「なんだ、電話してたのか。居留守でもしてんのかと思ったよ」

 伸二叔父さんは、電話ボックスの扉を開けて言った。夜の冷たい風が入り込んでくる。叔父の顔は、背後からの電灯の明かりで表情が見えない。

「ん? なんで裸足なんだ? っていうかお前、泣いてんのか? 誰に電話してたんだ?」

「あ、……う……」

 挨拶をしなくては、返事をしなくてはいけないのに、恐怖と混乱と悲嘆が喉に詰まり、うまく声が出ない。

 叔父は腕を伸ばし、私の右手首を掴んだ。体が無意識に引き攣る。

「まあいい、ここは寒いから、さっさと行くぞ」

「ど、どこへ?」

「あ? お前の部屋に決まってんだろ」

 絶望が、黒く鋭利な刃物になって、静かに冷たく心を切り落としていく。

「はい、すみません……」

 見つかったらお終いだった。私はこの人に逆らえない。掴まれた右手を乱暴に引かれ、電話ボックスを出て冷たいアスファルトの道路を横切り、アパートに向かう。駐輪場を含むアパートの敷地には砂利が敷き詰められており、普段は気にもしないその尖った石達の存在が、無遠慮に裸足の皮膚に突き刺さっていく。苦痛に顔を歪めても、叔父は手を引く力を緩めない。

 冷たい階段を裸足で踏み、これから私の部屋に連れ込まれ行われる事を考えながら、私はある事に気付いた。そしてその失敗がもたらす困惑の中に、微かな希望も見出した。窓から飛び降りた私は、部屋の鍵を、持ってきていない。

「ここだろ、お前の部屋」

 叔父は「203」と書かれた私の部屋の前で足を止め、私を見下ろした。お酒の匂いの交じる口臭が、忌々しい記憶と共に鼻孔を突く。

「……はい」

「早く開けろよ」

「はい」

 右手を掴まれたままの私はパジャマのポケットに悴む左手を入れ、あるはずもない鍵を探すふりを始めた。ここで時間を稼げば、高岡先生が来てくれるかもしれない。それでも上着とズボンの四つのポケットは、すぐに探す場所がなくなり、それを見ていた叔父は苛立ちの声を出した。

「何やってんだよ」

「あ、あの、鍵が、見つからなくて」

「はあ?」

「落としたのかも、しれません」

 叔父の舌打ちの音が聞こえた直後、

「ううっ!」

 私のお腹に衝撃と鈍痛が走った。叔父の右手の拳が私の腹部にめり込んでいた。

「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」

 痛みと恐怖に体がガクガクと震え、涙が零れる。

「ホント使えねぇなお前は。どこで落としたんだよ」

「アパートの、入口の、前かもしれません。あの、砂利がある所……」

「じゃあ行くぞ」

 叔父に手を引かれ、詰られながら、私は再び冷たい砂利の上を歩かされた。あるわけのない鍵は見つかるはずもなく、先程渡った車道や電話ボックスも探した後、また部屋の扉の前まで移動した。叔父は完全に苛立っており幾度も体を殴られたけれど、部屋に入らない事には、本当にひどい事はされない。

 その時、道路の方から一台の車が走り来て、ブレーキの音を立ててアパートの前に止まった。そこから出てきた人の影に、私の心はようやく救いを感じた。

「早瀬!」

 先生が、来てくれた。

「誰だ、あの男」

 私は叔父の問いには答えず、走る先生をただ目で追っていた。彼は階段を駆け上がり、小さく息を切らしながら私達の所へ辿り着いた。

「先生っ」

「早瀬、大丈夫か」

 叔父が彼を一瞥した後、私を睨む。

「先生ぃ? おいお前、俺が来たからってチクったのかよ。俺が来るのが迷惑だってのかよ!」

 振り上げられた拳に、私は反射的に目をつむり身を屈めた。直後に何かがぶつかるような鈍い音がしたが痛みはなく、目を開けると叔父の右手を、先生の右手が掴んでいた。叔父が眉を顰めて先生を見る。

「なんだよ」

「無闇にその子を殴る事は許しません」

 弱々しい明かりの下で先生は、今まで見せた事のない鋭く真剣な眼をしていた。その表情に忍ばされた怒りを見て、私の心は震える程喜んだ。

「俺はこいつの保護者だぞ! 他人が口出しするな!」

「私はこの子の担任です! 他人ではありませんし、守り導く責務があります!」

 叔父が拳を引いたので、先生もそれを掴んでいた右手を放した。叔父は鼻で笑い、口を開く。

「担任ごときが生徒の私生活にまで干渉できると思ってんのか。こいつが学校に行けてんのは、俺が金を出してやってるからだ」

「彼女は奨学金を受け取っていると聞いています。それに、資金を送り生活させているからと言って、あなたが彼女を自由に出来るという決まりはどこにもありません」

「じゃああんたが俺を止める権利もないだろう」

「不当な暴力は身内といえど犯罪です」

「これは暴力じゃなく躾だ! こいつを預かった身として当然の事をしているだけだ!」

 躾と言って、何度裸にされて殴られたか分からない。そしてその度にベッドの上で覆い被さる重さと、体の外側も内側からも破壊され汚されていくあの感覚を思うと、触れられた全ての部分に黒く抉られるような嫌悪が湧き起る。それもこの人は躾と言うのだろうか。

 先生は小さく息を吐き、表情をなくした冷たい顔で、冷静な声を出した。

「分かりました。弁護士をやっている友人を至急呼びますので、彼に第三者の視点から法に基づいた判定をしてもらいましょう。その上で私が間違っているようであれば、潔く身を引きます。少々お待ち下さい」

 そう言いながら、右手でポケットから携帯電話を取り出し、操作して耳に当てた。

「暇じゃねぇんだよこっちは!」

 叔父さんは慌てたように怒鳴りながら先生の右手を払った。先生が耳に当てていた携帯電話が音を立てて廊下に転がる。それをゆっくりと拾い上げながら、先生は言葉を続けた。

「お望みであれば警察を呼びましょうか。その方が早く来てくれるでしょうし、贔屓のない公正な意見を聞けそうですね」

「だから暇じゃねぇっつってんだろ! もういい、帰る!」

 叔父は掴んでいた私の手を投げる様に乱暴に放し、先生を睨みつけながらすれ違って廊下を歩いて行く。階段の手前で振り返り、

「おい、お前、名前は」

 と先生に言った。

「……高岡と言います」

 それを聞き、「フン」と鼻で答えた後、叔父は階段を下りて行った。

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