階段を下りた早瀬の叔父は、苛立ちをぶつけるように駐輪場の雨避けの柱を蹴って、暗闇の中に消えて行った。静かな夜に響いたその激しい音に、早瀬は肩を震わせて怯えていた。僕はひとまずこの場を収拾できた事の安堵に深く息をつき、早瀬に声をかける。

「……大丈夫か」

 彼女は今にも感情が溢れて泣き出しそうな顔で僕を見上げ、俯き、崩れるようにしゃがみ込みながら、僕の左足に縋り付き額を押し当てた。消え入るような擦れた声で、僕を呼んでいる。

「先生っ、先生っ」

「もう大丈夫だ。あいつは行ったよ。何もされなかったか?」

「……お腹を、殴られました」

 震えるその言葉に、再びの憎悪が胸に燃え上がった。二度と手を上げられなくなるまであいつを殴ればよかったと唇を噛む。しかし今は、目の前の早瀬の方が大事だ。膝を折り顔を近付け、髪を撫でる。

「すまん……。僕が来るのが遅かったな」

 早瀬は小さく頭を振った。裸足の指や甲が寒さに赤くなっているのが見え、どれだけ混乱して外に出たかが分かる。

「とりあえず、部屋に入ろうか。寒いだろう」

「はい……。あ、でも――」

 財布だけ持って窓から飛び降りた彼女は、扉の鍵を持っていないようだった。飛び降りた事による骨折や痛みはないようなので安心したが、その行動に彼女の尋常ではない動揺と叔父への拒絶が伺える。

 解錠を依頼するためアパートの大家を調べて電話をしたが、鍵を用意して到着するまで30分程かかるとの事だったので、早瀬に僕のコートを着せ、車に暖房を入れてそこで待つ事にした。彼女が飛び降りる時のクッションにしたという、アパートの裏に落ちていた毛布を拾って、塵を落とし、汚れていない面で早瀬の冷え切った素足を包んだ。彼女は助手席で終始俯いて黙っており、その表情は髪と闇に隠されて見えない。僕も運転席に座り、腕を組んで窓から外を眺める。早瀬は何を思っているのだろうか。どんな声をかけるべきなのだろうか。

 デジタル時計は「20:13」を示している。電柱に付けられた街灯だけが冷たく光を落とし、車中には夜が満ちて、寂しい僕達を静かに溺れさせていく。呼吸が見えない泡になっていく。救いの見えない未来に、息がつまっていく。

「……先生」

 静寂の中、俯いたまま呟くような早瀬のその声は、いつもよりも低く響くように感じた。

「なんだ?」

「今日の、夜が、明けるまで、傍にいて下さい」

 返答に窮した。妻は今も、あのレストランで一人僕を待っている。

「……すまんが、今日は」

「私を」

 早瀬の声に震えが交じった。冷たい空気を吸い込んで、青ざめた唇で言葉を零す。

「一人に、しないって、言いましたよね」

 心臓を茨の様な痛みが縛る。それは心地良いものではなく、絶望的な寂寞の共振、肋骨を開いて掻き毟りたいような傷の疼きだ。あの夏の夜に、彼女の闇を知ってしまった以上、彼女の孤独の皮膚に触れてしまった以上、僕はどうやっても、早瀬を一人には出来ない。早瀬から、離れられない。

「……分かった」

 同意しても、彼女はいつかの月の夜の様には微笑まなかった。


 車外で妻に電話し、もうすぐ戻る旨を伝えた。電話越しの妻の声にも元気がなく、後ろ暗い罪責がまた僕の心に圧し掛かる。やがてアパートに到着した、ぶつぶつと苦言を零す老いた大家に平謝りし、早瀬の部屋の鍵を開けてもらった。彼女を部屋に入れ、また後で訪れる事を告げると、僕は車を運転し妻が待つレストランに戻った。

 テーブルには犇めく程の料理の皿が並べられ、そのどれもがもう湯気を立てておらず、手も付けられていない。

「おかえり、遅かったね」

 妻は俯いて僕を見ないまま言う。

「……ごめん。怒ってるよな」

「怒ってないけど――楽しみにしてたから、悲しい」

「ごめん……。僕がいなくても、食べていれば、よかったのに」

「俊を待ってたの」

 心がギシギシと音を立てて軋む。これから僕が口にする事と、その後この人の知らない所で行われる事を思うと、激昂して首を絞めて殺してくれた方がよほどマシだと思ってしまう。

「それなんだけど……まだ問題は片付いてなくて、またすぐに行かなきゃならないんだ」

 妻がようやく顔を上げ、僕の目を見た。その表情に驚きが滲んでいる。泣いていたのか目元が僅かに赤くなっている。

「え、じゃあなんで戻ってきたの」

「車で来たから、由美をマンションまで送らなきゃだろ。ここから歩いて帰るのは大変だから」

 妻はゆっくりと視線を落とし、黙って頷いた。

 このままではもったいないからと、妻の提案で少しだけでも食べて行く事になり、椅子に座った。優しいクラシックのBGMが流れる静かな個室で、二人で無言のまま箸を動かしていると、やがて妻がぽつりと言った。

「お仕事だから仕方ないって、分かってるけどさ」

 見ると、箸をもったまま俯く彼女の目から、ぽろぽろと涙が落ちている。その光景に、頭部を鈍器で殴り飛ばされるような衝撃を受けた。

「料理だけを、楽しみにしてたわけじゃないのに」

 溢れそうな心に、悔恨の雫が落ちる。

「一人で食べてればよかったのにって、ひどいよ」

 彼女が、僕が手を付ける事を待っていてくれた料理の味など、一つも感じる事が出来ないままに。その涙に僕はただ、謝る事しか出来なかった。


 助手席で黙ったまま時折涙を拭う妻をマンションまで送り、抱き締めて何度も謝った後、僕は一人歩いて、先程も訪れたあの古アパートに向かった。捩じ切れそうな心と脳を抱えて「203」の扉の前に立ち、インターホンを鳴らす。

 壊れていく。壊れていく。

 愚かな僕の、愚かな行動で、穏やかな日常さえもが壊れていく。守りたいはずの大切なものまで、寂しい僕の手が壊していく。

 誰か僕を、殺してくれ。いや、それでは妻を悲しませる。早瀬を一人にしてしまう。僕はまだ死ねない。絶望的に、まだ死ねない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る