第3話 昔の記憶

「あれは太平洋戦争が始まって二年ほど経った頃だったかな。ガダルカナル島での戦いに負けてパプワニューギニアの東部を守るために戦地へ送られたのだ。完全に劣勢な状況下に送られて、私はここで死ぬことになるのだと覚悟した」


 そう話し始めた生野さんの言葉に私は何も言うことが出来なかった。


「元々、貧しい農家の出身で山など自然が豊かな場所で育ったから、山であればある程度は経験がカバーしてくれると最初は思っていた。だけど戦地で目の当たりにした日本の山とは比べ物にならないほど見たことがない植物で覆われていてジャングル状態で、なおかつ敵の攻撃を避けながら戦わなければいけない状態にいつしか冷静な状態ではいられなくなった。


 高山地帯での移動による体力の衰退。転落しないように神経を集中しつつ、敵の銃撃に注意し、応戦する。さらには森の中にいる毒を持った生物や病気などにも気をつけなければならず、精神はすぐに限界になった。一緒に戦った仲間が次々と死んでいくことも辛かった」


 私は戦争を戦地で経験した人にしか分からないものを感じた。

 

 いつだって戦争を始めた張本人は戦地では戦わず、下の人間に、下に人間にとトップダウンでその役割を押し付ける。今の時代は少し変わったとはいえ基本的には変わっておらず、もっと悪いことに実際には隠れてないが影に隠れて代理戦争を違う国で起こし続けている。私はいつもニュースでそのことを目にするたびに堪えようのない怒りを周りに吐き出していた。生野さんの一言一言を聞くたびに怒りがフツフツと湧いてきていた。


「だけどな……」


 そう続ける生野さんの雰囲気と声の感じが少し変わった気がした。それまでの優しい包み込むような雰囲気から背筋が冷くなるものを感じた。


「戦地では絶対に避けられない、人を殺すということを一度でも経験した瞬間から自分の中で何かが壊れ始めてくるのだよ。私には戦地に配属されたその日がそうだった。


 仲間と合流してジャングルの中を進軍していると銃声が聞こえた。振り返った時には敵の姿が5mくらい先にいて、銃を構えて私を見ていた。


 こいつは私を殺そうとしている。


 それが分かった途端に私も銃を構え、引き金を引いていた。何度でも何度でも。相手に当たって動かなくなっていても撃ち続けていた。


 それまで訓練で銃を撃ったことはあるけれど、実際に人を撃つ、ましてや戦地で撃ち殺したことに自分でもパニックになっていることが分かった。だけどパニックの状態からどう落ち着いていいか分からず、周りの仲間たちの銃を撃つのをやめろという声も聞こえていて分かっているのに、引き金を引き続けてしまっていたのだ」


 頭では分かっているのに体がいうことを聞かないのは私も経験がある。パニックになると自分では抑えが効かなくなるのだ。周りが見えずにパニックになる人や場合もあるが、周りが見えている時のパニックほど余計にパニックになる傾向にある。生野さんもそのような状態だったのだろう。


 私は戦地でこのような状態になってしまった生野さんに深く同情した。


「生野さんはどうやってその状態から抜け出せたのですか?」


 壮大な経験を話している生野さんにようやく話しかけられたが、今の私にはこの言葉しかかけられなかった。


「一緒に訓練を積んで同じ場所へ配属された赤橋という男が、私の左頬を殴ってくれた。その痛みのおかげでようやく体の暴走が治まった。銃を撃ちっぱなしている男に殴りかかるなんて命知らずな行動だけれど、おかげで味方を攻撃しないで済んで助かったよ」


 安堵した表情に戻ったけれど、どこか悲しそうに話す彼に、私は赤橋さんの最期を悟ってしまった。


 人が人を殺すことはいけないことだと小さい頃から教わる。

 しかし教わっていても人を殺す人は一定数存在する。その理由を明確に説明することができる人はいない。しかし推論だけならいくらでもあげられる。その曖昧な状況が人が人を殺す状況が続いているのだろうと私は思っている。


