トマトジュース

笹山

トマトジュース

 二月の半ば、暖かい日と寒い日が交互に続いていて、その日は寒い日だった。

 時刻は午前七時を少し過ぎた後だろうか。腕時計も携帯電話持たずに歩いているので、アパートを出る前に見た時計の針から、道雄は考えた。

 大学生活二度目の春休みに入って、もはや長期休暇の恒例とも言うべき昼夜逆転の生活が、二週間ほど前から続いていた。最近は昼近くになってから寝ることが多い。そういうわけで、まだ日差しも弱いこの時間に、暇つぶしがてら最寄りのコンビニエンスストアに向かって歩いている。

「おはようございます」

 がらりとした声で話しかけられた。顔を上げると、向かいから犬を連れた初老の男性が、寒そうなそぶりも見せず、がに股で歩いてきたところだった。

「おはようございます」

 すれ違いざま、道雄はかすれた声で控えめに挨拶を返した。


 炭酸飲料とスナック菓子、カップスープを買ってコンビニを出た。

 出入り口近くの灰皿スタンドのところまで歩く途中に、窓越しに店内の時計を見ると、まだ午前七時十分だった。Tシャツの上から羽織ったモッズコートのポケットから煙草を取り出して火をつけ、煙草と、朝の冷えた空気を交互に吸った。

 堕落した生活を抜け出したいと思いつつも、結局は時間に甘えて実行を先延ばしにしている。

 煙草の火を消して帰途を歩いた。


 がやがやと幼い声が聞こえてきたので振り返ると、登校途中なのだろう、小学生と思われる集団が後ろから歩いてきていた。住宅街の狭い路地を、波のように占拠しながら歩くその集団に追いつかれまいと、彼は歩調を上げて歩いた。

 ふと、目に留まるものがあった。

 今歩いている路地からさらに一本枝分かれした先の、四階建てほどのアパートが面する小路の突き当りに、赤い自動販売機が見えた。目に留まったのは、その自動販売機の一番左の、上から二番目の缶ジュースだった。

 道雄は目のいいほうではなかったが、その赤いラベルの飲料がなんであるか、すぐに分かった。彼のずっと前の記憶、むしろ思い出ともいうべきものの中に、同じジュースがあったからだった。トマトジュースだ。

 彼はそれを目には留めたが、やはり後ろの小学生集団に追いつかれまいと、立ち止まることなく一瞥しただけだった。だが、それでも勝手にその思い出は、彼の深い記憶から浮かび上がってきた。



  *



 道雄がまだ小学生に入って間もないころだった。

 彼の家は、東北の、日本海に面した小さな田舎町の山の中にあった。今でこそ道のほとんどは舗装されてはいるものの、小学生当時は砂利道が多く、彼の家の前を通る道も、普通車が通るだけで騒音めいた走行音が鳴る程度に、石と砂が敷き詰められていた。

 家の周りは田畑に囲まれており、一番近い隣家でも百メートルは離れていた。道雄は幼いころから都会にあこがれることもなく、単純にその田舎の景色が好きだったので、この頃になって帰省した時には、地元を離れている間に舗装されてしまった道路に寂しさを感じもした。


 彼は当時小遣いをもらっていた。それは週に百円程度のものであったが、そのころの田舎の子どもにとっては、使い道もほとんどなかったので、困るようなこともなかった。

 だが、道雄はその小遣いを、彼の両親に無断で使うことはしなかった。本来は小遣いなのであるから、よほど高価なものでない限りは、自分で買うものを決めて、自分で勝手に買ってもよかったのであるが、道雄は必ず両親に断りを入れてからお菓子などを買うようにしていた。


 道雄は子供のころから、何かと借りを作るのを良しとしなかった。

 借りを作れば後で返さなければいけない義務が発生してしまう。彼はそれを嫌がった。義務の発生は、その義務の果たされる時間まで彼の頭の隅に焦げつき、何かにつけて彼はそれを思い出して憂鬱になった。小学生の彼にとって、義務とは給食残さず食べなければいけないとか、宿題を必ず終わらせておかなければいけないとかいうものと同じであり、今になって考えれば大したことでもないのだが、そのころの彼には大問題であった。

