石田麻希との手紙のやりとりは、学年末試験が終わり、三年生の卒業式と在学生の終業式を経て、学校が春期休暇に入ってからも続いていた。僕は朝の投函が楽しみになり、いつも早く起きてはその手紙を読み、妻に見つからないように返事を書いた。

 道端の花が開き、木は蕾をつけ、僕の住む町を満たす暖かみを帯び始めた空気は、長かった冬の終わりと、訪れる春の気配を漂わせていた。今季の東京は結局、一度も雪は降らなかった。


――あなたとこうして手紙でお話ししていると、あなたの書いてくれた文字を読んでいると、まるで俊也が傍にいてくれているような気持ちになるんです。あ、いなくなった恋人を重ねるなんて、あなたに大変失礼ですね。ごめんなさい。でも本当に、心が温かくなって、嬉しくなるんです。これからも、手紙、下さい。――


――僕もあなたとお話ができて、嬉しいです。そうして喜んでくれると、僕の胸も温まるのです。他の誰かを重ねられる事は、何の問題もありません。それであなたの心が安らぐのなら、いくらでも重ねて下さい。僕に何か出来ることがあれば、何でも仰ってください。僕はあなたを、温めたいのです。――


 僕は石田麻希と手紙のやり取りをしながら、いつの間にか、彼女の悲しみの深さに心を掴まれ、彼女の計り知れない優しさに酔いしれ、抜け出せなくなっていた。始めはどこかぎこちない交流だったが、彼女は次第にその傷を吐き出すようになり、それに合わせるように僕も過去の闇を少しずつ曝け出した。

 彼女の痛みに触れ、またその温かな優しさに触れられる度に、乾燥してひび割れていた心に熱いものが満ちて行くような心地がしていた。傷付き悲しむ彼女をこの手で、この腕で、慰め、抱き締め、癒したいと思うようになっていた。

 それが、許されるはずもないことを、知りながら。


 ***


 教師という仕事をしていると、長期休暇があって羨ましいと友人らに言われる事があるが、生徒達の長期休暇を教師も休んでいるという考えは大間違いだ。休暇中に行われる入学試験に向けた準備や連日の会議、試験後はその採点作業、翌年度のカリキュラムの構成検討と準備・予習、研修や勉強会、さらに受け持っている部活動の監督等もしなくてはならず、特に春期休暇は通常の授業のある日々よりも忙しく感じるくらいだ。

 今日は土曜日で業務は休みだが、朝から演劇部の活動に参加した。部活の顧問は無手当なので、敬遠する教師も多い。しかし生徒を指導し成長させ、何かの結果を出させる事で共に感動するということに喜びを見出している方も多い。僕の場合、情熱や執念といったものはないので、演劇部OBという惰性でやっている面が多いが。


 夕方に演劇部が解散した後、早瀬をアパートまで送ってから、車を出して妻と食事に向かった。結婚記念日を祝うため予約しておいたレストランに駐車し、店内に入る。ここは黒を基調としたスマートで落ち着いたカラーリングで、全室個室でゆっくりと食事をできるため、毎年の記念日に利用していた。

「結婚してもう五年目になるなんて、驚いちゃうよねぇ」

 間接照明が柔らかな光を落とす個室で、テーブルを挟んで僕の前に座る、いつもより少しだけ華やかに着飾った妻は、先程飲んだ食前酒のためもあるのか陽気そうに見える。この人が笑っていると、安心する。僕の心と頬も自然に緩む。嘘をついているという意識が、今も胸を痛めているが、それを彼女に気取られてはいけない。

「そうだね。過ぎてみるとあっという間なもんだよな」

「ねー。で、こんな感じの会話、毎年してる気がするよね」

「確かに」

 二人で笑っていると、前菜が運ばれてきた。エビが散りばめられたシーザーサラダと、湯気を立てるコーンクリームスープが、静かにテーブルに並べられる。彼女のシャンパングラスには黄金色のスパークリングワインが注がれた。

「わあ、美味しそう。ごめんね、私だけ飲んじゃって」

「いいよ、車で来たんだし。じゃあ、食べようか」

「うん、私お腹すいちゃったよ」

 スプーンを持ちスープから手を付けようとした時、ポケットに入れていた携帯電話が振動した。取り出して画面を確認すると、非通知での着信だ。

「メール?」

 サラダを取り分けるためトングを持った妻が、手を空中に静止したままそう聞く。

「いや、電話。でも非通知だ」

「ふうん……。切っちゃえば?」

 楽しい食事のスタートに水を差されたのが不愉快なのか、妻は少し口を尖らせた。

「うん……。でも学校関係の緊急の用事だったらまずいしな」

 しばらく液晶画面を眺めていたが、数秒経っても鳴り止む気配がない。渋々通話ボタンを押して耳に当てた。

「……もしもし?」

「先生っ」

 それは早瀬の声だった。早瀬は携帯電話を持っていないが、何かあった時の為に僕の番号を紙に書いて渡してある。それでも実際に電話がかかってきたのは、これが初めてだった。嫌な予感が背筋を走った。

 緊迫に震える彼女の、誰かに聞かれる事を恐れるようにひそめられた、しかし悲鳴にも似た泣き出しそうな声が、受話口から僕の鼓膜を叩いた。

「先生、助けてっ。叔父さんが来た!」

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