あのさ…………」

今日は色々とありがとう。柄でもなくそう言いたくなった私の内心など知る由もなく、彼は踵を返して去ろうとする。声をかけようとした私の肩に、ふわりと桜が舞ったような気がした。

「あ、」

何かを思いだした様に彼はもう一度こちらへと向き直った。少し緊張をはらんだ面持ちに、こちらの心すら見透かされてくるようだ。

「さっきの写真なんだけどさ、もう一回見せてもらってもいいかな。」

「え? 良いけど……。」

そう言って私がもう一度写真を取り出すと、彼は目を細め、見せたことのない穏やかな顔でそれを眺めていた。

「ありがとう。それじゃ、そろそろ帰るかな!! じゃあね!! 」

やけにハイテンションになり、話が終わったと思えばそのまま帰っていく鷹島。先程までの優しそうな顔からまた様変わりしている。走ったり歩いたりを繰り返しているため、ついていく太郎も大変そうだ。急に何があったのだろうと思いつつ、私は苦笑いを禁じ得なかった。そういえば、会社にいた頃から、いや、高校の頃からずっと彼は変わっていない。ずっとあの呑気で、少し弱気で、浮き沈みが激しい鷹島だった。その変わらなさが、ほんと少しだけ愛しく思った。もう心配することもないはずなのに、私の胸は締め付けられたままだった。ベンチから立ち上がろうという気は起きない。


 いつしか、気づくと私はまたそこにいた。感覚がない。桜吹雪に包まれたあの公園。少女も三輪車も桜の木々もそのままだった。視界がほんのわずかに遮られているのも同じだ。足音も無く、私はまた歩いていく。少女は私の気配に気づいたのか、声をかけるまでも無くこちらに振り向いた。手にはあの写真が握られている。それだけは昨日無かったものだ。そして、曇りもない満面の笑みで私に向かってこう言ったのだ。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん! 愛ね、やっと、やっと、見つけたよ!! 」

そう言って彼女はどこか遠くを指差す。私がその方を見て行くと、「目名森林公園」の文字があった。

「え、見つけたのって、これのこと? 」

そう言って、私は彼女に尋ねたが、愛と名乗る少女は首を大きく振った。

「ううん、違うよ、お兄ちゃん。あれだよ。」


 彼女は差す角度を更に上げた。私はその指の先を一心に見つめる。指の先には、白い靄の向こうに陽光を照り返してそびえ立つビル達があった。どこまでも天まで届くかのようにそびえる、あのビル達が。

 目を覚ますと、なぜか手にあの写真を握っていた。今よりほんの少しあどけない頃の二人の写真。いや、実際何も変わっていないのかもしれないが。私は朝靄のかかった頭でぼんやりと写真を眺めた。昨日の彼のおかげで、ほんの少しだけ笑うことができた。今日は彼にお礼を言わないとな。ついでにラインも交換してしまいたいし。頭の奥には自然と彼、鷹山の姿がぼんやりと浮かんでいた。

 今日も続いていく日々。しかし、朝にここまで安らかな感情でいられるのは初めてだ。

「よし。」

私は一声上げて腰を上げ、準備を始めた。家を出て進むは、昨日とは逆。本来の会社の方向だった。ほんの少しだけの気後れもあったが、仕事に行こうと思えるまで改善されたのはきっと鷹山のおかげだ。彼にはしばらく頭が上がらなさそうだ。

 勢いをつけて、私は家を飛び出した。卯月最初の陽光が少し激しく私の頭上を照らしている。

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