第7話 追記

 いつもながらの「行き当たりばったり」スタイルでしたが、今回も、いろいろ啓発・触発されることの多い旅でした。


 ① 悟り

 ② 大学日本拳法における2年生という位

 ③ 日本拳法団体戦に於ける中堅の存在意義

 ④ 行って帰る。能の初心と蘭位

 

① 悟り

 悟りとは自分で修行して自分で得るものと教わってきましたが、今回の私の体験から言えば、「無心になって戦う人間」に接することで、たいした修行などしていなくても悟ることができる(悟らさせてもらえる)。

 そんな実感を得たことが、ひとつの大きな成果でした。

 いったい、禅における最高の境地とされる「悟り」とは、私流の解釈では「自分が自分であることを確信する」こと。

 カント流に言えば、「純粋理性」という、アプリオリ(経験的根拠を必要としない生得的な性質)な精神(心の置き所・境地・精神的境涯)に至ること。

 禅もカントも、知識や経験を削ぎ落とした究極の自分(の精神)を追求することで、そこに最大の安心を見出そうとするのです。

 この世における金や地位や名誉や肩書きによって安心するのではなく、逆にそういうものすべてを捨て去り剥ぎ取った後に残る自分(禅に言う本来の面目)こそが、肉体が滅んで魂になった時に唯一頼りになる武器であり、拠り所であるというのです。

 もっと言えば、金や物や肩書きなどに依存して生きている人間は、そういうものが効力をなくした時(死)、それらと共にその人の魂も消えていく。

 禅で言う 「本来の面目」 「父母未生以前の自分」を知ることのない者は、二度と自分という人間に立ち戻ることはない。イエス・キリストの言う「永遠に暗闇の中でうめき続ける者たち」のことなのでしょう。


 なんのことはない。西洋人も東洋人も、考えること・生涯を通じて求めるべきものというのは一緒で、そのアプローチの仕方が西洋的な「論理(頭を使った思考)」で追求するか、日本的な「心(で接する)」か、という違いにすぎない。


 で、こんかい女子の戦いぶりを見て私は一時的にではあるにせよ、「悟る」ことができた。自分自身の根源的な精神的境地に至ることができたのです。

 坊主のように長い坐禅をすることなく、カントの如くに徹底的な哲学によって己の精神を研鑽・研磨するわけでもない。何気なく、ぼんやりと試合を見ていた時に、悟りともいい純粋理性とも呼ぶ心の境地に限りなく近づいた、というべきか。数十メートルも離れた所から彼女たちの(燃える)心と一体化することができたのですから。 人の形をした炎の塊となって試合場の中を縦横無尽に飛び回っている姿を見た時こそが、その瞬間でした。

 ですから、彼女たちには申し訳ありませんが、試合の勝ち負けには、ことさら関心はない。

 その素晴らしい踊り・舞いに、能に通じる「情念の表現」を見れたことが、私にとっての勝利だったのですから。


 続く



 2019年5月21日

 平栗雅人

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2019年 日本拳法 東日本大学リーグ戦 観戦記 V1.1 @MasatoHiraguri

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