 戦争はその全てを一度に特定の場所に集中して起きる特殊な事象だ。


 多くの兵士たちや将校たちも分かっていたはずだ。しかし戦争は国と国が争うことで起きる。互いの思惑は全て同じだ。自国民の生活を守り、国を発展させるために他の国や地域から資源を奪い合うため。または信仰する宗教の布教や奴隷服従させる地域を作るためでもある。

 そのためにどちらかが攻撃を仕掛けた瞬間に、憎悪の連鎖が編み込まれていく。何世代にも渡って複雑に絡み合い、解くことができなくなったまま現在に至っている。


 個人は自分の命を守るために、家族や大切な人たちの命を守るために。国の舵取りをする人たちは同じく自分の命のために、国民の命のために、国益のために。また、その国が存在し、その国に所属していると言うアイデンティティのために。

 そして先天的に人を殺すことを何も思わない一定数の存在と戦争によって後天的に狂わされて何も思えなく感じることもなくなってしまった人たちが、さらに鎖をがんじがらめにして泥沼に追いやっていく。


 戦況に有利な方や勝利した国は傲慢になり圧政を敷き、歴史を自分たちの都合がいいように作り変えてしまう。戦況に不利な方や敗北した国は悲壮感や一発逆転のために命を投げ出していく。これを両者とも後世に引き継いでいく。


 同種族を身勝手に殺していくのは地球上では人間だけだ。どんな生物にも利己的であることには違いないが、あくまで生存本能に従っているだけである。微生物はどうかは分からないが、脳がある程度発達している生物や植物は特定の感情を持っていると言われている。


 私は医者になるために勉強していた時も、医者になって仕事をしている今も「人は脳を発達させすぎた」という持論を持っている。しかし同時に「感情を司っている大脳辺縁系と呼ばれる箇所を制御する前頭前野がまだ十分に発達しきっておらず発達途上である」という矛盾した考えも持っている。


 というのも生物が同種族を殺しあう時は縄張り争いか群れを統率するボスの交代時だけである。だからこれを人間に置き換えてみれば、いささか変わりはない。集団で生活することを学び、生殖力と生育力を上げていき、そのために必要な医療も発達させていき宇宙にもいけるほどに知能と感情を発達させてきているが、つまるところ人間は未だに本能を抑えることが出来ていないのだ。


 もちろんそれが出来てきている人は少なからずいる。しかし圧倒的に少なく、そういう人たちが国のトップになることは今現在は出来ない。


 私はニュースで紛争地帯の映像を見るたびに人として、医師としていつも胸が締め付けられていた。


「赤橋さんはどのような方だったのですか?」


 私は生野さんを正気に戻した赤橋さんのことが気になった。


「赤橋は同じ訓練所で、入った時期も近くてな。最初に挨拶をした時に男気があるやつだとすぐに分かったよ。とにかくまっすぐで曲がったことが嫌いなやつだった」


 当時を思い出しながら、懐かしむようにゆっくりと語り始めた。


「私の生まれた家は貧しい農家だった。だから四人兄弟の長男として小さい頃から農作業を手伝い、進学は諦めた。まだ小さかった兄弟たちを食べさせるために必死に働いた。だが、それでも貧しい状態は変わらなかった。


 ちょうどその頃太平洋戦争が始まり、徴兵される噂を聞いたときに兵士を志願しようと決めた。兵士になれば決まったときにお金が支給されるから、少しはマシになるかと思ったからだ。それに働いても働いても貧しい状態が続いていたことに嫌気がさしていたのもあった。

 だから私は愛国心があったからとか、兵士になりたかったわけではなく、その環境から逃げたくて兵士になっただけなのだよ」


 当時は今と違って品種改良もさほどされてないはずだから天候や害虫などの影響を受けやすかったのだろう。それに加えて当時の日本は多くの欧米の植民地を解放していったので軍備増強が進んでいたために農作物を納める量も増えていったはずだ。

