学校の多目的教室は、西欧の立派な洋館の一室になっていた。目を閉じればレンガ色の落ち着いた部屋の中、暖炉で薪が燃える音も聞こえてくる気がする。

 若くして著名な科学者アレックスは、大学時代から交際を続けていた美しいマリアとの華々しい挙式を先週終え、目の回るような忙しさの中で、妻と二人人生の隆盛を謳歌していた。ちょうど今も、先月執筆を終えたばかりの著書の第一版が届いたばかりである。

 舞台の中央には椅子が二脚。その一つにはマリアが座り、幸せそうな表情で編み物をしている。そこにアレックスが登場する。

「マリア、見てよ。僕の新しい本が完成したよ。これは君の為に書いたんだ。受け取ってくれるかい」

 アレックス役の三浦さんは、練習なので青のジャージ姿で床に膝をつき、椅子に座るマリアの手を大事そうに取った。

「まあ、ありがとう。嬉しいわ」

 マリア役の藤野さんは、慈悲深く優しげな微笑みでアレックスを見つめる。普段のポップに弾むような言動とは似ても似つかない落ち着きと口調で、その切り替えは本当にすごいと思う。

 暫しの二人の会話があった後、彼らの友人であるニコラスとエイミが、アレックス邸を訪れる。つまり、田中さんと、私だ。舞台に見立てた教室のスペースの端から、田中さんに一歩遅れる形で足を踏み出す。自然に。自然に。

「よう、アレックス。素敵な新居じゃないか」

「マリア、先日の式は素晴らしかったわ」

 エイミはマリアの古くからの親友だ。椅子から立ち上がり私達を歓迎する彼女と、私は抱擁を交わす。何度やっても慣れない。

 マリアは、私の親友。幼い頃から一緒に遊んで、手を繋いで沢山の所に行って、色んな話をした。優しくて、穏やかで、かわいくて、守ってあげたくなるような大切な存在だ。そんな彼女が、大恋愛の末、素敵な結婚式を挙げた。海辺の白い教会で、沢山の花がマリアを祝福する中、彼女は本当に天使のように笑っていた。私は心から彼女の幸福を喜び、その暖かな幸せが永遠に続くよう願った。彼女の手を取り隣に立つその人への未練を、忘れたふりをしながら。

 ニコラスと挨拶を交わしていたアレックスと、ふと目が合った。胸に棘が刺さるような痛みが走り、すぐに目をそらす。視界の端で、私の方を向いたまま微笑む彼が見えた。


 ***


「詩織さん、大分上手くなったねぇ」

 一場面の練習を終えた後、アレックス役の三浦さんが近寄って私に声をかけた。役を抜き切っていなかった私は、彼の――いや、彼女の接近にどぎまぎしてしまう。

「え、そうですか」

「うんうん」

 頷きに合わせ、彼女の後頭部で縛られた黒髪が揺れた。

「最初にやった時よりも断然気持ちが乗ってる感じがしたよ。導入の場面のアレックスに対する躊躇いなんて、台本に書いてないのによく伝わってきたからね。あれ、自分で考えたの?」

「は、はい……エイミだったら、どう思うかなって、考えながらやってました」

 さっきまで私に宿していたエイミの心が過って、目を見て話せない。私のもともとの対人能力の低さもあるけれど。

「そうかそうかぁ、かわいいやつめ。優秀な後輩が入ってくれて嬉しいよ」

 そう言って三浦さんは右手を伸ばして私の頭を撫でた。

「細かな表情の変化とかは、舞台からだとお客さんには伝わりづらいんだけどね」

「あ、そうか……」

「でも、感情が乗るってのはその後の動きにも活きてくるから、大事にしてね、その感性」

「はい」

 演者兼監督の田中さんの指示で、次の場面の練習開始のため登場人物達がそれぞれの位置に立つ。出番のない私は演者の動きのチェックのため、舞台正面、客席の位置に移動した。もっとも、空き教室に設置されていた机と椅子を端に寄せただけのスペースなので、客席とはとても呼べない。

「やっぱり全場面を通して客席から見る人が欲しいよねぇ」

「ね。弱小演劇部の最大の悩み所だよ」

「照明と音響もOGに頼むしかないし」

「高岡先生がもっと来てくれればいいのにー」

「ほんとだよねぇ」

 先輩達が部員の少なさを嘆いている。増えないで欲しいと思っている私は、学校の机を重ねただけの疑似客席に膝を抱えて座りながら、賛同出来ずに黙って聞いていた。

「じゃあ詩織さん、開始の合図お願い」

「はい」

 田中さんの指示を受け、「始めます」の言葉の後に手を叩く。これが演技開始の合図となり、練習の終了時点でもう一度手を叩く。

 この劇は、春に学年が変わった後に開かれる、新入生に向けた各部活の勧誘レクリエーションで演じられ、その後、夏の始めにある地区大会で発表を行う。今はまだ、見知った先輩達の中で、閉じられた教室での練習だからやれている。でも、あの広い体育館や、まだ見た事もない本物の劇場の舞台の上で、ただでさえ消極的な自分が演技というものをやれる気がしなくて困る。

 台本に綴られた、自分以外の誰かの人生の軌跡を、指でなぞるようにして心や体に重ね、声にして、指先の動きにまで乗せて演じるというのは、楽しいし、好きだ。でもそれを大勢の前でやる事を考えるとたまらなく不安で憂鬱になる。今度先生に、舞台に上がる時のコツを聞いてみよう。

 目の前では、先輩達によって台本終盤の場面が演じられ、いつの間にか狂った歯車がそこで止まる事もないまま、触れるものを巻き込みすり潰すかのように、悲鳴にも似た静かな轟音を立てて廻っていた。

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