第36話

 しばらくして、もうひとり常連が顔を出した。「ああ、どうも」と声をかけて先客の隣りに腰掛ける。

「ううっ、腹減った。珍湯麺を早いとこな」と、早口で店員に言いつける。

「いま仕事の帰り? 珍しいね、ビールを飲まないなんて」

「いや、これから行かなきゃなんないとこがあるもんでね。本当はギョウザも食べたいところなんだけど匂うとマズいんでね」

「大将、ついでに俺のも出していいよ」

 先の常連客もつられるように請求をする。

 二人の客が申し合わせたように湯気の立つ麺を啜りはじめる。箸の手を止めることなく黙々と食べつづけている。食べ終わるのに五分とかからなかった。

 仙造は何かを思いながらその様子を凝っと眺めている。

「いつ食べても旨いねェ。こればっかは他所で食べられないからね」

「そうそう。俺もこれが楽しみで仕事しているようなもんだから」

「ありがとうございます。そう言っていただくと張り合いがあります。これからも精進しますので……」

 仙造の正直な気持が言葉になって出た。

「ところでさあ、最近お宅のカミさんの顔を見ないようだが――」

 残りのビールを飲み干しながら訊ねる。

「そうそう。そう言えば姿が見えないね」

 もうひとりの客が顔を突き出すようにした。

「うちのですか? ここんとこ躰の調子が思わしくなくて、うちで休んでますよ」

 仙造は少し顔色を変えたあと、何かを思い出したように俯くと、客に目を合わさないまま、店では滅多に喫わないタバコに火を点けた。

 常連客ふたりが揃って「また来るわ」と決まり文句を残して出て行った。

 店にはまだ五人ほど黙々とラーメンを啜っている。


 仙造は、客の注文を従業員に任せ、ひしゃくを手にすると、寸胴鍋のスープをゆったりと掻き廻した。

 いつもと同じスープの出来に満足げな顔で鍋の中を覗きこんだとき、か細く悲しげな声でとみ子がしきりに呼ぶような気がした――。



              ( 了 )

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ず・ず・ず zizi @4787167

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