携帯の通話終了ボタンを押すと、無意識に自分が椅子から立ち上がっていた事に気付いた。

「ど、どうしたの? 何かあったの?」

 妻が僕を見上げて聞く。僕は携帯をポケットに戻し、横の椅子にかけてあるコートを取って羽織りながらそれに答える。一刻も早く駆けつけなくては。

「僕の生徒に問題が起きてる。悪いけど、行ってくる」

「ええっ? 食事は?」

「食べてて。ごめん」

「え……、結婚記念日」

「……ごめん」

 謝ると、妻が泣きそうな顔をする。心が引き裂かれそうになる。何でこんな時にと早瀬を恨みそうにもなってしまう。

「どれくらいかかるの?」

「分からない、けど、出来るだけ早く戻ってくるよ」

 僕の言葉に妻は俯き、暫く黙り込んだ。申し訳ないという気持ちと裏腹に、焦りが募り苛立ちに変わっていく。拳を固く強く握りしめ、その痛みで感情を押し殺す。やがて妻は顔を上げないまま、小さく頷いた。

「うん……分かった。行ってらっしゃい」

「ありがとう。すぐに戻るから」

 聞き入れてくれた彼女の髪に感謝と謝罪のキスをして個室を出た。ウェイターに急用で席を外す事と、妻には料理を出すように伝え、店を出て駐車場に走り、車に飛び込んでエンジンをかける。しんと眠っていた冷たい鉄の塊が、目を覚まして嘶く音が響く。ここから早瀬のアパートへは、飛ばして10分程か。

 早瀬が言った「叔父」の話は、以前彼女自身の口から聞いた事があった。エアコンもないあの古アパートの、熱と湿度と不快さが粘度を持って肌に張り付いてくるような、蒸し暑い夏の夜だった。長い沈黙の後に、光の下では話せないと蛍光灯の明かりを消し、被う闇の中で甦る記憶に震えながら、ぽつりぽつりと零すように、時に叫びのように、その言葉を繋げた。僕の腕の中で、僕に怯えながら、僕に縋り付くように。

 都心から離れているとはいえ、この時間帯は交通量が多く、車はスムーズに進まない。警鐘の様に赤く光る信号に舌打ちし、指で小刻みにハンドルを叩く。早瀬はどうなっているだろうか。僕のマンションに向かっているだろうか。叔父と遭遇して逃げ出したのだろうか、それとも事前に察知したのだろうか。マンションに向かわせたのは、失敗だっただろうか。見た事もない彼女の叔父が、彼女の皮膚に触れる事を思うと暴力的に湧き起こる殺意に、歯噛みして前方を睨む。それが僕が彼女にした事と何が違うのかという自責とない交ぜになり、ギシギシと音が鳴る程にハンドルを握り締めた。

「違う! 僕は違う!」

 何が違うというんだ。僕も汚れきった愚かな大人だ。自分よりも弱いものを蹂躙して自らの欠落を満たそうとしているだけだ。

「違う! 違う! 違う!」

 信号の灯りがGOを示す青に変わり、僕はアクセルを踏み込んだ。僕の叫びを代弁し、エンジンは闇の街に唸りを上げる。


 数分後、車は早瀬のアパートのある道に差しかかった。彼女の部屋の小さな窓から光が漏れているのを見つけ、心が焦りに燃え上がる。しかし僕の目はすぐに、その部屋の扉の前に二人の人間が立っているのを捉えた。遠さと暗さで詳細までは見えないが、一人は大人の男の身長で、もう一人は小柄なシルエットだ。早瀬、だ。

 急ブレーキで車をアパート前の路肩に止め、鍵を抜き車を出て、二階に上がる為の階段に向け走り出す。二つの人間の影が音を聞きつけたのかこちらを向いた。

「早瀬!」

 階段を一段飛ばしで駆け上がり、二階部分の廊下に辿り着く。廊下の左側には部屋の扉が四つ並び、右側は手摺を挟んで夜が広がっている。奥から二番目にある早瀬の部屋の前に佇む二人に駆け寄ると、小柄な方の影がやはり早瀬である事を認識した。彼女の右手首は、隣に立つ男に掴まれている。今にも消え入りそうな頼りない光の中でも、彼女の頬を涙が伝った跡がある事が分かる。慌てて外に出たのかパジャマの上にコートも着ずに、その足には靴さえも履かれていない。早瀬は小さく震える声を出した。

「先生っ」

「早瀬、大丈夫か」

 早瀬の手を掴む男は、その声に一度彼女の顔を見た後、僕の方を向いて言う。

「先生ぃ?」

 酒に酔っているような濁った声だった。中年太りしたその体は黒いダウンコートのためにより体積を増して見える。肥えた顔に浮かぶ油が照明を反射し、口元の下品な髭が醜く歪むその男は、赤く血走った目で再び早瀬を見下ろした。

「おいお前、俺が来たからってチクったのかよ。俺が来るのが迷惑だってのかよ!」

 男が左手で早瀬の右手を掴んだまま、右手の拳を振り上げた。早瀬は小さく悲鳴を上げ体を畏縮させる。男の拳が彼女に向かう瞬間、僕は静かに黒く燃える、冷たい炎のような憎悪を帯びた右手を突き出した。

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