春休みの部活動は、二日に一回のペースで行われた。平日は、お昼から夕方までの時間で活動し、土曜の練習だけ朝から夕方まで使われる。平日は仕事がある先生も、土曜日はよく顔を出していた。先輩達が先生におねだりして、お昼の時間に皆で外にラーメンを食べに行ったりもした。


「寒さも大分和らぎましたね」

「そうだな。コートはまだ手放せないけど、マフラーはもうしまったよ」

「私もです」

 自転車を押して、いつもの坂道を先生と並んで歩く。土曜の部活はこうして彼と歩いて帰れるから好きだ。冬の間はあっという間に沈んでいた陽が、まだ橙色の光を残して坂道を照らしている。まだ少し冷たい空気が、被うもののない首元に柔らかく触れ、鎖骨を撫で、髪を静かに梳かしていく。

「お昼のラーメン、美味しかったです。ご馳走様でした」

「いいよあれくらい。普段なかなか部活に貢献できてないから、昼飯くらいは役に立たないと忘れられてしまう」

 散髪したのか少し短くなった先生の髪が、夕陽の優しい光を浴びてそよそよと揺れた。少し、胸が苦しくなる。

「また、行きたいですね」

 今度は、二人で。

「うん、また行こう」

 彼は前を向いたまま静かに微笑んだ。その視線を追って私も前を向くと、坂の下に広がる街が、オレンジ色の海に浸っているように見えた。きっと私の言葉の意図には、少しも気付いていない。


 今日は外に食事に行くからと、先生は部屋に上がらずに帰って行った。一人で扉を閉め、小さくため息をつく。坂の上から見た時は、暖かに光る海の中にあるように見えたけれど、夕暮れの明りはあっという間に消え果てて、実際の部屋にはしんとした孤独が漂っているだけだった。

 早めの夕飯とシャワーを済ませた後も、特に何もやる事がない私は、結局また台本を開いて読むだけになる。田中さん手作りのこの冊子はもうボロボロになり、私は他の役の台詞まで諳んじて言えるくらいになっていた。

 突然、来客を知らせるインターホンの音が部屋に響き、椅子の上で跳ね上がる程驚いた。時計を見ると、夜の7時半。こんな時間に誰だろうか。胸の動悸を感じながら、足音をたてないようそっと玄関まで行き、扉の覗き穴から外を見て私は血の気が引く音を聞いた。外は暗く、アパートの照明が冷たく照らす廊下。そこには、私の父の、弟――私が母から引き離され、中学生の頃住まわされていた家の――、伸二叔父さんがいた。

 悲鳴を上げそうになる口を慌てて両手で塞ぐ。全身の皮膚が総毛立ち、拒絶を叫んでいる。あの人の太い手が、がさがさとした指が、油の浮いた顔が、腐臭を放つ舌が、夜毎私の体を這いずり回る感触が甦り、殴られる時の痛みがフラッシュバックし、頭が壊れそうになる。涙が流れ、呼吸が乱れていく。なんで。なんで。なんで。なんで。あの人がここに。

 後ずさりして扉から一歩離れると、再びチャイムが鳴り、その驚きと恐怖で私は床に尻をついた。ガチャガチャとドアノブが揺らされる。扉が三度叩かれる。

 パニックに溺れそうになる私の脳に真っ先に浮かんだのは、高岡先生の姿だった。扉から逃げる様に急いで、でも音を立てないように慎重に、私は床を這ってバッグから財布を取り出し、パジャマのポケットにねじ込んだ。部屋を見回し、掛け布団の下の毛布を引きずり出して丸める。静かに窓を開け、腰の高さにある桟に右足をかけると、氷のような冷たさが素足の裏に食い込んだ。もう一方の足も乗せ、左手で桟を掴んで体を支える。身を乗り出してアパートの二階から見下ろす地面は、暗闇の中で巨大な底なし穴の様に感じる。心臓は壊れそうな程に暴れ、乱れる呼吸で頭が朦朧とする。

 背中の方にある扉越しに、叔父の苛立ちを含んだ声がした。

「詩織ぃ、いるんだろぉ?」

 その声に背を突き落とされるように、私は左手を放して足をかけていた窓枠から飛び出した。右手の毛布を両手で持ち直し、足の下に移動する。重力は迅速に私を引き寄せ、地面はすぐに私を迎えた。着地の衝撃を和らげてくれた毛布をその場に捨て置き、私はそのまま、近くの公衆電話に向け駆け出した。裸足をコンクリートに打ち付ける度に痛みが走るが、恐怖がそれを忘れさせた。

 無機質な光を放つ電話ボックスになだれ込み、震える手で財布を開いて10円玉と一枚の紙を取り出す。緑色の電話機に硬貨を投入し、息を切らしながら紙に書かれた番号を押して、祈るように受話機を耳に押し当てた。呼び出し音が繰り返される。

 先生。先生。助けて。助けて。怖い。

 やがて呼び出しの音は止まり――

「……もしもし?」

「先生っ」

 ようやく聞こえた彼の声に、涙が溢れた。

「先生、助けてっ。叔父さんが来た!」

 受話機の向こうで息を呑む音が聞こえた。

「すぐに行く。アパートだな?」

「はい。助けて、助けて」

「待ってろ、すぐ行くから。僕のマンションに行っててもいいから」

「はい」

 プツリという電子的な切断音と共に、電話は切れた。彼が来てくれる。それだけで、微かに心は安堵する。受話機を戻し、思い出したように全身を包む寒さに震えながら、深呼吸を繰り返して息を整える。

 叔父に見つからないように慎重に移動して、言われた通り彼のマンションに向かおう。そう思ってボックスの出口の方に振り向いた時、透明なガラスのすぐ向こうで無表情に私を見つめる伸二叔父さんと目が合った。空気の冷たさが増し、私の体の内側を流れる血が、黒く汚れた気がした。

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