春休みの部活動は、休み明けの新入生勧誘オリエンテーションでの発表に向けてラストスパートに入っていた。私の所属する演劇部は、たった四人の部員全員が役者をやるため、背景音や効果音を管理する「音響」と、光の演出を担う「照明」には、先輩からの依頼で演劇部のOG二人に来てもらっていた。発表日は平日の放課後になるけれど、自由の効く大学生は二人とも問題ないようだ。一応学校部外者である彼女達だが、裏方であれば大丈夫という学校側の許可も取ってある。

 劇はほぼ完成に近い状態にあり、細かな動きの検討や、全体の流れを身体に覚え込ませるように、みんな何度も通しで演じ続けた。私も、今のこの場であれば、恥ずかしさや恐れなくエイミ・フロイゼルになり切れる慣れも、多少の自信も身に付いていた。けれどやはり、数日後に体育館の舞台上で観衆の前に躍り出るという事には、少なからぬ躊躇いや抵抗を感じるし、そうしている自分の姿が、未だに想像さえつかない。


 お昼の休憩時間は、一緒に食べようと先輩達が私を誘ってくれる。いつも一人でいる私に気を使ってくれているのかもしれないけれど、私に対する害意のない先輩達の輪に加えてもらえる事は、素直に心地良かった。休暇中の練習場にしている特別会議室の床に輪になって座り、みんなで昼食を始める。

「詩織ちゃんも上手くなったよね。声もよく出てるし。これなら地区大会も今度こそ勝ち残れるかもしれないよね」

「うんうん」

 食事のさなか、私の話題になった。謙遜の言葉が口を衝いて出そうになったが、ここでの謙遜は地区大会への希望を否定してしまうように思え、

「……がんばります」

 とだけ答える。

「どう? 本番やれる自信ついた?」

 田中さんが眼鏡の奥の細い目をさらに優しく細め、小さな妹を可愛がるような顔で聞いた。みんなの視線が私に集まり、それだけで恥ずかしさに体が熱くなるのを感じる。

「あ、あの……すごく怖くて。舞台って、どんな感じなんでしょうか。想像するだけで緊張してしまって……」

 野菜を両手で掴んで食べるリスのように、サンドイッチをかわいく食べていた藤野さんが手を置いて答えてくれた。

「うーん。観客がいるっていうことに誰も最初は緊張しちゃうと思うけど、実際立ってみると、照明が眩しくてお客さんなんて全然見えないよ。客席側は逆に暗くなってるし」

「そうなんですか」

 三浦さんもそれに続いた。

「一度本番の舞台に上がって声を出してみれば、緊張とかしてる余裕もないって感じて、もうどうでもいいやって思えるようになるよ。それに、こういう閉じられた部屋じゃなくて、広い舞台の上で大声を出して演じる事が、やってるうちにだんだん快感になってくるんだよね」

 先輩たちは「そうそう」と同意し合って笑っている。三浦さんが話した事は、以前高岡先生が教えてくれた事と似ている。

 そんな事を考えて、私はおにぎりを持っていた手をそっと下ろした。

 皆に紛れて笑っていても、ふとした事で頭の中に彼の名が現れると、楽しげに笑っている私の体を置き去りにして、心は小さく膝を抱えて萎れていく。本当の心と、別ものを演じる体が、どんどん離れていく気がしていた。

 高岡先生は、今日は部活には来ていない。あの夜明けから姿を見ていない。

 あんな事、聞かなければよかった。

 好きだなんて、言わなければよかった。私の寂しさが増すだけだった。

 溢れ出しそうになる涙を喉の奥で飲み込んで、先輩達の会話に小さく笑って、冷めたおにぎりを齧る。

 嘘つき。本当を言わない。そう高岡先生を責められる立場では、私もなかった。寂しがって泣いている心を胸の奥に押し込めて、平気な自分を演じているうちに、笑顔の仮面が少しずつ厚みを増していく。こうして心は、縛られて体の奥底の暗く湿っぽい所に押しやられたまま、ゆっくりと死んでいくんだろうか。心が完全に死んでしまえば、この冷たく寂しい世界を、もっと平然と、悩んだり苦しんだりもせずに、生きていけるのだろうか。でも――

「じゃ、午後の練習始めるよ!」

 田中さんの指示で、食後の談笑をしていたみんなが動き出す。私もおにぎりを包んでいたラップを丸め、立ち上がる。

 望む事がある。求めるものがある。縋りつきたいものがある。埋めたい穴がある。忘れたい日々がある。戻りたい過去がある。それが叶わない事のもどかしさ、寂しさ、痛さ。それらに苦しむ心を殺して、空っぽな胸で世界を平然と生きて行くとしたら。体の表面でだけ笑って、ごはんを食べて、眠って、何も考えずに日々を歩いて行くとしたら。その機械のような人生は、体の死にゆっくり向かっていくだけの人生は、一体何なのだろう。何のために生きているのだろう。

 そんな風に考えてしまう私は、痛みに啜り泣く小さな心を今もまだ大事に抱えたまま、じゃああなたはどうしたいのと、今日も途方に暮れている。


 そんな日々の中、学校からの帰宅のために開けた下駄箱に、高岡先生からのメッセージが書かれた小さな紙を見つけたのは、春休み最後の部活動の後だった。


 鍵は開けておくから、一人で本校舎の屋上に来て下さい。 高岡

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Saudade 青海野 灰 @blueseafield

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