冬の夜の闇は棘を持っている。歩く度に柔らかく皮膚に突き立つ。月明かりさえもない日は、痛みに流す涙も血も、誰にも見えない。自分にさえも。

「舞台に上がる時のコツ、か」

「ええ、何かあったら教えて下さい。緊張を紛らわす方法とか」

 自転車を押す早瀬の凍える耳と頬の朱は、街灯の頼りない明かりだけが照らしていた。彼女の緩やかな歩みで、自転車のライトは今にも消え入りそうな光の糸を地面に落とす。

「初舞台に上がる時の緊張を打ち消す手段なんて、恐らくないな」

「やっぱり、そうですか」

「でも舞台に上がってから、それを克服する方法ならある」

「なんですか?」

 早瀬が隣を歩く僕を見上げる。夜の落とす影の中、彼女は美しい。

「ふっきれる事だ。極端に言えば、もうどうなってもいいと思うんだ。意識的にやるのは難しいかもしれないが、そうする事で無駄な力も抜けて、動きに柔軟さも出る」

「へえ」

「僕も初舞台の時は、不良の役だったのに足が震えて参ったよ。この震えが、お客さんや他の部員に見られているかもしれないと思うと情けなくてね。演技に対する気負いや集中も全て打ち捨てて、どうでもいい、いつも通りやろうと思ったら、すっと緊張も震えも抜けたよ。その経験で、他の物事に対する度胸のようなものも身に付いたと思ってる」

「先生、不良だったんですか」

 小さく笑いながら、早瀬は言った。

「ああ、自我に目覚めたピノキオを、夜のいかがわしい店の客引きにスカウトするサルトーニという役でね、今でもセリフの一部を覚えているよ」

「どんな劇ですかそれ」

 早瀬は楽しそうに肩を揺らして笑った。その声に、自分の心にも少しだけ灯りが射す。出来るのならこうして、ずっと彼女が笑っているといい。僕の傍で。

 僕の傍で――。そのエゴの牢獄が、また僕の表情を奪う。皮膚に食い込む孤独の棘が、誰の為にも生きていない僕を、咎めているように思える。


 やがて早瀬のアパートに辿り着き、彼女は駐輪場に自転車を止めた。いつもこのアパートは、不思議な程に暗い。住居者が少ないのか、古びて黒ずんだ壁がそう思わせるのか、あるいはその両方だろうか。夜に溶け込みそうになりながらも、静かに威圧するように佇むその建築物を背景に早瀬が立つと、その暗さが、彼女の細い身体に圧し掛かっているように思える。

「じゃあな。そろそろ学年末テストも近いから、勉強もしておけよ」

「はい」

 背を向け歩き出すと、数歩行った所で小さな声に呼び止められた。

「先生」

「なんだ?」

 早瀬は先程立っていた場所から動かず、黙って僕を見ていた。距離のせいで小さくなった彼女と対比的に、アパートはより大きく見える気がする。彼女の意思とは無関係に、闇が彼女に纏わり付き、優しいようでいて暴力的に、冷たく抱き締めている。その白い皮膚にも、孤独の棘が突き立っているのだろうか。見えない血を流しているのだろうか。

「どうした?」

 彼女は何かを言おうと口を開き、噤み、俯く。

「何でもありません。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 小さく頭を下げ、アパートに向かい階段を上る彼女を見送った。冷たい鉄の扉が開き、暗闇の中に滑り込むように飲み込まれる。部屋の電気が灯ったのを見届けてから、僕は再び足を動かした。


 ***


「由美」

「ん?」

 ベッドの中で妻の名を呼ぶと、僕の腕の中でまどろみかけていた彼女は、眠そうな虚ろな声で答えた。

「そろそろ私のベッドに戻らなきゃ」

 起き上がろうと身体を動かす彼女の体を、両腕で捕える。

「由美」

「うん?」

「好きだ」

 助けてくれ。

「ふふっ、どうしたの急に」

 助けてくれ。

「好きだ」

 重ねた彼女の柔らかな唇は、ずっと僕の胸元で呼吸していたからか熱を持っていた。

「私も好きだよ」

 ルームライトの淡いオレンジの光の中目を閉じたまま、妻は幸福そうな微笑みで言う。

「愛してる」

「うん」

「僕の名を呼んで」

「俊」

「もっと」

 僕を求めてくれ。世界に繋ぎ止めてくれ。

「俊、俊、俊」

 彼女に名を呼ばれる度にキスをした。愛の言葉を囁き、唇を重ねる度に、ぽつぽつと心に小さな穴が空いていく。言葉と裏腹に心は着々と冷たくなっていく。そう感じる事に、絶望を覚える。

 愛しているのは嘘じゃない。僕はこの人を幸せにしたい。そうでなくては生きていられない。それなのに、頭を掻き毟り叫んで壊れてしまいたいような悲しみと孤独が、頭蓋の中を満たしていく。誰か僕を殺してくれ。いや、誰よりも強く生かしてくれ。

 抱き止めていた腕を放すと、彼女は自身のベッドに帰って行った。

「おやすみ、俊」

「おやすみ」

 優しく声をかけあって、僕達は目を閉じる。傍から見れば、それはとても幸福そうに。

 きっとまた今日も、夢を見る。

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