痛
早瀬はなかなか泣き止まなかった。彼女が望む事の全てに答えても、僕の言葉を信じないようだった。僕を求めてくれるのならその全てを満たしてやりたいと思うのに、望まれるままに彼女の名を呼び髪を撫で、唇を重ねる度に、心の細胞がひとつずつ黒く萎れて死んでいくような心地がしていた。そしてその感覚を――嘘と仮面で押し殺して外には欠片も出していないはずのその感覚を――、早瀬は鋭敏に感じ取っているように思えた。この小さく泣き震える人間は、僕を構成するものと同じ成分で出来ているのかもしれない、と、思った。
早瀬の部屋の壁に背を預けて座り、僕の両足の間に同じように座って背を僕の胸に預ける早瀬を柔らかく抱き締めながら、次第に白んでいく夜明けがカーテンに落とす冷たい光を眺めていた。早瀬が落ち着くようにと深夜の自動販売機で買ったホットの缶コーヒーは、ほとんど口もつけられないままにテーブルの上で冷え切り、今やその冷たくなった存在が、この部屋に否応なく満ちる孤独の気配に拍車をかけているように見える。
「先生」
ふと早瀬が、擦れた声で僕を呼んだ。
「なんだ?」
「私が先生を好きって言ったのも、嘘ですから」
その言葉の意図が読み取れないが、彼女が嘘だと言うのなら、そうなのだろう。
「……そうか」
僕の顎の下にある早瀬の頭が、微かに俯いたのを感じた。
「先生は、どこからが嘘なんですか?」
「どこから、って?」
「私を好きだとか、抱いた事とか、キスした事とか、一人にしないって言った事とか、私に話した事、全部、とか……」
目を閉じて考える。この腕の中の人を大切に思っている事は疑いようもなく確かだ。傷付けたくない、悲しませたくない、笑っていて欲しい。そうでないと辛いから、この気持ちは間違いなく本物だ。そのはずだ。
「どれも、本当だよ」
僕がそう言うと、早瀬はその肩を抱いている僕の右腕を取り、持ち上げた。何をするのかと見ていると、持ち上げた僕の右手を顔の近くまで運び、唇を押し当てた。右手の人差指近くの甲に当たるその温かく柔らかな感触の左右に、二点の熱い液体が落ちる。と、唇の感触は離され、今度は呼気と思われる温い気体が甲に触れた。その直後、
「いっ――!」
右手の親指の付け根周辺に激痛が走った。早瀬が噛み付いているようだった。渾身の力で噛んでいるのか骨が砕かれると思う程に痛いが、その横を先程と同じ液体が伝うのを感じ、これは僕に与えられる罰なのだろうと考え、堪えた。目を閉じてこの痛みに身を委ねていると、僕の心に重く積もった罪悪がほんの少しだけ軽くなるような気がするが、そう思う自分の心のエゴイズムに、さらに嫌悪が積もっていく。カーテン越しの空が朝焼けの朱を帯びた光で、そんな僕達を、緩やかに照らしていく。
十数秒の後、早瀬はその口を離した。じんじんと残る痛みの上に、再びの微かな口づけ。そして僕の両腕をどけ、彼女はゆっくりと立ち上がる。
「朝に、なりましたね」
僕に背を向けたままカーテンの方を向き、静かに言った。
「そうだな」
外では鳥が鳴き始め、日曜日の朝の到来を告げている。
「もう、帰っていいですよ」
「そうか……。大丈夫なのか?」
「はい。ありがとうございました」
荷物を纏めコートを羽織って扉を出るまで、早瀬はずっと僕に背を向けていた。朝日の差す廊下で佇み、扉が施錠される音を聞いてから、僕は帰宅のため歩き出した。途中のコンビニで包帯を買い、早瀬の歯型が赤く残り、少し血も滲む右手に巻いた。
***
マンションに帰ると、心配そうな顔をした妻に迎えられた。
「おかえり。大変だったね」
「うん……。一応、片付いたよ」
昨夜の不満を言われない事に少しほっとし、服を着替える為に寝室に向かって歩くと、妻はその後ろを付いてくる。頭と思考と眼元が、睡眠を求めて朦朧としている。
「どんな問題が起きてたの?」
「それは、生徒のプライバシーだから、言えないんだ。ごめん」
「うん、そうだよね。ちょっと気になっただけだから、いいの」
疲れているように見える僕を気遣ってか、妻は慌てるような声で答えた。
ダイニングのテーブルにはマフィンとサラダとスープが、二人分用意されていた。それを横目に寝室に入り、服を脱ぎパジャマに着替える。寝室の入り口に立ちそんな僕を眺めながら、妻は口を開いた。
「それでね、俊に手紙が来てたよ」
その言葉に振り返ると、白い封筒を差し出された。
「石田麻希って書いてあるんだけど、誰? 知り合い?」
「ああ……」
右手を伸ばし、封筒を受け取る。
「母方の親戚だよ」
「ふうん」
「じゃ、ちょっと、寝るから」
「うん。お疲れ様。おやすみなさい」
手紙を持ったまま、僕は倒れ込むようにベッドにうつ伏せになった。寝室の引き戸が、静かに閉じられていく音がした。
瞼が重い。右手の噛み痕が痛い。心が重い。心が痛い。
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