農家の苦労は相当なものだっただろう。


「私とは対照的に赤橋は親子代々続く軍人の家系の出身だった。それは誰が見ても明白で、ハキハキした大きな声に背筋がピンと伸びていて、動きもキビキビしていた」


「最初に赤橋さんを見た印象はどうでしたか?」


 わたしはよくドラマで見かけるようなイメージを想像した。私は何となく生野さんとは合わなそうな感じがしたので思わずこの言葉が出てきてしまった。


「印象かね?性格が悪そうな感じはしなかったが、私とは絶対に合わないだろうなとは感じたな。ガタイも良かったし、あまり近づきたいと思わなかった。

 それともう一つあって、私も農作業で筋肉はついていたが、彼は裕福な家庭で育った上に筋肉もついていて全てに負けていたからな。男の子プライドというのかな。全て劣っていたから隣にはいて欲しくなかったな」


 やはり男というのはいつの時代でも変わらないのだなと自然と口がほころんでしまった。


「それにな……」


「それに?」


 そのあとに続く言葉に私はすぐに勘付いた。何度も思うが昔も今も本当に変わらない。それが本能なのだろう。私は口元が緩みそうになるのを必死でこらえながら続きを聞くことに集中した。


「顔立ちも整っていて、凛々しい太い一文字の眉。頬骨が適度に出ており、今でいう中性的な顔立ちをしていた。この顔立ちに男気があり、仲間思いで優しいとなれば女性にも人気だった。訓練所と同じ敷地内にあった従軍看護婦を養成する施設の女性からいつも黄色い声が飛び交っていたよ」


「羨ましかったですか?」


「人はあまりにも自分とはかけ離れたものには嫉妬のしの字も浮かばないのだよ。女性が惚れてしまうのがわかるように、男の私でも惚れてしまいそうになるような不思議な魅力を持っていた。これは私だけでなく他の仲間たちもそうだったと思う。現に惚れ込んでしまい、そばにつきっきりのやつもいたしな。私はこの長い人生で赤橋のようなやつを一度も見たことがない。それほどまでに完璧な人間だった」


「私も赤橋さんに会いたかったな。きっと年を重ねても格好良かったでしょうね」


「やはり気づいておったか」


「はい。生野さんの口調と表情から、今はもう……」


「ああ…… 今はもうこの世にはいない。訓練所で寝食を共にし、部屋も同じだったから毎日一緒にいた。お互いの生い立ちや好きなこと、嫌いなことなどお互いの今まで生きてきたものを全てさらけ出した。裸もさらけ出したしな。ははは!」


 途中まで悲しそうだったのに、途中から下の話にして笑いに変えたのは、きっと生野さんの心の中で悲しいものにしたくはなかったのだろう。


「とにかくいろんな話をして、たくさんのことを一緒に経験した。家庭での食事の違いだったり、着るものの違いだったり、従軍看護婦の養成施設で誰が好きかとか。本当にたわいもない話をした。訓練中に失敗してお互いに上官に怒られたこと。些細なことから殴り合いの喧嘩をしたこと。その全てが私にとって戦時中の不安な世の中の心の支えになった。彼と一緒にいるならば戦争で死ぬことなど怖くはなかった」


「本当にかけがえのない人だったのですね」


「ああ。同い年だったこともあったから兄弟というより、家族だった。いや家族以上に家族だと感じたな。それまでの私は家族のためと毎日をただ単調に農作業をして過ごしていた。でもそれは家族がいて、長男だからやっていたのだとそこで初めて気づいた。そこに『私』はいなかった。生きている実感がなかった。だから何でも話せる赤橋には生きて欲しかったし、戦争の勝ち負けなんてどうでも良かった。一緒に生きて帰って、お互いに家庭を持ち、家族同士で繋がって、友情関係も年を取っても続けたかった……」


 生野さんの声と肩が震え、頰に涙が伝っていくのが見えた。私はかける言葉が見当たらなく、ただただ、生野さんを優しく見守ることしかできなかった。

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