 借りを受けているという考えは、道雄にとってこの上ない恥であり、苦痛であった。

 道雄にとっては、両親からの小遣いも、将来への借りのように感じられた。毎週もらうこの小遣いを、いつか自分が働けるようになっときには返さなければいけない。幼いながらに、彼は両親に対しても他人としての姿勢をとった。


 小遣いの使途の許可を得るということは、両親からその現物を与えられることと同じであると道雄は考えていた。彼は金の使い方をはっきりとさせることで、自分のためていた小遣いを親に委譲し、親がその金を使って物を買い、そうして彼に与える行為であるとみなしていた。当然実態としては、許可をもらって物を買うのは彼自身であったし、金を払うのもまた彼自身であったが、その時彼が払う金は、親が認めた金であり、彼はそれに安心感を得ていた。本来であれば小遣いをもらったときに道雄に与えられたはずである権利が、彼の考えの上では、使う際の許可によって得るものであったということである。


 さて、道雄の家では、水と牛乳と、夏場になると麦茶が冷蔵庫に入っているのが常であった。ペットボトルの炭酸飲料などは、家族の誕生日や記念日などに限って、自信ありげに冷蔵庫に収められるものだった。父がときおり、こっそりと道雄たち兄弟に与えてくれる炭酸飲料を除けば、だが。


 その日、道雄は無性にジュースが飲みたかった。

 もはや正確な日付も季節も、彼には思い出せない。彼がそのとき小学何年生であったのかも思い出せないが、ともかくその日、彼は無性に刺激的なジュースが飲みたかった。

 道雄の家から二百メートル歩いたところに自動販売機があった。その自動販売機は、金のない大学生などが住み込んでいる、一軒家ではないかと見間違うほどの小さな下宿の前にあった。通学途中に必ず通る位置にあったが、彼はそこにどんな飲み物が売られているのかは気にしていなかった。

 そこに行けば、ジュースはすぐに手に入る。

 幸い小遣いも十分にあったし、時間は昼を回って太陽が少し西に傾いた程度であった。両親はいつも通り仕事に出ており、家にいるのは道雄と弟だけであった。

 彼は誘惑と、それが招きかねないリスクに悩まされた。

 ジュースは飲みたいが、今買いに行くということは、親の許可をとらずに無断で金を使うということになる。しかもその使う対象は、冷蔵庫にはめったに入ることのないあのジュースなのである。もしもジュースを買ったということが親に知られれば、彼は負債――本当はありもしない負債である――を負うことになってしまうし、親からの信用も失いかねない。ことを大きくとらえすぎた彼は、板挟みになった。


 だが、今ならばジュースを買ったとしても、それが知られる可能性は低い。母親は夕方になると仕事から戻るが、まだその時間には早い。自営業の父親もこの時間に帰ることはあまりないし、帰ってくるにしても、車の走る音ですぐに気づける。彼の父親は職業柄、大きなトラックを仕事に使うので、砂利道を走る際にはそれなりの遠くからでも走行音が聞こえる。その他にこの田舎を昼間から走る車は少なかった。


 道雄はジュースを買うことに決めた。

 ただ一人ではなかった。彼は自身がリスクを負うことに関しては敏感であったが、他人のリスクはそれが実際に起こったあとでしか顧みなかった。暇そうに漫画を読んでいた弟を連れ出して自動販売機へ向かった。



 何のことはなかった。自動販売機を前にして、マジックテープのフリップがついた財布から硬貨を取り出して、硬貨口へ入れればよかっただけなのだ。

 道雄はそうして自動販売機の表示に「120円」の表示が出たことを確認すると、どれを買おうか、目の前に並ぶラベルを見上げた。そして困った。

 特に飲みたいと思うものがなかったのだ。自動販売機の品ぞろえがもともと貧相だったこともあるが、それ以前に彼は具体的に何を飲もうか考えていなかった。ジュースと一口に言うと、彼にとっては自動販売機に入っているもの全般がそれにあたるので、商品名だとかジャンルを考えていなかったのだ。

