部屋には豆電球の弱い灯りだけが漂い、静けさが空気を震わせていた。電気ストーブの吐き出す温風で部屋は暖かいけれど、冷たい寂しさの粒子が、目には見えない蝶のように、透明な雪のように、光子の影で舞っているような気がする。瞬きをすれば睫毛の上で、鈴の音をたてて孤独が弾ける。

 先生は壁際の床に座り足を投げ出し、背中を壁に預けている。その胸に耳を当てるように、私は彼に寄り添って、暗い部屋をぼんやりと眺めていた。自分以外の人の心音を聞いていると安心できる気がして、もう何十分もこうしていた。私の重さで苦しいだろうに、先生は黙って私の肩を優しく抱いていた。

 あんまり静かなので声を出す事が悪い事のように思え、囁くような声で彼に話しかける。

「先生、弁護士の友達なんて、いるんですね」

「ん?」

「さっき、言ってたじゃないですか、電話して今から来てもらうって」

「ああ……」

 先生は力ない相槌の後、ゆっくりと息を吸った。私が耳を寄せている胸が、空気と共に取り込まれる孤独で膨らんでいくのが分かる。そのままため息にも似た深呼吸をして、肩を抱いていた手を思い出したように私の頭に乗せ、そっと髪を撫でた。

「あんなの、ハッタリだよ。善人や常人を装いながら、その影の悪事が暴かれる事を恐れている人間は、法や警察という脅しに弱いから」

「そうなんですか」

 あれから、熱いお風呂と先生の存在で落ち着きを取り戻した私の頭は、弾き飛ばされた携帯電話と、私が電話をかけた時にそれがあっただろう場所を思い出した。

「そういえば、外食に行ってたんですよね。ごめんなさい。いきなり電話して、迷惑でしたよね」

 彼はひとつの呼吸を挟んで、

「大丈夫だよ」

 と言った。

 嘘だ。大丈夫と言う時の彼は、大抵無理をしているか、嘘をついている。きっと、私が呼び出したせいで、奥さんと何かあったんだろう。

「……そうですか」

 この人は優しいのだろうか。冷たいのだろうか。残酷なのだろうか。愚かなのだろうか。寂しいのだろうか。苦しいのだろうか。

 助けに来てくれたこの人を、守ってくれたこの人を、傍にいてくれるこの人を、私も助けたい。守りたい。傍にいたい。寒いのなら温めたい。寂しいのなら抱き締めたい。苦しいのなら救いたい。でもいつも本当を見せてくれない。

 寂しさと一緒に、この人が好きだという気持ちが止めようもなく熱く溢れ、涙になって零れた。首を動かし、今も痛んでいるであろう胸に頬ずりをすると、溢れた涙が彼の服に滲んでいく。

「先生」

「……ん?」

「好きです」

 耳を当てている胸の鼓動が一定の緩やかさのまま、一度だけ、大きく鳴った気がした。この人が考えている事が、一つの取りこぼしも誤解もすれ違いもなく、この心音から伝わればいいのに。

 先生はゆっくりとした二度の呼吸の後、絞り出すような声を零した。

「僕もだよ」

「それは、嘘です」

「……どうして決めつけるんだい」

「それくらい、分かります」

 彼の胸がゆっくりと膨らみ、吐き出されるため息でしぼむ。

「君は僕に、どうして欲しいんだ」

「私を好きになって欲しいです」

「だから、言っているじゃないか。好きだよ」

 私の髪を撫でながら言うその言葉が、胸に嬉しさと悔しさと悲しさを溢れさせ、涙が幾重も熱く頬を伝う。

「嘘ですっ」

 この人の言葉を信じられない自分を、信じてはいけないと思わせるこの人を、全部ぐちゃぐちゃに壊してしまいたくなるのに、それでも心は強く強くこの人に引かれ続けていく。この人なしでは、生きられなくなっていく。

「困ったな。どうしたら信じてくれるんだい」

「キスして下さい」

 彼は私の肩を放して右手で私の顎を引き、唇を重ねた。数秒の後そっと顔を離し、静かに言う。

「信じた?」

 信じられません。嘘です。私は泣きながら首を振った。

「まだだめか。他には、どうすればいい?」

「抱いて下さい」

 私の肩と頭に手を添え、彼はゆっくりと私を床に寝かせた。天井の微かな光からも私を隠すように私の上に四つん這いになり、私を見下ろす。

「本当に? 無理はしなくていいんだぞ」

 涙は止まらず、私はもう顔を歪めて啜り泣いていた。

「好きだって言って下さい」

「好きだよ」

「嘘です」

「好きだ」

「嘘っ――」

 私の口を彼の唇が塞いだ。長く優しいキスの中差し出される舌を触れ合わせながら、私は声をあげて泣いた。

 望んだ言葉が、ここにあるのに。信じられない。どうやっても信じられない。その真実が、どこまでも悲しい。私を好きだと言いながら、彼は私を、見ていない。彼は誰をも、見ていない。

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