先生、私の事好きですか。

 彼を呼びとめて、そう聞いてしまいそうになった。

 思えば彼の口から、私を好きだという言葉を聞いた事がない。私もまた、一度も口にしてはいないけれど。

 聞いてしまえば、私の望む答えが返らず、この寂しさが決定的なものになってしまいそうで、あるいは、私の望む答えをもらえても、それが彼の本心からの言葉だと信じる事が出来なさそうで、とても言えなかった。

 でもこの頃、不安でしかたない。言葉が欲しい。確信が欲しい。私を一人にしないで欲しい。


 学年末試験の一週間前から、部活は休止となった。普段から勉強している引きこもり気味の自分は試験は問題ないと思うので、人との繋がりを感じられる部活を続けてくれるほうが嬉しいけど、わがままは言えないし私が言った所でどうにもならない。

 それでも部の先輩達が、いつもの多目的教室で勉強会を開いてくれ、放課後に集まって勉強する事はあった。分からない所があれば聞いてねと言ってくれる田中さんに何も聞かないのは悪いかと思い、本当は分かっている数学の問題の解き方を質問した。彼女は一学年下の数式を思い出しながら優しく教えてくれて、私も納得した風を装ってお礼を言った。こんな自分を、少し嫌いになったりしながら。

 試験期間の間、仕事終わりが遅くなるから待っていなくていいと言われ、いつもの帰り道を並んで歩けず、私は先生とほとんど会話もできなかった。ある日、このまま疎遠になっていってしまうのだろうかと心細く肩を落とし、帰宅のため一人校舎を出た時、グラウンドの隅に立つ先生の姿を見つけた。校庭の端に校舎の灰色の壁が垂直に聳え、そこから側溝を挟み少し距離を置いて花壇が設置されている。今は花も草もないけれど、その花壇の傍に先生は立っていた。部活がないとはいえ真冬の放課後の空はとっくに光を失い、校舎から漏れる灯りだけが、俯く彼を辛うじて照らしている。私は足を止め、暫く彼を眺めたけれど動く様子がないので、声をかけてみる事にした。凍っているような冷たい気配を放つグラウンドの土を踏みしめ、先生の方に歩み寄る間も、彼は時が止まったように暗闇の中じっと佇んでいるだけだった。

「先生」

 私の声にゆっくりと顔を上げると、彼の眼や頬に、一層の闇が落ちる。

「ああ、早瀬。お疲れ」

 表情は見えないけれど、その声は力ない。

「こんな所で何してたんですか?」

「何でもないよ。少し休憩してた」

 またこの人は嘘をつく。煙草も吸わない先生が、コートも着ずにこんな所で休憩しているわけがない。それでも私は、それ以上踏み込めなくなる。

「そうですか。お疲れ様です」

「勉強の方はどうだ。何か分からない所ないか?」

「ええ、大丈夫です」

「そうか。じゃあ、気を付けて帰れよ」

 私は静かに息を呑んだ。突き放されたような感覚に、心にヒビが入る音がした。

「……はい」

 頭を下げ、先生に背を向ける。彼にとって私という存在が、取るに足らないものなのではないかという懼れが、冷たい水の様に心に浸透してくる。今しゃがみ込んで泣き出せば、彼の心に私も入り込めるのだろうか。服を脱いで裸になれば、温めてくれるのだろうか。でもそれでは彼に迷惑がかかるかもしれない。軽蔑されて嫌われるかもしれない。だから何も言えなくなる。いい子でいる以外、何も出来なくなる。

 一人で泣き出したくなる気持ちを抑えながら暗い校庭を歩き、校門へと向かう舗装路に足をかけた所で、校舎から出てきたクラスメイトの女子三人組に声をかけられた。

「あれ? 早瀬さんじゃん。何やってるの?」

 普段話す事もない、クラスの中でも活発な彼女達に見つかり、無意識に心が身構えるのを感じる。

「あ、何でもないの。ちょっと散歩してただけ」

「散歩? ふうん……」

 彼女達は顔を見合わせた。声も出さず表情も見えないけれど、体の揺れから私の発言を笑っただろう事が分かった。剃刀を当てられたように恐怖が胸を縛り、心臓が不快に脈打つ。もっとマシな嘘はつけなかったのかと頭を抱えたくなる。

「がんばってねー」

 私の方に向き直り笑顔でそう言い、彼女達は校門へ歩いて行った。その姿が見えなくなるまで、私は身動きが出来なかった。深く息を吐いて、胸に残る恐怖を追い出そうとしても、心臓に絡み付いた不快な感覚は簡単には取れない。もう遠くなった花壇の方へ縋るように振り向いても、先生はまだそこで俯いているだけだった。

 家に帰り、一人で教科書を開き、静かに涙を零した。


 学年末試験は四日間をかけて滞りなく終わった。目立ちたくないので、高得点になり過ぎないようにいくつかの問題をわざと間違えて提出した。試験が終わると、その解放感とやがて訪れる春休みの予感にクラスが浮き立つのが分かる。けれど私は、突き付けられる空白の時間と、その後に行われるクラス替えが今から憂鬱で、机に座ったまま外ばかり眺めていた。別のクラスになって離れてしまいたい人もいるけれど、どうして、ようやく慣れて落ち着いてきたクラスメイトを入れ替えるのだろう。どうして毎年担任教師が変わるのだろう。またそこで、自分がいても問題ないような、自分を放っておいてくれるような空気作りに、心を裂かなくてはならなくなる。

 試験終了の日から、春休み明けの新歓イベントでの発表に向けて、部活の練習が再開した。ほっとするような、憂鬱なような、複雑な心境になって、誰にも気付かれないくらいの静かさで、そっとため息をつく。

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