 だがグズグズしてもいられない。いつ父親のトラックの走る音が聞こえてくるかわからない。ひとしきり困った後に、彼は自動販売機の一番左の、上から二番目の赤いラベルの缶ジュースを選んだ。トマトジュースだった。

 弟を連れ出してきた以上、道連れになってもらうため、また同じ金額の硬貨を財布から取り出すと、弟に手渡した。弟はそれを硬貨口に入れた。


 道雄はその様子を横目に、なぜこんなものを買ったのだろうと思いながら、トマトジュースの缶を開けた。彼は別に、トマトジュースが好きなわけでもなかった。

 弟は、道雄と同じように自動販売機の商品を見て困ったのだろうか。黙って彼のほうを見て、それから彼が口をつけているトマトジュースに視線を落とした。

 弟はやはり同じようにトマトジュースを買った。もともと道雄のわがままで連れ出してきたので、特に何を買おうかも決めていなかったのだろう。

 道雄と弟は、自動販売機の前に並んで立ったまま、トマトジュースに口をつけた。

 炭酸飲料にでもしておけばよかったと、彼は思った。道雄の父は、時折昼過ぎの早い時刻に帰るとき、コンビニエンスストアで買った菓子パンと炭酸飲料をこっそり道雄たちに与えてくれることがあった。道雄はその炭酸飲料の味が好きだった。もさもさとした菓子パンを口の中に含んだまま、炭酸飲料と一緒に流し込むのが好きだった。母親はこれを知ってはいたが、特別やめるようには言わず、彼にとっては休日のひそかな楽しみであった。

 だから余計に、私がなぜトマトジュースを買ったのかはわからなかった。

 今こうして思い出している時でもわからない。この時以来、トマトジュースを飲んだこともない。


 道雄が二、三口トマトジュースを飲んだころ、ふいに車の走る音が聞こえてきた。舗装されていない道の砂利を踏みしめながら、がたごとと荷台に積んだ工具を揺らしながら走る音。彼にはそれが父の車であることがすぐに分かった。

 彼の中に、途端に罪悪感が沸き上がった。彼は親の許可を得ないまま金を使ってしまったのだ。それも、彼が本当には望んでいなかったはずのものに。

 道雄は今こちらに向かっているであろう車の中の父親に見つかるまいとして、すぐにその場を離れようとした。だが、まだトマトジュースは残っている。仕方ないが捨てるしかない。彼には、半分以上残ったトマトジュースをもったいないという思いよりも、自分の罪を父が知ることのないようにしなければという気持ちのほうがよっぽど強かった。

 自動販売機の近くには空き缶を捨てるごみ箱はなかった。轍を踏む車の音はいよいよ大きくなった。

 道雄はその場から離れなければいけないという思いで、持っていたトマトジュースの缶をすぐ後ろの林に捨て、弟にもそうするように言った。弟はわけのわからぬ顔をしていたが、すでに走り出していた兄の背中に遅れまいとして、同じように缶を捨てた。



  *



 結局、父親にそれが知られることはなかった。

 だが、そのとき感じた罪悪感の残滓は今でも胸のどこかにこびりついているように感じる。

 思い出から抜け出た道雄は、手に提げたレジ袋に目を落とした。

 これは彼がアルバイトで稼いだ金で買ったものだ。当然誰にも断りはいらないし、自由に使っていい金だ。

 だがそれは、あの時の小遣いにも言えたことだ。親の断りはいらず、自由に使えた小遣いだったはずなのだ。

 今と昔で、何かが変わったのだろう。罪悪感を感じる閾値とか、金の考え方とか、きっと何かが、ゆっくりと変わったのだろう。そしてそれによってなにか大事なものを失くしたのか、あるいは得たのか、彼にはまだ分からなかった。


 道雄は来た道を戻った。歩きながら、財布の中を確認する。120円、いや、今は130円だろうか。いずれにしても、今の彼には安かった。

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トマトジュース 笹山 @mihono

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